人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年5月7~9日/蔵原惟繕(1927-2002)と日活映画の'57~'67年(3)

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 これだけは恥ずかしい懐メロ曲の筆頭に上がるのはGS歌謡の代表曲「小さなスナック」、デュエット曲なら「銀座の恋の物語」なのは昭和生まれの日本人なら誰しもが知ることで、歌っている本人は楽しくても聴かされる方は恥ずかしくて仕方がないからですが、意外にも「小さなスナック」のパープル・シャドウズの同曲収録アルバムは日本の'60年代ロックのなかなかの名盤で、同曲のヒットを受けて製作された松竹映画「小さなスナック」'68.9も斎藤耕一監督・藤岡弘主演の歌謡青春メロドラマの小品佳作です。斎藤耕一今井正作品のスチール・カメラマン出身で日活でも活躍し中平康の『月曜日のユカ』'64の脚本も手がけた才人で、テンプターズPYGのあと映画助監督をしていた萩原健一が主演俳優の降板のあと岸恵子の相手役に代役出演したら俳優として出世作になってしまった(それ以前に東宝の内川清一郎監督のテンプターズ出演映画『涙のあとで微笑みを』'69で主演していましたが)『約束』'72で'70年代日本映画のヒットメーカーになった監督ですから『小さなスナック』も顧みられていい作品ですが、公開当時大ヒットし観た人はみんな良さを知っているにもかかわらず、後世では主題歌(というか、曲のヒットを機に同曲をモチーフとして作られたから原案曲というべきか)の嫌々ながら女性が男につきあわされて歌っているパワハラ的かつセクハラ的イメージの強い曲の認知度のせいで怖いもの見たさを乗り越えないと素直に観られない敷居の高い映画になってしまったのが歌謡メロドラマ『銀座の恋の物語』で、これが同年早くも2作目でさらに続けて『憎いあンちくしょう』『硝子のジョニー 野獣のように見えて』と送り出した蔵原惟繕は監督デビュー5年目で絶頂期に達した観があり、東京オリンピック前の銀座を舞台にした都会映画としても文化財的価値があります。作品としては『憎い~』『硝子の~』でさらに冴えるのですが、これだけ通俗的な題材を大衆性たっぷりに展開し、締めるところはきちっと締めた手腕は並々ならぬ自信あってこそと思われ、映画を観たあとだと「銀座の恋の物語」という曲への偏見も洗い流されるほどで、ご覧の方には何を今さら、未見の方には何でそんなものと思われる映画でしょうが、'60年代の日活映画にこれがあるのとないのでは大きく違う。宍戸錠主演の『硝子のジョニー~』も観直したかったのですが今回は石原裕次郎主演の2作に蔵原作品はとどめ、近年再評価の進んだ古川卓巳宍戸錠主演作『拳銃残酷物語』を続けて観直しました。なお、歴史的意義を鑑みこれら日活映画については初公開時のキネマ旬報の紹介文を引用させていただきました。

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●5月7日(火)
蔵原惟繕(1927-2002)『銀座の恋の物語』(日活'62.3.4)*93min, Color : https://youtu.be/Xa7aMt2rvVI (trailer)

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 このブログの映画感想文はいささか長すぎるんじゃないかと毎回反省しているのですが、筆者は学生時代映画を観て帰宅するといつもこのくらい長さの映画日記をつけていたので、雀百までではありませんが癖というのは抜けないものです。本作の石原裕次郎はプライドの高い貧乏画家で、ジャズ・バンドでキャバレーの箱バン仕事をして生計を立てているピアニストで作曲家のジェリー藤尾と二人で共同のアパート暮らしをしており、顔の広いジェリーがたまに引き受けてくる銀座の店の装飾デザインが裕次郎の数少ないアルバイトです。裕次郎は洋裁店に勤める恋人の浅丘ルリ子がおり、ジェリーもキャバレーをクビになって月賦のアップライト・ピアノを回収されそうになれば、ジェリーの曲に歌詞(これが「銀座の恋の物語」になる)をつけて自分たちの愛の歌だと囁いていた浅丘に対してもいじらしくなってくる。結局裕次郎は誘いのあったデザイン事務所に就職を決めて自信作で二人の宝物だった裕次郎自作の浅丘の肖像画を画商に売り、浅丘の長野の実家に結婚申しこみのあいさつに行こうと駅で待ち合わせるのですが、浅丘は職場で駆けこみ仕事に追われて待ち合わせに遅れそうになり、急いで駅に向かう道すがら車に跳ねられてしまいます。出発する列車に乗らずにプラットフォームで茫然とする裕次郎。浅丘はそのまま行方不明となり、裕次郎は警察に事故者の女性はいないか訪ねますが、交通事故死した女性の所在を知らされ駆けつけると浅丘とは別人でした。浅丘は行方不明のままで裕次郎はヤケ酒に浸り、やがて裕次郎とジェリーはピアノを回収しに来た月賦屋と乱闘して留置場に入れられますが、釈放されてみるとアパートは取り壊されビル建設用の更地になっている。ジェリーは去ってしまい(先にバンドがキャバレーをクビになった時楽屋裏で密造酒を発見し闇組織に勧誘される伏線が敷いてあります)、やがて裕次郎は浅丘がデパートのアナウンス嬢になっている浅丘を発見すると、浅丘は別名を名乗っていて事故以前の記憶をすべて失っているのが判明します。つまり本作は『哀愁』や『君の名は』のすれ違いメロドラマに『白い恐怖』風記憶喪失を絡ませた仕組みで、記憶喪失というのはフィルム・ノワール作品にはよく出てくる趣向ですが本作ではメロドラマ内のサスペンス展開に結びつけてある。そういう意味では先行作品のおいしいとこ取りの焼き直しでできているのが本作ですが、ここまででおおよそ見当がつくように浅丘の記憶を取り戻す鍵がジェリーの伴奏で裕次郎と浅丘が歌う「銀座の恋の物語」の歌で、また裕次郎の描いた浅丘の肖像画なのは映画の物語法則というもので、だったら一見簡単そうな歌と肖像画をなかなか取り戻せないじれったさが本作後半のサスペンスになってくる。いくら何でもハッピーエンド以外に裕次郎と浅丘のロマンス映画がならないわけはないのでサスペンスといっても微温的なものですが、どうせハッピーエンドだろうと余裕を持って観られるからこそ観客も適度にリラックスして展開を楽しめるので、映画の大衆性の高さにはこのくらいがちょうど良いことになります。本作も公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ]「アラブの嵐」の山田信夫と、「男と男の生きる街」の熊井啓が共同で脚本を執筆、「メキシコ無宿」の蔵原惟繕が監督した歌謡メロドラマ。撮影もコンビの間宮義雄。
[ あらすじ ] 伴次郎(石原裕次郎)はジャズ喫茶のピアノひきの宮本(ジェリー藤尾)と一つ部屋を仕切って同居する絵かきで、「銀座屋」の針子秋山久子(浅丘ルリ子)を愛していた。そして二人は一緒に考えた"銀座の恋の物語"を大事に胸に秘めていた。次郎と宮本は苦しい生活の中で助けあった。次郎は久子の肖像画作成に没頭した。一方宮本はバーテンたちの企みで、クラブをクビになってしまった。次郎は久子と結婚するために信州の母のところへいくことになった。田舎いきのため、次郎は今まで売ろうとしなかった久子の肖像画を春山堂に売り払った。出発の日新宿へ見送りにいった久子は、横からとびだした車にはねられてしまった。久子は事故現場から姿を消したままになっていた。次郎にはやけ酒の日が続いた。ある日宮本のピアノをひきあげにきた月賦屋(峰三平)を次郎と宮本は悪酔いが手伝って殴り、留置所にいれられた。次郎と宮本が釈放されて帰ってみると、二人の家は消えてなくなり、「銀座屋建築用地」の立札。宮本は憤り、次郎のとめるのもきかず、何処かへきえ去った。幾週かがすぎ次郎は久し振りで宮本にあった。宮本は豪華なアパートに住み、次郎の描いた久子の肖像画をもっていた。宮本の部屋からでた次郎はデパートに流れる久子の声を耳にした。久子は記憶喪失症になっていた。次郎は久子の記憶回復につとめ、二人の記憶がつながる肖像画を買いとりに、宮本の所へ行ったが彼は絵を手ばなさないといった。その時電話がなり、宮本は蒼然と外へとび出していった。彼は偽スコッチ製造の主犯だった。彼はひそかに久子をおとずれ、例の肖像画をおいて、そそくさとでていった。数日後、春山堂で次郎の個展がひらかれ、会場に流れる"銀座の恋の物語"のメロディに久子の記憶は回復した。
 ――キネマ旬報のあらすじでは触れられていませんが、本作では裕次郎とジェリーの共同貧乏生活のエピソードにジェリーを通して裕次郎にファッション店の装飾デザインを頼んでギャラを持ち逃げする詐欺エージェント「公衆社」社長役の深江章喜(裕次郎とジェリーが公衆社の住所を訪ねると公衆便所が立っています)や、浅丘の働く洋裁店のおかみさんの清川虹子や妹分の和泉雅子の役所、さらに唄の上手い(街頭のど自慢で1曲披露する)婦人警官(笑)の江利チエミが浅丘の行方を探す助けをしてくれるうちに裕次郎に惚れてしまう、など細かい役のキャラクターも多く、ジェリー藤尾の率いるバンドはテナーのワンホーン・カルテットですがジェリー以外のテナー、ベース、ドラムスのメンバーも売れないジャズマンらしさが漂う好演で、また裕次郎と浅丘の住まいのどちらからもよく見えるビルの屋上でトランペットの早朝練習をしている青年(小島忠夫)がいて、毎回地上からのロングでしか映らないのですがこの青年の登場も映画全体のモチーフになっている。ジェリーが作曲した設定の主題曲もジェリーの演奏では本来まったくソノリティやハーモナイズが異なるアブストラクトな楽曲を裕次郎が勝手にジャズ歌謡風に解釈して歌詞をつけて歌ったことになっており、奇しくもこの映画の成り立ち自体を語っているようです。つまり素材自体は原型をアブストラクトの次元にまで解体したようなものなのですが、それをパッチワークのように歌謡メロドラマの構成に組み立ててあるのがこの映画で、満遍なく歌謡メロドラマでありながら実は発想はメタ映画であって、すれ違い型メロドラマのパロディすれすれの線をいきながらパロディを感じさせない作品に仕上げている。山田信夫脚本・間宮義雄撮影と『狂熱の季節』では蔵原惟繕とともに全力で観客の神経を逆なでする映画に向かったのが、今回は観客を乗せるくらいわけはないという余裕で裕次郎と浅丘の歌謡メロドラマで観客を手玉にとってみせたので、感覚的なテクニシャンの蔵原惟繕だからこそ『ある脅迫』や『狂熱の季節』から本作までの振り幅が可能だったとも言え、大島渚吉田喜重のような硬派の監督ではこうはいきません。本作が惜しまれるのは本物の銀座の野外ロケと思われるシーンが期待されるほど多くはないことで、裕次郎のような多忙なスター主演だと室内セット、屋外でも撮影所のオープンセットのシーンがどうしても主要になる。川内民夫主演の『狂熱の季節』のように野外ロケを多用して本物の不良青年ののさばる映画はもう裕次郎では作れないのをスタッフも了解しており、では本作のような歌謡メロドラマではない狂暴な裕次郎浅丘ルリ子のロマンス映画は作れないのか、という回答には早くも次作『憎いあンちくしょう』が出てくる。傑作『憎いあンちくしょう』は本作の構想と平行して生まれた発想ではないかと思われるのです。

●5月8日(水)
蔵原惟繕(1927-2002)『憎いあンちくしょう』(日活'62.7.8)*105min, Color : https://youtu.be/iwyuhZhLG3U (Fragment)

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 本作の石原裕次郎は無名の文学青年から2年前に書いた歌詞の流行歌の大ヒットで一躍時代の寵児となったマルチタレントの大スターを演じており、歌謡曲全盛時代とはいえまさかここまではと思えるのですが、案外これには青島幸雄や永六輔といった実在のモデルがあるのかもしれません。日本語版ウィキペディアでは本作を「マスコミの寵児である主人公とそれを追うマネージャー兼恋人がジープとジャガーで東京から一般道で日本列島を縦断、阿蘇に辿り着くまでを描く。山田信夫のオリジナル・シナリオによる青春映画であり、日本初のロードムービーともいわれる」と簡潔に紹介しており、また「蔵原惟繕監督の浅丘ルリ子による典子三部作の第1作目に当たる(他は『何か面白いことないか』1963年、『夜明けのうた』1965年)」ともしています。3作とも山田信夫脚本、間宮義雄撮影ですが石原裕次郎主演の『何か面白いことないか』はともかく『夜明けのうた』は岸恵子のヒット曲から企画された歌謡メロドラマで浜田光夫が相手役、さらに蔵原惟繕監督作品は『何か面白いことないか』と『夜明けのうた』の間に川内民夫主演の問題作『黒い太陽』'64と浅丘ルリ子出演100本記念作品『執炎』'64を挟みますから、裕次郎が昭和38年を最後に石原プロモーションを設立して独立し出演がかなわなかったとしても『夜明けのうた』はちょっと違うのではないか、という気がします。本作が宍戸錠主演の『硝子のジョニー 野獣のように見えて』'62を挟んでも『何か面白いことないか』につながっていくのは金も名声も女もつかんだ主人公がなお物足りないというテーマで、早い話は石原裕次郎は成り上がり太陽族のなれの果てというセルフ・パロディぎりぎりの役を演じているので、これは観客にはそんな倦怠した裕次郎なんか見たくない、という反発を抱かせかねないかなり危険な企画です。それを『銀座の恋の物語』が春先に大ヒットしたすぐあとの初夏にやってのけるあたりが機転の速さであり、また前年は怪我のせいで出演作は正月の1本と年末の3本にとどまった裕次郎も俳優デビューが5年を越えてすでに日活から独立して自己ペースの活動に切り替えたいとプロダクション設立を準備していたと思われ、専属俳優時代に年間10作以上のペースで映画出演していたのが翌昭和38年('63年)からは年間4~5作ペースかそれ以下になる。昭和37年のうちは来る企画拒まずどころか『銀座の恋の物語』から本作の振幅に受けて立ったとも思えます。また石原慎太郎脚本の監督第1作『俺は待ってるぜ』'57から第18作の本作では何が違うって脚本の集中力が違う。山田信夫の腕前でもありますが同じ脚本でも狙いの生かせない監督・カメラマンだったらこうはならなかっただろうと、あまり使いたくない言葉ですがプロの仕事を感じさせる。石原慎太郎脚本でヒューマニズムなどという台詞が出てくるとやれやれと悩ませられますが、山田脚本では生硬な台詞はちゃんと多義的な意味を持つのでそれに見合った演出が可能になる。もっとも本作は着想の類似点がある著名作があり、裕次郎主演映画のため一見して気づきづらいのですが、新旧世代の純愛を対比させて反純愛映画から純愛を描きだすという本作は大島渚の『青春残酷物語』'60への『狂熱の季節』の監督からの2年遅れの回答とも言えます。この作品も、初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ]「上を向いて歩こう」の山田信夫のオリジナル・シナリオを「銀座の恋の物語」の蔵原惟繕が監督した青春ドラマ。撮影はコンビの間宮義雄。
[ あらすじ ] 北大作(石原裕次郎)はマスコミから追いまわされる「現代のヒーロー」で、映画出演、テレビ座談会、司会、原稿執筆等々、一分一秒まで予定で埋っている。そんな彼を支配するのは、マネジャー兼恋人の榊典子(浅丘ルリ子)という近代娘。二人は二年前から「ある瞬間」がくるまで、指一本ふれないという約束をかわしている。時間で動く機械のような生活に倦怠を感じている大作の前に、井川美子(芦川いづみ)が現れて情勢は一変した。「ヒューマニズムを理解できるドライバーを求む。中古車を九州まで連んでもらいたし。但し無報酬」という奇妙な三行広告が、大作の受け持つテレビ番組にとりあげられたのが事の始まり。美子の恋人で医師の敏夫(小池朝雄)は、九州の片田舎に住んでもう二年も離れたままだが、今なお二人の間には純愛が続いている。大作の体中の血がたぎった。「僕が運びます!」彼が本番最中のテレビ・スタジオを飛び出したので、典子やディレクターの一郎は大あわて。典子はスポーツ・カーで、ジープを飛ばす大作を追った。いち早くこの事件から新番組を企画した一郎たちの取材班、新聞社の車がそれに続いた。静岡、豊橋、名古屋、京都――。典子は愛する大作の突飛な行動を正当化し、話題の焦点にしようと一芝居打つが、それは失敗に終った。大作の心には、井川美子の純愛をたしかめることしかないのだ。幾多の困難を排してジープは一路九州へ。福岡の山笠まつりの混乱の中で、群衆にもまれた典子は大作に救い出された。大作は典子との間にあった倦怠が崩れ、ついに「ある瞬間」がやってきたのを知った。阿蘇の大噴火口を越えると、目的地は近い。洗川村では美子と敏夫が大作を待っていた。ジープを渡した大作は、東の空にのぼる太陽を見つめて、典子に叫んだ。「さあ、きょうから僕たちの第一日目だ!」と――。
 ――実はこのキネマ旬報のあらすじはシノプシス段階の日活の広報資料によるものではないかと思われる点が多々あり、実際の映画と違いすぎる箇所が多すぎるので試写段階より前に作成された紹介文なのは間違いないでしょう。あえて映画の内容に即して修正を加えず引いた次第です。実際の映画のニュアンスはこのあらすじよりもっと激情的なもので、一介の無名詩人から一躍分刻みのスケジュールに追われるマルチタレントになった裕次郎はマスコミ世界の虚飾に飽きあきしており、マネージャー兼恋人の浅丘ルリ子(『銀座の恋の物語』の純朴な洋裁店店員ヒロインから一転して最先端ファッションに身を包んで現れます)とも「730日の交際」を経てなお関係を留保している。浅丘がマスコミの虚飾をそのまま甘受している女だからですが、そこで無報酬で中古ジープを東京から九州の山奥まで届ける運転手募集をしている芦川いづみの存在を知る。たまたま出演するテレビ番組の話題に取り上げられたので興味を持っただけですが、裕次郎や浅丘より一回り年長の芦川は3年前に九州の無医村地帯で働く恋人の医師の小池朝雄のために東京に出て働きようやく巡回医療のために欠かせない中古ジープを購入し、3年間一度も会う機会がなく文通のみで愛を育んだという芦川に裕次郎はあきれますが、3年間の手紙を書き写したというノートを渡されて芦川と小池の愛の行方を確かめたくなりジープの輸送を承諾します。スケジュールに穴を空けるこの依頼の承諾に浅丘は猛反対しますが、裕次郎ジープを取りに行くと老若男女のファンが裕次郎を讃えに押し寄せマスコミは美談として大ニュースにする。裕次郎は売名行為じゃないかと怒って話を断ろうとしますが、今度は浅丘が社会的責務よと乗ってしまう。そして裕次郎ジープで出発し、浅丘は世話と監視のためジャガー裕次郎を追うのですが、結局約束の時間と場所に中古ジープは届けられない事態になり二人はジャガーで九州の山岳地帯を進み、ジャガーは崖から転落してしまい裕次郎はかろうじて浅丘を助け出す。現地では特別番組のためにテレビクルーに囲まれた芦川と小池が3年ぶりに再会して待っている。ボロボロの姿でようやく到着した裕次郎は芦川に手紙の写しのノートを渡し、アナウンサーは芦川と小池から談話を取ろうと前口上に芦川らの愛を讃えますが浅丘は思わず「そんなの愛じゃない!」とボロボロの姿で叫びます。芦川と小池はひと言も発せず取材陣に囲まれて立ちすくみ、ディレクターはこれじゃ番組にならないじゃないか!と地団駄を踏みます。裕次郎と浅丘は小高い丘に駆け上がって草むらに倒れこみ、ついに熱烈な抱擁とキスを交わします。そのままカメラは上にパンして大陽を映して終わります。……と、『銀座の恋の物語』の直後に同じ監督・脚本・カメラマンで、同じ主演コンビの恋愛映画でもこうも違うかと驚き感嘆させられるのが本作で、日活専属時代最後の年の石原裕次郎主演作の傑作であり、大陽の真下で結ばれるラストも鮮やかです。ロード・ムーヴィー形式の作品のため野外ロケが多用されているのも良く、裕次郎主演作のため予算も潤沢だったかシークエンスごとの美術や撮影も非常に手がこんでいる。裕次郎自身が実際に分刻みのスケジュールの大スターだったため撮入段階以前に綿密なプリプロダクションが行われているのは間違いなく、シノプシスや脚本では華やかで明朗な青春ロマンス映画としておいて撮影台本ではちゃっかり挑発的な内容にすり替えて出来ばえで押し通してしまったと思われますが、本作の裕次郎・浅丘と芦川・小池の二組の新旧世代のカップルの対比は川津祐介桑野みゆき久我美子渡辺文雄(やはり貧困街の医師です)で新旧世代のカップルを対比させた大島渚の『青春残酷物語』が念頭になかったはずはなく、昭和35年6月公開の『青春残酷物語』の大ヒットが同年10月公開の蔵原惟繕監督作品『狂熱の季節』の企画実現に結びついて、『狂熱の季節』は蔵原作品に初めて山田信夫脚本・間宮義雄撮影のトリオが揃った作品でしたが、川地民夫・千代侑子と松本典子長門裕之の新旧世代のカップルを対照させる手段に川内民夫の無軌道な野生味が勝ちすぎてドラマの構成は弱くなりました。しかし本作では芦川いづみ小池朝雄の登場場面はそれこそ『青春残酷物語』の久我・渡辺の登場場面より少ないのですが、裕次郎と浅丘の行動が芦川・小池との対面に向かうためであるため芦川と小池はクライマックスで取材陣に囲まれ無力に立ちつくすだけで十分役割を果たしている。何しろ直前に崖下に転落するジャガーからすんでのところで脱出した裕次郎と浅丘の姿が観客の脳裏には鮮明に焼きついているので、芦川と小池の純愛を讃えるアナウンサーの紹介に「そんなの愛じゃない!」と叫ぶ浅丘のボロボロな姿には説得力があり、細かい説明はせず「あんたにこれを届けに来た」とノートを渡す裕次郎は憔悴しきったボロボロの姿だけで雄弁です。ツッコミを入れるとすれば本作の大スターの裕次郎ならわざわざ自分で芦川の買った中古ジープを九州まで届けなくてもスポンサーに呼びかければ電話1本で新品のジープを九州の小池に寄贈できるではないか、売名行為だと言って一度は止めようとするのなら売名と割り切るのも合理的ではないかと思いますが、裕次郎の行為はジープを九州まで運転して運ぶこと、浅丘がどこまでついてこれるか、芦川と小池の愛とはいったい何なのかを自分の目で確かめることにあるので、電話1本で新品ジープを寄贈と観客のツッコミが入る流れには決してならない映画になっている。本作は単独でも傑作ですが、『銀座の恋の物語』を先に観ていて、また『青春残酷物語』と『狂熱の季節』を観ているとさらに蔵原惟繕の達成が感じられる作品です。

●5月9日(木)
古川卓己(1917-2018)『拳銃残酷物語』(日活'64.2.1)*87min, B&W : https://youtu.be/MwC21kHLWOE (Full Movie)

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 古川卓巳監督は監督デビューは日活ですが戦中すでに映画界入りしていた、中平康蔵原惟繕舛田利雄らと較べても10歳あまり年長の監督で、それを言えば鈴木清順古川卓巳と中平・蔵原・舛田らの中間の生まれですが川島雄三と同様新しい感覚を持っていたのに対して古川の場合は大陽族映画第1弾『大陽の季節』'56,5がプロデューサーの水の江滝子も監督手腕の古くさい失敗作と見なした(しかし原作の話題性から大ヒット作になります)のももっともかな、と思えるので、同作の端役出演でデビューした石原裕次郎の初主演作で中平康監督の『狂った果実』'56.7と観較べると古川卓巳がかわいそうになるのですが、プログラム・ピクチャーの監督としては堅実な手腕を買われ日活の経営陣交代まで作品を量産します。ところが近年これは隠れた傑作ではなかろうかと欧米の映画批評家から再評価されることになったのがエースの錠こと宍戸錠主演の本作で、同年の『死にざまを見ろ』と並んでハードボイルド・アクションの佳作として西脇英夫ら諸氏からは古川卓巳作品でも出色の出来と語られてきたものですが、欧米の批評家は鈴木清順宍戸錠経由で日活作品を当たって本作や野村孝の『拳銃は俺とパスポート』'67に行き着いたとおぼしく、監督違いでもありそれぞれ異なる特色を持つ作品であっても『拳銃残酷物語』『拳銃は俺のパスポート』、そして鈴木清順作品『殺しの烙印』'67をつなぐ線は確かにあるので、宍戸錠という主演俳優の強烈な個性が鮮烈に開花した作品として充実した本作を観るとあまりぱっとしなかった『大陽の季節』は古川卓巳の腕前というより題材とキャスティング、企画の不徹底さが具合悪かったという気がします。あれはあれでヒット作になったので良しとすれば、本作はアクション映画監督としての古川監督の腕が冴えた作品で、鈴木清順級とまでは行かずより若い世代の野村孝の感覚にはおよびませんが、清順作品のけれん味の強さとは違う抑制が本作の美点になっている。また当時の日活のアクション映画は原作や監督、脚本家が違っても一定のムードや人物配置があって、宍戸錠主演の『拳銃は俺のパスポート』に本作が似ているだけでなく清順監督の渡哲也主演作『東京流れ者』'66にも一部似た人物配置があるので混乱しますが、影響関係というよりも当時裏稼業の世界を描くと大なり小なり似たような設定が出てきてしまったということでしょう。本作は清順監督の高名な『野獣の青春』'63の翌年作で観きれないほどある宍戸錠主演・出演作の1編ですが、脚本も撮影も標準的ながら美術にも手抜きはなく(連続して作られた日活作品からの転用かもしれませんが)、また悪夢度の高さが妙に唐突かつ安易なためにかえって効果的になっている作品です。本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 大藪春彦の同名小説を「男の紋章 風雲双つ竜」の甲斐久尊が脚色、「俺は地獄の部隊長」の古川卓巳が監督したアクション・ドラマ。撮影は「学園広場」の伊佐山三郎。
[ あらすじ ] 仮保釈になった登川(宍戸錠)とに、伊藤(山田禅二)は早速仕事をもちかけて来た。日本ダービーの売上金一億二千万を頂こうというのだ。仲間は白井(小高雄二)とボクサーあがりの岡田(井上昭文)、用心棒の寺本(草薙幸二郎)。現金輸送車を襲う計画は雑木林に誘いこみ、車ごと大型天蓋トラックに巻きあげるという案に決った。登川には療養中の妹梨枝(松原智恵子)がいた。やくざ稼業ながら肉親の妹に対する愛情は細やかだった。やがて目的の日がやって来た。寺本の誘導で輸送車を雑木林に乗り入れた登川らは、護衛を射って輸送車を廃墟に運んだ計画通りだ。輸送車に乗っている二人の警官を排気ガスでいぶし出した白井らは、そこで事の次第を見ている圭子(香月美奈子)を見た。伊藤の言いつけで監視していたのだ。犯罪史上空前の大事件を起した登川らも、伊藤ら大ボスの金もうけの道具にすぎなかったのだ。警官とのうちあいで肩に傷をうけた白井をかばいながら、登川は捜査陣の包囲の中をショットガンを撃ち続けた。凄絶な拳銃戦のすえ冷くなった白井の死体を引きずりながら下水坑まで逃げた。ボス松本(二本柳寛)の仕組んだ罠を見破った登川は松本と挙銃戦の末目的の金を手にパスポートを取りに「セントルイス」に来た所を、弟のように可愛がっている滝沢(川地民夫)の拳銃で誤殺された。命を賭けた巨額の札束が無残な登川の死顔にふりかかっていた。
 ――一介のプログラム・ピクチャーだからかキネマ旬報の紹介は粗っぽいもので、草薙幸二郎の裏切りも省いていれば結末で忠実な弟分の川内民夫に誤射されるてんまつもこれではわけがわかりません。錠は二本柳寛から命は取らず金を取り戻し川内に用意させたパスポートを取りにアパートに戻るのですが、二本柳は先に川内を銃撃して錠を待ち伏せしており、錠は待ち伏せていた二本柳を今度こそ射殺します。錠は川内を探しますが瀕死で目のかすんだ川内は近づいてくる錠を二本柳と錯覚して撃ちます。錠は胸を押さえ、ハッと気づいた川内が「すまねえ、兄貴」と謝るのを「当たっちゃいねえよ」と嘘をつき、川内はそのまま絶命します。なおも「当たっちゃいねえよ」と言いながら錠はよろけて灯油缶を倒し、錠が倒れて鞄が開くと紙幣が舞います。灯油缶の灯油は石油ストーヴに引火し、錠は燃えあがる紙幣とともに木造アパートの炎に包まれます。本作の錠は拳銃を上に放り投げて敵を油断させるや落ちてきた銃で速撃ちをするアクションを見せており、ピストルが当たり前に懐にある世界の住人なので、日活アクション映画も大陽族映画の延長から日本を舞台にした西部劇の世界に入っていることを如実に示す作品ですが、今回シリーズ作品として外した系列ながら昭和34年('59年)からの小林旭主演の「渡り鳥」シリーズ、翌年の赤木圭一郎主演の「拳銃無頼帳」シリーズで裕次郎主演の『赤い波止場』'58以降のアウトロー路線は定着しており、どちらのシリーズでも名物男のガンマン役は宍戸錠でした。早い話が次元大介宍戸錠のキャラクターから派生したコミックスの人物です。宍戸錠はバイプレーヤー意識の強い俳優だったので何を持って宍戸錠初主演作としたらいいのかわかりませんが、蔵原惟繕の『硝子のジョニー 野獣のように見えて』'62に先立つ昭和36年の三部作「ろくでなし稼業」シリーズが初主演作と見なしたらいいのでしょうか。ただ「ろくでなし稼業」シリーズはまだアクション・コメディ要素が強かったので、コメディではないハードボイルドなキャラクターになってからがさらに宍戸錠の本領発揮とも言えて、本作の主人公など裕次郎や旭には想像もつきません。『硝子のジョニー~』や『野獣の青春』を経て本作の主人公のキャラクターはあるので、日活の'70年代初頭のニュー・アクション路線は破滅する主人公を多く描いてアメリカン・ニューシネマとの対応で観られがちですが本作の宍戸錠はその先駆とも言えるので、観る人によってはチープなプログラム・ピクチャーの珍品とも異色の佳作とも、はたまた再評価されるべき傑作とも見える本作ですが、ドキュメンタリー・タッチなのか荒唐無稽なのかわからない、拳銃フェティシズムにリアリティがあるのかも銃刀類にはさっぱり興味がない筆者には見当がつかないのですが、ああ宍戸錠を観たなあという満足感だけでも十分な映画があるとすれば本作は期待を満たしてくれる1作です。原作由来か脚本由来か演出手腕の問題か、副人物のあつかいは生かしきれていない印象もありますが(松原智恵子などまったく別撮りの場面でしか出てきません)、ハードボイルドの世界はモノセックスであって女不要と思うとしても宍戸錠以外の俳優に存在感がなさすぎる。それも悪夢的、とするなら本作は宍戸錠の見た悪夢に純度の基準を置くべきかもしれません。