人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2019年5月4~6日/蔵原惟繕(1927-2002)と日活映画の'57~'67年(2)

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 今回の3作中鈴木清順作品は米Criterion社のDVDボックス『Nikkatsu Noir』2009収録、蔵原惟繕の2作はやはり同社のDVDボックス『The Warped World of Koreyoshi Kurahara』2011で世界初DVD化されたもので、公開時もほとんど注目されず再上映の機会も少なく、従って言及されることもあまりなく、蔵原作品2作は公開当時もあっという間にスクリーンから消えたので幻の名作の評判が映画マニアの間で囁かれるようになるもやはりめったに再上映されないしDVD化もされないうちにアメリカの古典映画復刻レーベルから初DVD化されてしまったというもので、おそらく今後も日本で国内盤映像ソフト化される可能性は限りなく低いものです。日本映画に限らず本国より他国での方が再評価が進む例は映画では珍しくありませんが、大衆的なプログラム・ピクチャーの娯楽映画として製作・公開されたこれらの日活作品が意外な芸術的評価を欧米の映画批評家から受けているのも面白い現象で、古い日本映画への妙な先入観もなければ従来欧米に紹介されてきた日本の巨匠監督の作品とも違った作風が興味を惹き、また同時代の欧米諸国の映画との比較でも際立った特色が認められる、ということでしょう。蔵原惟繕?『南極物語』の?(これも今や40代以上の人の先入観になりますが)ということもなく観ればこれらの蔵原作品はまるでクロード・シャブロルみたいなので、溝口・小津・黒澤ら、また当初からヌーヴェル・ヴァーグとの対応を前提に紹介されていた大島渚吉田喜重らとは違った意味で驚嘆の念を持って発見されたと思われます。なお、歴史的意義を鑑みこれら日活映画については初公開時のキネマ旬報の紹介文を引用させていただきました。

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●5月4日(土)
鈴木清順(1923-2017)『~13号待避線より~その護送車を狙え』(日活'60.1.27)*79min, B&W : https://youtu.be/Njj2m2E14cQ (Full Movie)

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 鈴木清順は松竹助監督から日活に移籍し本名・鈴木清太郎名義で昭和31年('56年)に歌謡映画『港の乾杯 勝利をわが手に』で監督デビュー、昭和33年('58年)の7作目『暗黒街の美女』から鈴木清順と改名するとともにアクション映画路線の作品が増え、昭和35年('60年)には14作目となる本作を筆頭に5作を監督します。監督自身がノンクレジットながら脚色にも関わるようになったのは本作前後からと言われており、本作の主演は水島道太郎(1912-1999)で、大映~松竹~新東宝~日活とキャリアを重ねてきたヴェテラン俳優ですが('61年よりフリー)、他でもない清順改名最初の作品『暗黒街の美女』でも主演しており、日活のアクション映画路線の中では石原裕次郎ら青年俳優よりも20歳以上年長の俳優(それまでもほとんどの出演作が時代劇)なのがかえって異彩を放っているので、二枚目ながら渋い中年俳優が主演を張る、それも不祥事の犯罪に巻きこまれた中年男の意地を賭けた越権行為に踏みこんでまでの名誉挽回というテーマで本作はアメリカのフィルム・ノワールの典型例(フリッツ・ラング復讐は俺に任せろ』'53・日本公開昭和28年12月など)と同系列の作品なのが欧米の批評家の興味を惹いたのでしょう。ラング作品もそうですがアメリカには'50年代初頭から汚職警官や犯罪シンジケートを題材にしたドキュメンタリー調の推理小説のブームとその映画化があり、本作の原作者・島田一男も前後すぐ本格推理小説でデビューしながらいち早くドキュメンタリー調推理小説に移った人ですから、アメリカの新しい犯罪ミステリー映画の潮流に対応するものとして島田一男の原作に目をつけたのが本作の企画と思われますが、そこで面白い現象が起こってくる。ドキュメンタリー、すなわち実話調というのは全貌のはっきりしない謎を視点人物が追究していく具合に展開しますから全能の視点が排除されているところに真髄があり、本作のように主人公が手がかりとなる線を追ううちに次々と新たな事件に遭遇して一歩一歩真相に近づいていく話法になりますが、結末までたどり着いてみるとあちこちで解明されない謎や辻褄の合わない人物関係が残ってしまうことにもなります。視点人物が全能者ではなく視点が限定されているためにこうしたことが起こり、結末にいたっても主人公が完全に事件の全貌とその証拠を細部までつかめないために観客は描かれた出来事から背後の真相を推察するしかないのですが、これは実話調という設定による一種のイカサマであってアメリカのハードボイルド小説『大いなる眠り』'38、その映画化であるハワード・ホークスの『三つ数えろ』'46(日本公開昭和30年4月)でも当たり前のようにザコの殺人は犯人不明のままだったり動機が不明だったりする。ラングやホークスのような大監督になると映画のハッタリ性やイカサマ術を知りぬいているので堂々とこういうことをやるのですが、鈴木清順の本作が面白いのも島国的律儀さから大陸的ハッタリに映画が踏みこみつつあるからで、囚人移送車が襲撃され囚人が謎の暗殺を受け、護送担当の刑務官が懲戒処分を受けて捜査権もないのに面子をかけて保釈金を積んで出所した生き残りの囚人の足どりを追うと、水商売女性を売春婦としてアジア圏に人身売買(ポスターの「女体密輸」)する組織の存在とその組織内の抗争に巻きこまれるのが本作の大筋ですが、なぜ殺されたのか動機不明の殺人も続出すれば人身売買組織も一枚岩ではなく内部抗争していますから誰が味方で誰が敵か、内部抗争の実情も主人公視点では全貌がつかめません。原作がもともとこういう内容であっても、あるいはきちんと解明される原作であっても、映画ではそれをすっきりまとめるか波乱万丈のまま放り出すかは監督・脚本次第で、波乱万丈のままでいいじゃないかとプロデューサーのOKも出たのが本作ということになったのが鈴木清順の'60年代作品の大きな飛躍のきっかけになったのだとすれば80分弱の小品の本作は充実した面白さに満ちた映画で、裕次郎・旭・錠のダイヤモンド・ラインではなく中年俳優・水島道太郎の主演だからこその魅力がある。本作も公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 島田一男の原作を、「暗黒街の対決」の関沢新一が脚色し、「素っ裸の年令」の鈴木清順が監督したアクション・ドラマ。撮影は「おヤエの初恋先生」の峰重義。
[ あらすじ ] 護送車が襲われた。二人の囚人が即死し、犯人は逃亡した。死んだ囚人は冬吉(岩崎重野)と竜太(上野山功一)である。護送責任を問われた看守長の多門(水島道太郎)は、六カ月の停職命令を受けた。彼は犯人の追求に乗り出した。第一の手がかりは、車に乗っていた囚人の五郎(小沢昭一)だ。彼は保釈金をつんで出所していた。ストリッパーの恋人津奈子(白木マリ)と熱海にいた。多門も熱海に出向いた。津奈子とマリ(久木登紀子)が旅館でショーを開いている最中、マリが殺された。マリは死んだ竜太の姉だった。多門はストリッパーを斡旋している浜十組を訪れた。浜十(芦田伸介)は入院してい、娘の優子(渡辺美佐子)が現われた。美しく、好意的だった。五郎の車が崖から落ちた。現場には彼の鞄があった。――多門の下宿に、上京した優子がやって来た。優子の情熱を帯びた視線が多門にはまぶしかった。ある時、多門は一台のトラックを追跡したが、いつのまにか数人の男に囲まれていた。浜十の乾分赤堀(安部徹)もその中にいた。気がついたところは病院の一室だった。優子がいた。現場にいた彼女が、工場の非常サイレンを鳴らして救ってくれたのだ。五郎の死は偽装だった。現場にあったライターに、五郎の指紋が残っていたのだ。優子の部屋に現われた赤堀を多門は倒した。多門は五郎とその黒幕がいるという御殿場に優子と急いだ。――女体密輸の黒幕は、優子の父親の浜十だった。
 ――本作はいきなり囚人移送車襲撃から始まって、この囚人暗殺事件がないと担当刑務官の水島道太郎が事件の真相を追う主人公にならないから仕方ないのですが、どうも口封じのため殺されたらしいとしか動機がはっきりしない。同房だった囚人の小沢昭一はあとで偽装暗殺され実は人身売買組織の一員だったのが判明しますが、小沢昭一から洩れたのを恐れて殺されたのか組織の一員で裏切りを恐れて殺されたのかわからない。また小沢昭一の恋人のストリッパー役の白木マリの同僚ストリッパーが殺されますが、殺された囚人の妹であるとともにストリップ一座は人身売買組織の末端の水商売女性集めに従事していたらしいので、これも殺された動機がはっきりしないというか、主人公が白木マリを突きとめ妹の所在に感づきそうになったから殺され、またストリップ一座を管轄するヤクザの親分の娘の渡辺美佐子に水島道太郎が近づいたので渡辺美佐子まで狙われるほど内部抗争が激化したとしか思えないので、主人公が越権捜査(刑務官には警察権はありません)を始めたために一連の事件がドミノ倒しのように発生したというのが合理的解釈になるので、そう思うと本作は実にとんでもない話です。人身売買組織摘発にしても主人公には捜査権限がないので、ストリッパー殺害のあたりで地元熱海の警察に委ねるのが現実事件では限度と思われる。そこが実話と「実話調」の違いで、主人公があくまで黒幕の正体に迫るまで越権捜査を止めないがために事件は転がり続けるので、一つひとつの事件の真相や動機はますますはっきりしなくなる。組織の内部抗争と渡辺美佐子の関係も実ははっきりしないので、渡辺美佐子が水島に好意を見せ始めたので親分の娘でも危険視して渡辺を狙う一派が内部抗争を始めたように見える。そんな具合に辻褄合わせしようとすればするほど無理の連続を積み重ねて出来上がっているのが本作ですが、観ている最中には渋滞感はちっともなく事件また事件の連続なので、実は主人公視点の実話調を生かして全然リアリズムではないホラ話を観せられていたのに気づくのは観終えてしばらく経ってからです。鈴木清順の'60年代作品は傑作揃いですから本作が話題になることはめったにありませんし、以降の傑作と較べると本作はまだ助走段階でもありますが、全盛期の傑作からさかのぼってこの作品を観てもちゃんと納得のいく作風なのはさすがで、また本作の辻褄の合わなさも現実事件ではごく普通に起こり得ると思えば何ら作品の瑕にはならないのではないでしょうか。

●5月5日(日)
蔵原惟繕(1927-2002)『ある脅迫』(日活'60.3.23)*65min, B&W : https://youtu.be/vbQt82tWF5M (Fragment)

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 本作は併映用の中編映画のため公開当時ほとんど話題にならず観逃した観客も多く、再上映される機会も極端に少なく、わずかなマニアの間で幻の名作とされてきた作品で、現在でも国内では映像ソフト化されず往年の日活映画、蔵原惟繕監督作品特集でまれに上映されるのみですが、前書きのように米Criterion社の'60年代蔵原監督作品DVDボックスで世界初DVD化されており、古典映画の復刻に定評ある同社ですが渋いところに目をつけるものです。併映用作品だけあってまともなポスターが出回らなかったようですが、画像掲載した昇り風ロング・ポスターが地味に謳っているように本作は心理派スリラーの推理作家・多岐川恭(1920-1994)の直木賞受賞短編集『落ちる』'58のうち受賞対象になった3編(「落ちる」「ある脅迫」「笑う男」)から同題作品を映画化したもので、最初から中編映画用企画だったでしょうが主演が金子信雄西村晃!と長編映画では考えられないキャスティングが小粒で辛い原作の映画化にぴったりはまっており、2本立て3本立ての新作公開が当たり前に行われていた、所有撮影所と専属スタッフ・俳優時代の日本映画ならでは可能だった、現代の感覚からすると(また当時のアメリカ映画でも)、インディー製作の地味な犯罪映画の小品佳作という雰囲気が漂う異色作になっています。華のあるスター映画の蔵原惟繕作品のイメージからすると本作の陰湿な心理スリラー路線はもっとも意外な一面が見られる作品として「幻の名作」は誇張としても一度観れば忘れられない緊迫感があり、あざとい技法を排している分65分の中編ノン・スター映画としても重く皮肉の効いた心理スリラー作品になっている。本作は同期生の友人で銀行の同僚ながら一方は絶好調の出世コースの金子信雄、一方はうだつの上がらない平社員の西村晃(しかも妹は金子の愛人)の立場が金子の致命的な失策を握った西村の脅迫によって力関係が逆転していく粘着質なドラマに心理スリラー要素があり、追い詰められて自社の銀行から強盗を計画する金子も西村の策略の手の内にあり、構成も緊密なら展開に逐一意外性に飛んだ逆転に次ぐ逆転がある。この路線で一家を築いてもおかしくない巧さがあり、蔵原作品としては傍系ですが本作のような地味ながら密度の高い心理スリラーをものした才気には華々しい著名作で名を残すこの監督の意外な側面を見る面白さがあり、しかも日本映画には本作のような心理スリラーは少ないと思うと独自の再評価がなされてしかるべき作品でしょう。本作も初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきます。
[ 解説 ] 多岐川恭の原作を、川瀬治が脚色、「われらの時代」の蔵原惟繕が監督した推理映画。撮影は「~キャンパス110番より~学生野郎と娘たち」の山崎善弘。
[ あらすじ ] 北陸××銀行直江津支店次長滝田恭助(金子信雄)は、本店の業務部長に栄転することになった。彼の妻(小園蓉子)は頭取の娘で、このことも出世を早める原因らしかった。滝田の送別会で、一人離れて座っている男があった。中学時代に滝田と同級だった庶務係の中池(西村晃)だ。滝田の妻はもとはといえば中池の恋人だった。それを滝田が奪ってから彼の人生街道が開いたのだ――。宴会の帰途、滝田の前に立った男がある。ヤクザの熊木(草薙幸二郎)だ。滝田が女(白木マリ)を養うために印鑑を偽造、浮貸しをしている秘密を握っているのだ。三百万円よこせと脅迫した。そして、拳銃を渡して金庫破りをすすめた。ある夜、レインコートを着、ハンチングと黒いスカーフで顔を隠した滝田は、小使(浜村純)を縛って銀行へ押し入った。宿直の中池が帰って来た。滝田は拳銃をつきつけ、金庫の前に中池を引っ立てた。しかし、中池は滝田の正体を見破っていた。滝田は急に笑い出し、防犯週間だから銀行ギャングの予行演習を考えついたのだと言った。この場は何とかつくろったが、熊木が三百万円を待っている。二人は断崖の上でもみあい、足をすべらした熊木は悲鳴を残して落ちていった。翌日、滝田は中池に呼び止められた。中池は自分が熊木を使って脅迫させていたのだと言った。――妻や子と任地へ向う滝田は汽車に乗っていた。しかし、隅の方の席には中池が座っていた。「これからあんたの行くところへはどこまでもついて行く。銀行はやめたよ」と滝田を見上げて言うのだった。
 ――あらすじを知らない方が本作は意外な展開が楽しめ、さらにキネマ旬報のあらすじでは省略されている痛烈なオチで映画は締めくくられるのですが、何にしても同級生の出世男の金子信雄と万年平社員の西村晃という、性格俳優の名優ながら映画の主役には絵にならない二人のしがらみ劇を小品心理スリラーの佳作に仕上げた本作の企画は大したもので、原作自体も今ならテレビの2時間ドラマですらも地味すぎると判断されるような渋い話です。しかも舞台は新潟県直江津市(当時)の銀行の地方支店と、直江津市は現上越市新潟県では由緒ある(「山椒大夫」の舞台!)町ですが都会派サスペンスでもない。また本作では脅迫が事件の焦点で、最初の脅迫者ともみ合いになり海岸の岩壁にずり落ちた脅迫者を金子信雄は見殺しにしますが、脅迫者殺害容疑がかかるわけではないので焦点が殺人に切り替わる展開でもありません。最大のサスペンスは金子信雄が脅迫者に強要され自分の銀行に夜間に強盗に入る場面で、金子は宿直の西村晃を飲み屋の座敷に誘い酔いつぶさせて浜村純(!)の小使一人の銀行に覆面とサングラスで押し入るのですが、サングラスを落として割ってしまう。しかも長いつきあいの西村晃が酔いつぶしたはずが宿直に遅れてやってくる。なおも強盗を遂行しようとするも西村に正体がバレてしまった金子は抜き打ちの防犯訓練だと誤魔化し、支店次長とは言え銀行側が金子の言い分を認めて称賛するのもサスペンスものならではの展開ですが、金子が訓示で当直の西村の遅刻を非難するのも皮肉なら結局脅迫者に渡す金を用意できなかった金子が脅迫者との格闘で脅迫者を断崖から落ちるのを見殺しにするのも悪夢めいていれば、ほっとしていいのか未必の故意の殺人の嫌疑を恐れることになるのか不安を抱えたまま栄転異動が迫る寸前に真の脅迫者が姿を現す悪夢の連続は、一つひとつの事件が不発に終わる地味な悪夢だけに逆に累積効果は大きく、犯罪映画が悪夢に接近した例としてアメリカのフィルム・ノワールの古典、エドガー・G・ウルマーの『恐怖のまわり道』'45やジャック・ターナーの『過去を逃れて』'47に近似しており、これらの犯罪らしい犯罪の起こらない悪夢的異色フィルム・ノワールの評価はアメリカ本国でも'80年代以降定着したもので『恐怖のまわり道』『過去を逃れて』(ともにアメリカ国立フィルム登録簿選定登録作品)とも日本劇場公開は映像ソフト発売に伴う2012年(平成24年)です。本作の世界初DVD化がアメリカ盤で2011年と思うと、『ある脅迫』はウルマーやターナーの作品を知らずに偶然作られた日本映画の突然変異的悪夢系フィルム・ノワールの佳作ということになり、それもメイン作品ではなく併映用中編、メイン作品にはなり得ない渋く地味な企画と渋く地味な性格俳優のW主演、しかも地方都市のごく限られた人物配置と舞台設定という具合に条件がそろったからこそ狙ったわけでもないのにアメリカのマイナーな低予算犯罪映画そっくりな佳作が生まれたと見られ、こういう映画があるから量産時代の日本映画は底が知れない。日活映画で蔵原惟繕監督作という先入観があってもなくても本作が今なお面白い映画として観るに値するゆえんです。なお本作の結び、オチというかサゲはご覧になる方によって是非が分かれるようなもので、蛇足と取るか見事などんでん返しと見るか、いずれにせよ観客を最後に煙に巻いて終わる結末(原作由来にせよ)には違いなく、これもあり(悪夢度アップ)なのではないでしょうか。

●5月6日(月)
蔵原惟繕(1927-2002)『狂熱の季節』(日活'60.9.3)*76min, B&W : https://youtu.be/-JXvrq0o1E8

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 本作も『南海の狼火(のろし)』(監督=山崎徳次郎、主演=小林旭宍戸錠、81分・カラー)の併映作品で、小林旭主演作(「銀座旋風児」シリーズ5作に続く「流れ者」シリーズ6作の第4作)で宍戸錠とのコンビ主演作でもあり、カラーで尺も長いアクション映画の『南海の狼火』の方がどちらかと言えばメイン作品だったでしょうが、この頃の旭は「アクション・唄・コメディ」が三本柱で、旭と錠はのちにさらに強力な主演俳優として活躍します。またシリーズものの1作ですからプログラム・ピクチャーなので単独作品というよりシリーズのファンのための作品でもあります。実際注目されることになったのはこの『狂熱の季節』の方で、路線としては太陽族映画の系譜には違いないのですが、石原慎太郎に刺戟されて登場した推理小説畑のハードボイルド作家でも大藪春彦と並んで河野典生は傑出した小説家で、大藪春彦が文学性糞食らえで石原慎太郎を突き抜けたとすれば河野典生石原慎太郎とは次元の違う圧倒的な文学的才能の持ち主で、戦後世代の感覚を突き放して描きだす客観的視点や客観性ゆえの徹底した認識と想像力がある。大藪がそれこそいわゆる中二病的想像力でスーパーマン的殺し屋の跋扈する世界を歌い上げたとすれば、河野は石原のように太陽族が芸能界・ヤクザ・政治と結びつくような権力志向はなく、太陽族が世相風俗的な流行現象には違いないながら戦争体験者までの世代と断絶した青年世代であることを、石原太陽族のような富裕階級の子息ならずともごくありふれた街の不良青年たちの生態に材をとって追究しており、これはほとんどドストエフスキーの『悪霊』1872のロシア青年層のアナーキズム流行の描出の小型版とも言える構想で、『悪霊』の場合背徳的な巨大な陰謀劇の背景がそういうものでしたが、単に不良少年(青年)映画としても本作は原作の意図を強烈に映画に生かすのに成功した、虫酸が走るほど嫌な映画になっている。本作は半年前の3月に日本公開されたばかりのゴダールの『勝手にしやがれ』'60の生硬な模倣ではないかと公開時に批評家の評価は低く、観客の一部からは松竹の大島渚吉田喜重ら新人監督の作品と並んで支持されるも以降めったに上映されず(稀に'60年代日活映画、蔵原惟繕監督作特集などで上映されるのみ)、日本盤の映像ソフトも出ていませんし、BSやケーブルテレビなどでも差別用語の多用やあまりに反社会的内容のためまず放映できないと思われます。本作も米Criterion社の蔵原惟繕監督作ボックスで世界初DVD化されていますが、『ある脅迫(Intimidation)』『狂熱の季節(The Warped Ones)』に『憎いあンちくしょう(I Hate But Love)』'62、『黒い太陽(Black Sun)』'64、『愛の渇き(Thirst For Love)』'67の世界初DVD作品3作を含む5作品を収めた'60年代日活の蔵原惟繕監督作品のこのDVDボックスは『The Warped World Of Koreyoshi Kurahara』と本作の英題からタイトルが採られているのも興味深く、「狂熱」という言葉の訳にCrazyやCrashed、Heatedではなく「狂い歪んだ」ニュアンスであるWarpedを当てている。狂気や熱狂ではなく歪んでいるのであって、『ある脅迫』や本作、また他の蔵原作品も主人公や周囲の人間は常軌を逸した行動に走りますが狂気ではなく理性的に異常行動に出るので、歪んだという解釈は正当な訳語でしょう。本作の川内民夫(1938-2018)が演じる主人公・明は徹底したエゴイストで反社会的・反倫理的な青年ですがアウトローとしての目的や理想も持ちあわせないので、盗みや復讐のための強姦、売春幇助など平気でするし、その方が合理的と気づけば妊娠した恋人交換をレイプ相手のカップルに平気で持ちかける。裕次郎、旭、錠ら日活のヒーロー俳優がヒーロー型・アンチヒーローアウトローらしい理想像を体現していたのに対して本作の川内民夫は何のモラルも持ちあわせていないのが全盛期の太陽族映画と較べても際だっていて、シャブロルの『いとこ同志』'59やゴダールの『勝手にしやがれ』の主人公らでも何らかの勝手なダンディズムがあったのが、本作の川内民夫には微塵もありません。これを批評家が一蹴しごく一部の観客が強く支持したのも本作が当時(たぶん今も)あまりに挑発的な内容の作品だったからで、これも初公開時のキネマ旬報の紹介を引いておきましょう。
[ 解説 ] 河野典生の「狂熱のデュエット」を、「青年の樹(1960)」の山田信夫が脚色し、「ある脅迫」の蔵原惟繕が監督したもので、現代の若者たちを描く。撮影は「刑事物語 小さな目撃者」の間宮義雄。
[ あらすじ ] 二人の少年、明(川地民夫)と勝(郷英治)が少年鑑別所の門を出た。外は真夏だった。車を盗み出した二人は、ユキ(千代侑子)をさがして繁華街を飛ばした。ユキは外国人相手のパンパンで、明とは古いつき合いだった。白人を連れ立ったユキをみつけると、二人はホテルにパトカーを呼んだ。寸前、ユキは白人の財布を持って逃げ出した。その金で三人は海に向かった。海岸で明は一組のアベックに目をとめた。明を鑑別所に送り込んだ新聞記者の柏木(長門裕之)と恋人の文子(松本典子)だった。柏木を倒すと、明は文子を草むらの中で犯した。車を売った金で三人は安アパートを借りた。勝とユキは愛し合った。バーで明がビート・ジャズに酔っていると、文子が妊娠を知らせて来た。柏木の変らない愛情が苦しい、と文子は言った。勝は土地のやくざ、関東組に入った。ユキと世帯をもちたいからだった。文子は明に、柏木を汚してくれと頼んだ。傍のユキがニヤリと笑った。ユキは柏木を誘惑し、妊娠した。勝は怒らなかった。関東組の幹部になって楽をさせてやると慰めた。夜、明は文子のアトリエに入った。文子と柏木が帰って来た。精神的な平等を得た二人は幸福そうだった。明の姿を見た文子の心に、殺意が湧いた。事故を装って眠っている明をガス死させようとした。しかし二人の出ていった後、明は何事もなく目覚めた。明がアパートに帰ると、血だらけの勝がかけこんで来た。やくざのボスを殺して幹部になった、と叫びながら勝は死んだ。ユキは子供を始末することにした。明とユキが医者をたずねると、柏木と文子に会った。突然、明は青ざめる柏木にユキをおしつけ、文子を自分の方に引き寄せた。狂ったように笑う明とユキ、硬直したように立ちつくす柏木と文子、そのまんなかには、現代の虚無がビート・ジャズにのって吹きまくる。
 ――この作品は蔵原惟繕が脚本に山田信夫、撮影に間宮義雄を迎えたことでも画期的な意義があったもので、蔵原監督・山田脚本・間宮撮影のトリオは'62年の『銀座の恋の物語』(3月)、『憎いあンちくしょう』(7月)、『硝子のジョニー 野獣のように見えて』(9月)の3作を送り出すことになります。本作の続編と言うべきやはり河野典生原作による蔵原監督・山田脚本の『黒い太陽』'64.4は川内民夫が再びジャズ狂の「明」として登場し、『狂熱の季節』では在日黒人兵役のチョイ役だったチコ・ローランドとともに主演する幻滅とディスコミニュケーションの逃亡劇ですが、撮影は金子満司に代わっている。『黒い太陽』も見所の多い作品ですが川内民夫の「明」のキャラクターが下敷きなだけに『狂熱の季節』を先に観るのが順当ですし、『狂熱の季節』の時代の最先端を行くタイトルデザイン処理、圧倒的な美術、シャープな構図やB&W映像の露出の妙(特に逆光処理の腕前)、手持ちカメラ撮影の素晴らしさなど間宮カメラマンの成果の上に『黒い太陽』の映像もあるので、原作者からの意見もあったでしょうが昭和35年の日本の黒人ジャズのリスナーの感覚を正確にとらえている。ラップやヒップホップどころではないやばい音楽だったのが伝わってくる。石原裕次郎を発掘した水の江滝子(1915-2009)は太陽族映画の生みの親でもあるすごいプロデューサーでしたが、さすがに本作や『黒い太陽』など太陽族映画の究極型といえる作品は別のプロデューサーがついている。裕次郎も本格的なジャズ歌手の才能がありましたが、本作が数年前に作られていたとしても裕次郎主演の企画にはまずならなかったでしょう。しかし『狂った果実』の裕次郎が正統に発展したら本作になる可能性は十分にあったので、本作は川内民夫という共感しづらいキャラクターを演じて光る主演のためにマイナーな作品の宿命がつきまとい、さらにあまりに感覚的に反市民性の領域に踏みこんでしまったためにまともに観客の不快感を刺戟する映画になっており、主人公の行動原理に観客がついて行けないため映画全体が散漫に見えかねない、という不利も抱えています。松竹の大島渚吉田喜重らは極度に方法的な自覚や反ヒューマニズム意識があったので、観客を市民的な共感に誘いながら市民的倫理の欺瞞の攻撃にまわる、強靭な論理性がありました。本作と同年の大島の『青春残酷物語』(6月)や『日本の夜と霧』(10月)、吉田の『ろくでなし』(7月)や『血は渇いてる』(10月)はフランスのヌーヴェル・ヴァーグへの明確な回答で、フランス映画には感覚はあっても論理や思想性は欠落しているではないかと日本のインテリ監督(大島・吉田は東西の日本の国立大学の主席卒業者でした)が反撃したものです。しかしあからさまな背徳性を許容する主人公の無軌道な行動をひたすら感覚だけ、しかも観客がまるで共感できない主人公の視点から徹底的に一貫して描いた本作は破壊力にかけては内外に匹敵する同時期の映画が見当たらないほどで、『ある脅迫』本作と連続する蔵原惟繕作品を観ると資質・指向性ともに'60年の2作『気のいい女たち』『伊達男たち』以降のクロード・シャブロルが真っ先に思い浮かびます。蔵原惟繕の食えないところは翌年には『破れかぶれ』『この若さある限り』『海の勝負師』『嵐を突っ切るジェット機』とあっけらかんと青春・アクション映画に戻ってしまうところで、さらに昭和32年('62年)には『銀座の恋の物語』『憎いあンちくしょう』『硝子のジョニー 野獣のように見えて』とメロドラマにもアクション映画にも傑作を連発する(『何か面白いことはないか』'63、『執炎』'64、『黒い太陽』'64と続きますからさらにややこしくなりますが)。ただし山田信夫脚本だけはある反骨精神がそれらメロドラマ作品にも筋を通していて、シャブロルには『銀座の恋の物語』や『憎いあンちくしょう』は撮れまいと思うと、以降も嫌みな映画を作り続けたシャブロルと照らして才能の生かし方というのが考えさせられる。やがて蔵原惟繕は『キタキツネ物語』'78や『南極物語』'83に行きつくので、『狂熱の季節』の監督だったこと自体が偶然だったように見えてしまうのです。