人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

萩原朔太郎詩集『宿命』(昭和14年=1939年刊)より

(萩原朔太郎<明治19年=1886年生~昭和17年=1942年没>)
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 口語による散文詩が日本の現代詩に確立・定着したのは三好達治(明治33年=1900年生~昭和39年=1964年没)の『測量船』(昭和5年=1930年12月刊)の収録諸編であり、当時の三好はボードレール晩年の散文詩集『巴里の憂鬱』の初の全訳者で、抒情詩人のイメージが強い三好達治は実際は非常に複雑な指向性を備えた詩人であり、『測量船』も当時にあっては実験的なモダニズムの詩集でした。三好が直接師事した詩人は室生犀星萩原朔太郎ですが、あまり読まれない萩原朔太郎散文詩も見落とせないものです。萩原は「情調哲学」「アフォリズム」「新散文詩」とさまざまに呼んでいた散文断章集を大正11年(1922年)刊の『新しき欲情』を皮切りに生涯に4冊発表しましたが、昭和14年(1939年)刊の自選詩集『宿命』(創元社・創元新書)では既発表の抒情詩70編とともに、単行本未収録の新作5篇を含む散文断章から70編を散文詩として再録しました。『宿命』は萩原生前に刊行された最後の詩集となったことでも収録された散文詩70篇は萩原の詩業の遺作的な位置づけができる、再録選詩集以上の意義を持っています。萩原は従来散文詩は書かない、むしろ口語自由詩の発展の上では散文詩には反対していた詩人でしたし、『宿命』ももともと散文詩として書かれたものではない断章を改めて散文詩として選出したものですから事情はやや特殊なのですが、愛弟子の三好を始めとする当時の若い世代の散文詩に触発されて既発表の散文断章集から萩原自身の基準で散文詩と言えるものをまとめたのが『宿命』収録の散文詩であり、改めて読者に散文詩として読んでもらいたいという意図からも萩原自身が愛着と自信を持つ断章が選出されているので、萩原にとっての散文詩観をくみとることもできます。まずボードレール風の(つまりポー的でもある)奇想による1編をご紹介します。

「死なない蛸」 萩原朔太郎

 或る水族館の水槽で、ひさしい間、飢ゑた蛸が飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた。
 だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、蛸は死んだと思はれてゐた。そして腐つた海水だけが、埃つぽい日ざしの中で、いつも硝子窓の槽にたまつてゐた。
 けれども動物は死ななかつた。蛸は岩影にかくれて居たのだ。そして彼が目を覚ました時、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢餓を忍ばねばならなかつた。どこにも餌食がなく、食物が全く尽きてしまつた時、彼は自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臓の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
 かくして蛸は、彼の身体全体を食ひつくしてしまつた。外皮から、脳髄から、胃袋から。どこもかしこも、すべて残る隈なく。完全に。
 或る朝、ふと番人がそこに来た時、水槽の中は空つぽになつてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水(しほみづ)と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は実際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠に"そこに"生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい欠乏と不満をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。

(初収録・『虚妄の正義』昭和4年=1929年10月刊)


 この「死なない蛸」は十分に佳作と言えるものですが、萩原の散文詩はもっぱら寓話的な奇想により詩としては凝縮感が足りないので、そこにもともと『宿命』収録の散文詩がエッセイや寓話風の散文断章として書かれた限界があります。しかし萩原らしい特色は三好の『測量船』に見られるマゾヒスティックな題材に冷たい抒情をこめた散文詩と比較すると顕著で、同じマゾヒスティックな詩でも萩原の場合は骨身に染みこむ痛切さがあります。次の、チャールズ・ラムの古典『エリア随筆』の、夢の中の実在しない子供についてのメランコリックなエッセイを思わせる1編は、おそらく萩原全作品でももっとも痛切なもので、「死なない蛸」よりさらに優れた詩と断言できる詩です。この「父と子供」はあえて寓話性や奇想に拠らないこと、そうした詩的空想の余地がないことで、かえって散文詩としての完成度や圧縮感を度外視して読者に迫ってきます。萩原は読書家でしたが、幅広く読むよりも特定の文筆家に熱中するタイプだったので、本来萩原好みではない『エリア随筆』との直接の関連はなさそうですが、「父と子供」は萩原の自伝的文語詩集『氷島』(昭和4年=1929年刊)と同じ萩原自身の自伝的題材(妻の出奔による離婚、父子家庭となった萩原と知的障害者だった長女)を詠んで、意図的に文語詩に激情を封じこめた『氷島』1冊を散文詩1篇に凝縮したような作品です。

「父と子供」 萩原朔太郎

 あはれな子供が、夢の中ですすり泣いて居た。
「皆が私を苛めるの。白痴(ばか)だつて言ふの。」
 子供は実際に痴呆であり、その上にも母が無かつた。
「泣くな。お前は少しも白痴(ばか)ぢやない。ただ運の悪い、不幸な気の毒の子供なのだ。」
「不幸つて何? お父さん。」
「過失のことを言ふのだ。」
「過失つて何?」
「人間が、考へなしにしたすべてのこと。例へばそら、生れたこと、生きてること、食つてること、結婚したこと、生殖したこと。何もかも、皆過失なのだ。」
「考へてしたら好かつたの?」
「考へてしたつて、やつぱり同じ過失なのさ。」
「ぢやあどうするの?」
「おれには解らん。エス樣に聞いてごらん。」
 子供は日曜学校へ行き、讃美歌をおぼえてよく歌つてゐた。
「あら? 車が通るの。お父さん!」
 地平線の遠い向うへ、浪のやうな山脈が続いて居た。馬子に曳かれた一つの車が、遠く悲しく、峠を越えて行くのであつた。子供はそれを追ひ馳けて行つた。そして荷車の後にすがつて、遠く地平線の尽きる向うへ、山脈を越えて行くのであつた。
「待て! 何処(どこ)へ行く。何処(どこ)へ行く。おおい。」
 私は声の限りに呼び叫んだ。だが子供は、私の方を見向きもせずに、見知らぬ馬子と話をしながら、遠く、遠く、漂泊の旅に行く巡礼みたいに、峠を越えて行つてしまつた。

「歯が痛い。痛いよう!」
 私が夢から目醒めた時に、側(そば)の小さなベツトの中で、子供がうつつのやうに泣き続けて居た。
「歯が痛い。痛いよう! 痛いよう! 罪人(つみびと)と人に呼ばれ、十字架にかかり給へる、救ひ主(ぬし)イエス・キリスト……歯が痛い。痛いよう!」

(初収録・『絶望の逃走』昭和10年=1935年10月刊)

(旧稿を改題・手直ししました)