(伊東静雄<明治39年=1906年生~昭和28年=1953年没>)
『わがひとに与ふる哀歌』(発行・杉田屋印刷所/発売・コギト発行所、1935年=昭和10年10月5日発行)
病院の患者の歌
あの大へん見はらしのきいた 山腹にある
友人の離室(はなれ)などで
自分の肺病を癒さうとしたのは私の不明だつた
友人といふものは あれは 私の生きてゐる亡父だ
あそこには計画だけがあつて
訓練が欠けてゐた
今度の 私のは入つた町なかの病院に
來て見給へ
深遠な書物の如(やう)なあそこでのやうに
景色を自分で截り取る苦労が
だいいち 私にはまぬかれる
そして きまつた散歩時間がある
狭い中庭に コースが一目でわかる様
稲妻やいろいろな平仮名やの形になつてゐる
思ひがけず接近する彎曲路で
他の患者と微笑を交はすのは遜(へりくだ)つた楽しみだ
その散歩時間の始めと終りを
病院は患者に知らせる仕掛として――振鈴などの代りに
俳優のやうにうまくしつけた犬を鳴かせる
そして私達は小氣味よく知つてゐる
(僕らはあの犬のために散歩に出てやる)と
あんなに執念く私の睡眠の邪魔をした
時計は この病院にはないのかつて?
あるよ あるにはあるが 使用法がまるで違ふ
私は独木舟にのり猟銃をさげて
その十二個のどの島にでも
随時ずゐ意に上陸出來るやうになつてゐる
(「呂」昭和8年=1933年6月)
行つて お前のその憂愁の深さのほどに
大いなる鶴夜のみ空を翔(かけ)り
あるひはわが微睡(まどろ)む家の暗き屋根を
月光のなかに踏みとどろかすなり
わが去らしめしひとはさり……
四月のまつ青き麦は
はや後悔の糧(かて)にと収穫(とりい)れられぬ
魔王死に絶えし森の邊(へ)
遥かなる合歓花(がふくわんくわ)を咲かす庭に
群るる童子らはうち囃して
わがひとのかなしき声をまねぶ……
(行つて お前のその憂愁の深さのほどに
明るくかし處こを彩れ)と
(「コギト」昭和10年=1935年6月)
河邊の歌
私は河辺に横はる
(ふたたび私は歸つて來た)
曾ていくどもしたこのポーズを
肩にさやる雑草よ
昔馴染の 意味深長な
と嗤ふなら
多分お前はま違つてゐる
永い不在の歳月の後に
私は再び歸つて來た
ちよつとも傷けられも
また豊富にもされないで
悔恨にずつと遠く
ザハザハと河は流れる
私に殘つた時間の本性!
孤獨の正確さ
その精密な計算で
熾(さかん)な陽の中に
はやも自身をほろぼし始める
野朝顔の一輪を
私はみつける
かうして此處にね転ぶと
雲の去來の何とをかしい程だ
私の空をとり囲み
それぞれに天体の名前を有つて
山々の相も変らぬ戯れよ
噴泉の怠惰のやうな
翼を疾つくに私も見捨てはした
けれど少年時の
飛行の夢に
私は決して見捨てられは
しなかつたのだ
(「コギト」昭和9年=1934年10月)
漂泊
底深き海藻のなほ 日光に震ひ
その葉とくるごとく
おのづと目(まなこ)あき
見知られぬ入海にわれ浮くとさとりぬ
あゝ 幾歳を経たりけむ 水門(みなと)の彼方
高まり 沈む波の揺籃
懼れと倨傲とぞ永く
その歌もてわれを眠らしめし
われは見ず
この御空の青に堪へたる鳥を
魚族追ふ雲母岩(きらら)の光……
め覚めたるわれを遶りて
躊躇(ためら)はぬ櫂音ひびく
あゝ われ等さまたげられず 遠つ人!
島びとが群れ漕ぐ舟ぞ
――いま 入海の奥の岩間は
孤独者の潔(きよ)き水浴(ゆあみ)に真清水を噴く――
と告げたる
(「コギト」昭和10年=1935年8月)
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
耀かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
ひとびとの思ひ出の中(なか)で
それらの日は狡(ずる)く
いい時と場所とをえらんだのだ
ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
ひとの目を囚(とら)へるいづれもの沼は
それでちつぽけですんだのだ
私はうたはない
短かかつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
(「コギト」昭和10年=1935年1月)
鶯(一老人の詩)
(私の魂)といふことは言へない
その証拠を私は君に語らう
――幼かつた遠い昔 私の友が
或る深い山の縁(へり)に住んでゐた
私は稀にその家を訪うた
すると 彼は山懐に向つて
奇妙に鋭い口笛を吹き鳴らし
きつと一羽の鶯を誘つた
そして忘れ難いその美しい鳴き声で
私をもてなすのが常であつた
然し まもなく彼は医学枚に入るために
市(まち)に行き
山の家は見捨てられた
それからずつと――半世紀もの後に
私共は半白の人になつて
今は町医者の彼の診療所で
再會した
私はなほも覺えてゐた
あの鶯のことを彼に問うた
彼は微笑しながら
特別にはそれを思ひ出せないと答へた
それは多分
遠く消え去つた彼の幼時が
もつと多くの七面鳥や 蛇や 雀や
地虫や いろんな種類の家畜や
数へ切れない植物・気候のなかに
過ぎたからであつた
そしてあの鶯もまた
他のすべてと同じ程度に
多分 彼の日日であつたのだらう
しかも(私の魂)は記憶する
そして私さへ信じない一篇の詩が
私の唇にのぼつて来る
私はそれを君の老年のために
書きとめた
(「呂」昭和9年=1934年2月)
(読人不知)
水の上の影を食べ
花の匂ひにうつりながら
コンサートにきりがない
(旧題「静かなクセニエ抄」/「呂」昭和7年=1932年12月)
(以上詩集『わがひとに與ふる哀歌』全編完)
*
伊東静雄(明治39年=1906年12月10日生~昭和28年=1953年3月12日没)は知名度や愛読者では1歳年少中原中也(1907-1937)、年少ながら伊東がもっとも将来を嘱望していた立原道造(1914-1939)ほど恵まれず、また『ウルトラマリン』の逸見猶吉(1907-1946)ほどあからさまに反逆的でもないので、おおむね1930年代の関西詩壇を代表する穏健な抒情詩人として読まれていました。伊東が参加していた同人詩誌「コギト」はドイツの古典派~ロマン主義、最新の即物主義(反古典~ロマン主義)を総合的に検討していたものですが、「コギト」が合併吸収された文芸同人誌「日本浪漫派」は近代文化の否定、日本古典的ロマン主義の追求を行い、主要な同人は敗戦後には軍事協力の懲罰として公職追放、執筆禁止の処分すら受けています。
中でも「日本浪漫派」の主宰者と言ってよい保田與重郎は、「文學界」主宰の小林秀雄に匹敵する昭和10年代の日本文学界のカリスマ的批評家でした。小林秀雄は大東亜戦争~太平洋戦争の時局にうまく安全圏を見いだすことができましたが、保田與重郎は重要で卓越した批評家として進んで挑発的な著作を多作し、それは軍部からもマークされるほど徹底的な伝統主義を根拠にした現実否定的な超ロマン主義とも呼ぶべきものでした。敗戦後に文学者随一の危険人物と見做された保田與重郎は今でも危険で呪われた文学者のままなのです。そして保田與重郎と伊東静雄の影響を生涯隠さなかったのが三島由紀夫でした。
詩集『わがひとに與ふる哀歌』を仮の語り手(擬作者)として「私」と「半身」(詩集末尾を締めくくる2編のみ「一老人」)とした杉本秀太郎の解釈は、前回・前々回で触れました。度々ながら杉本氏による区分を引くと、
1. <私>晴れた日に (「コギト」昭和9年=1934年8月)
2. <半身>曠野の歌 (「コギト」昭和10年=1935年4月)
3. <半身>私は強ひられる―― (「コギト」昭和9年=1934年2月)
4. <半身>氷れる谷間 (「文學界」昭和10年=1935年4月)
5. <私>新世界のキィノー (「呂」昭和8年=1933年7月/「コギト」昭和8年=1933年9月)
6. <私>田舎道にて (「コギト」昭和10年=1935年2月)
7. <半身>眞昼の休息 (「日本浪曼派」昭和10年=1935年4月)
8. <私>歸郷者 (「コギト」昭和9年=1934年4月)
9. <私>同反歌 (旧題「都會」/「呂」昭和7年=1932年10月)
10. <半身>冷めたい場所で (「コギト」昭和9年=1934年12月)
11. <私>海水浴 (「呂」昭和8年=1933年11月/「コギト」昭和8年=1933年11月)
12. <半身>わがひとに與ふる哀歌 (「コギト」昭和9年=1934年11月)
13. <私>静かなクセニエ (初出不明)
14. <半身>咏唱 (旧題「事物の本抄」第9連/「呂」昭和7年=1932年11月)
15. <私>四月の風 (「呂」昭和9年=1934年6月)
16. <半身>即興 (「椎の木」昭和10年=1935年4月)
17. <私>秧鶏は飛ばずに全路を歩いて來る (「四季」昭和10年=1935年4月)
18. <半身>咏唱 (旧題「朝顔」/「呂」昭和7年=1932年10月)
19. <私>有明海の思ひ出 (「コギト」昭和10年=1935年3月)
20. <半身>(讀人不知) (旧題「秋」/「呂」昭和7年=1932年11月)
21. <半身>かの微笑のひとを呼ばむ (「日本浪曼派」昭和10年=1935年7月)
22. <私>病院の患者の歌 (「呂」昭和8年=1933年6月)
23. <半身>行つて お前のその憂愁の深さのほどに (「コギト」昭和10年=1935年6月)
24. <私>河邊の歌 (「コギト」昭和9年=1934年10月)
25. <半身>漂泊 (「コギト」昭和10年=1935年8月)
26. <私>寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ (「コギト」昭和10年=1935年1月)
27. <一老人>鶯 (「呂」昭和9年=1934年2月)
28. <一老人>(讀人不知) (旧題「静かなクセニエ抄」/「呂」昭和7年=1932年12月)
――となります。今回の第4回で全28篇のご紹介は終わりますが、反ロマン主義詩人である「私」と、ロマン主義詩人である「半身」の対比は次の2篇の対比で見ることができます。この2篇は同じ状況をまったく異なる切り口から作品化したものなのです。
(ロマン主義詩人「半身」)
私が愛し
そのため私につらいひとに
太陽が幸福にする
未知の野の彼方を信ぜしめよ
そして
眞白い花を私の憩ひに咲かしめよ
昔のひとの堪へ難く
望郷の歌であゆみすぎた
荒々しい冷めたいこの岩石の
場所にこそ
(「冷めたい場所で」)
(反ロマン主義詩人「私」)
耀かしかつた短い日のことを
ひとびとは歌ふ
ひとびとの思ひ出の中(なか)で
それらの日は狡(ずる)く
いい時と場所とをえらんだのだ
ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり
ひとの目を囚(とら)へるいづれもの沼は
それでちつぽけですんだのだ
私はうたはない
短かかつた耀かしい日のことを
寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ
(「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」)
前者では「荒々しい冷めたいこの岩石の/場所にこそ」と表現された心象表現は、後者では「ひとの目を囚(とら)へる」「ただ一つの沼が世界ぢゆうにひろごり」とポジとネガのように反転した認識がされています。『わがひとに與ふる哀歌』が中原中也や逸見猶吉をしのぐ革新的な表現の水準に達しているのは、これほど徹底した現実否定を単純で平易な語句の操作によってやってのけた大胆不敵さにあるでしょう。伊東静雄についてはこの程度では書き足りず、日本最高の詩人に上げられる存在ですが、また改めて鑑賞する機会を持ちたいと思います。
(旧稿を改題・手直ししました)