人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

北原白秋「薔薇の木に」(詩集『白金之独楽』大正3年=1914年より)

北原白秋明治18年(1885年)1月25日生~昭和17年(1942年)11月2日没
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「薔薇の木に」

 北原白秋

薔薇の木に
薔薇の花さく。

なにごとの不思議なけれど。

(詩集『白金之独楽』より)


 北原白秋(1885-1942)のこの短詩は、三日三晩で書かれたという短詩全95篇を収めた第5詩集『白金之独楽』(大正3年=1914年12月・金尾文淵堂刊)では2篇の連作になっていました。その後のアンソロジー類への収録に当たって単独では先に上げた3行詩に改められましたが、『白金之独楽』は全編漢字と片仮名表記だけの詩集で、短詩68篇と短歌30首を収めた第4詩集『真珠抄』(大正3年=1914年9月・金尾文淵堂刊)と対をなし、最初の夫人との離別後に仏教への傾倒から書かれた詩集です。この2詩集では第3詩集『東京景物詩及其他』(大正2年=1913年7月・東雲堂刊)までの長詩・連作長詩は陰をひそめ、ほとんどが1行~4行の短詩で占められており、同時期から白秋は短歌、歌謡詩と童謡詩に創作の比重を移すきっかけにもなっています。『白金之独楽』での収録型はこのようになっていました。

「薔薇二曲」

 一

薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。

ナニゴトノ不思議ナケレド。

 二

薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。

照リ極マレバ木ヨリコボルル。
コボルル。

 また白秋の第2歌集『雲母集』(大正4年=1915年8月・東雲堂刊)では「薔薇静観」の章があり、短歌による「薔薇二曲」のヴァリアントと見なせます。

目を開けてつくづく見れば薔薇の木に薔薇が真紅に咲いてけるかも

薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこ何の不思議もないけれどなも

驚きてわが身も光るばかりかな大きなる薔薇の花照りかへる

ただ見ればこれかりそめの薔薇の花驚きて見ればその花動く

 これらからは白秋が短歌によって十全な表現を見せていれば、それまでの自由詩系抒情詩によらず短歌で十分に成果を見せ、自由詩系ではもっぱら歌謡詩と童謡詩に思うがままの表現を求めるようになった事情もうかがえます。白秋はのちの詩論「考察の秋」で「薔薇二曲」を自作自解し、「この何の不思議もない当然の事を当然として見過して了ふ人は禍である。実に驚嘆すべき一大事ではないか。この神秘はどこからくる。この驚きを驚きとする心からこそ宗教も哲学も詩歌も自然科学も生れて来るのではないか。この真理。この驚き。」(詩論集『芸術の円光』昭和2年=1927年刊より)と書いていますが、それよりも「薔薇二曲」をより簡潔に「薔薇の木に/薔薇の花さく。//なにごとの不思議なけれど。」として単独詩篇とするようになったことの方が重要でしょう。

 しかしこの「薔薇の木に」を仮に現代の口語表現に改めてしまうと、白秋がこの詩にこめた「真理」も「驚き」も霧散してしまうのもまた明らかです。たとえばこんな風に。

ばらの木に
ばらの花が咲くのは

なんのふしぎも
ないんだよ。

 途端に詩は俗化し、格調が高く文体に緊張感を持った純粋な抒情詩から、居酒屋のトイレに飾られた日めくりカレンダーのコピーライター詩になってしまいます。白秋の弟子の萩原朔太郎が白秋に心酔してやまなかったのはその通俗性とぎりぎりの甘さであり、萩原に師事した三好達治が生涯「言葉の手品に過ぎない」と痛罵した(三好達治は特に他でもない『真珠抄』『白金之独楽』の時期の白秋作品を憎悪しました)のもそうした白秋の詩の危うさでした。白秋が『真珠抄』『白金之独楽』の時期から短歌の韻律によって格調を保つ一方、俗化を許容する歌謡詩と童謡詩に自由詩の楽しみを広げたのも同じ事情からでしょう。しかも外国語に翻訳してしまえば「薔薇の木に/薔薇の花さく。//なにごとの不思議なけれど。」と「ばらの木に/ばらの花が咲くのは//なんのふしぎも/ないんだよ。」には何の違いも生じません。白秋の詩は最上の場合ですらそうした白痴性とすれすれに優れた語感だけで詩となっている際どさがあり、白秋が「この真理。この驚き。」と誇る喩法の内実はしばしば同語反復・剰語法(トートロジー)でしかありません。「薔薇の木に」はほとんど作者不詳の伝承詩として千年単位の風雪と口承に耐え得る稀有な詩句ですが、それだけに読者を思考停止に追いこむことのみに力を働かせた詩であり、白秋の「この驚きを驚きとする心からこそ宗教も哲学も詩歌も自然科学も生れて来るのではないか。」という自負は自己暗示的な詭弁に過ぎません。しかしそこにこそ白秋の空前絶後の無垢があるので、この薔薇の詩もまた徹底した無意味によってのみ至純の美しさを保証されています。