人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

小野十三郎「いたるところの決別」「家系」 (詩集『古き世界の上に』昭和9年=1934年より)

[ 小野十三郎(1903-1996)、40代前半頃。]
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第3詩集『古き世界の上に』
昭和9年(1934年)4月15日・解放文化聨盟出版部(植村諦聞)刊
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「いたるところの決別」

 小野十三郎

俺は友が友をそむき去る日を見た
相手の腕は折れ額に血潮のにじみ出るのを見た
俺は又一枚の表札が剥がれ一台のトラツクの走り去るのを見た
トラツクに積み込まれた夜具や鏡台や七輪を見た
 さやうなら!
 がつかりしちや駄目
俺は彼女たちの明るい声を聞いた
俺は彼女たちの勇ましい沈黙と微笑を見た
そして俺は見た
一切の生温かきもの、卑弱なるもの、じめじめしたるもののいくらかがこの世界から美しく掃き清められていくのを
友達とは何か、女とは何か、家庭とは何か
家庭を破壊するとは何か
友情を抑え虐殺するとは何か
俺たちはそれをやつた
そして俺たちはそれを知つた

「家系」

 小野十三郎

俺はある日自分に対して決然として叛逆するものがあるのを知つた
母につながり、兄弟につながり、そして遠いわが家の先祖にまでつながつてゐる俺の血がかたまりとまるのがわかつた
今日の生活の動きを沮むさまざまな伝統や卑屈な道徳で混濁した黒いタールのやうな血であつた
俺は死に俺は生れた
俺は母や兄弟の責めるやうな眼と対峙した
沸々として湧き出づる新らしい血のぬくもりを胸に感じた
あゝ、この血のためにむしろ彼等の敵となり生き得る俺は万歳だ

(詩集『古き世界の上に』より2篇)


 大阪帰郷後初めての詩集『古き世界の上に』は単行の新作詩集としては第1詩集『半分開いた窓』(大正15年=1926年私家版、昭和3年=1928年市販訂正再版)以来の第2詩集とも、昭和53年(1978年)の立風書房刊『小野十三郎全詩集』には収録されず、晩年の『小野十三郎著作集(筑摩書房、全三巻)』(平成2年=1990年)に『サツコ、ヴアンゼツチの死』として初めて再録された『新興文学全集・第十巻』(昭和4年=1929年)に収録された新詩集1冊分相当の「小野十三郎集」を第2詩集と見なせば第3詩集とも言えるもので、いずれにせよ前2回に続いて『古き世界の上に』からご紹介した全6篇は、小野十三郎の自選小詩集である角川文庫『現代詩人全集』第六巻「現代II」(大正~戦後までのアナーキズムコミュニズム系の詩人15人を収録、昭和36年='61年2月刊)に30篇が収められるに当たって巻頭に置かれた6篇です。同書の選・解説は20代からの小野の盟友の詩人、伊藤信吉(1906-2002)ですから、伊藤の意向や相談があったとしても文庫版アンソロジーの小詩集を『古き世界の上に』収録詩篇から始めていることは小野が同詩集を本格的な詩的出発と、単行詩集も10冊を越えた58歳時点で見なしていたことになります。同年(昭和36年)10月発表のエッセイ「私の処女詩集」で小野は未練なく『半分開いた窓』を「抹殺したい詩集」と書き、自序については「ヘドだ」とまで言い捨てています。

 高揚した調子(23歳という年齢相応でもあるでしょうが)の『半分開いた窓』の自序に較べて、1934年3月の記載がされた『古き世界の上に』(詩人30歳)の前書きでは収録詩篇の執筆時期と成立過程を淡々と述べ、まだ未熟な作品も多いだろうが「練れた部分も多少は出てきたつもりだ」と書き、続けて「敢て云ふ。一生にさういくつも書けない種類の詩の一つや二つ位はこの中にだつてある」と宣言し、「そして僕はこれからの自分の生活を想ふとき、いつもあの機関車の大動輪の円周の一部分をくぎつてゐる平衡重(バランスウエスト)を想像するのである。そして詩とは僕の生活の推進にとつて何かそんな役目を果してゐるものではないだらうかと考へてみることがある。この考へは僕を勇気づける」と結んでいます。前回この詩集から「同伴者」という詩篇をご紹介しましたが、当時「同伴者」とは当時共産主義運動への協力者・共感者を指す用語で、プロレタリア詩人でこそあれ現実の革命運動家ではなかった小野自身も「同伴者」に入ります。戦局の激化とともに同伴者詩人であることすら検挙される危険がありましたが、知識人や大衆の「同伴者」の多くは微温的・日和見的立場をとつていたので、家庭人たる小野自身にも自分自身の限界への苛立ちがありました。今回の「いたるところの決別」は現実的な革命運動には参加できず、同伴者にとどまらざるを得ない悲しみを詠い、また「家系」は血族的な因習によって微温的立場にとどまらざるを得ない大半の日本人庶民のジレンマを自虐的に描いたものです。この詩集『古き世界の上に』が寄贈した志賀直哉から激賞の手紙を送られ、また大阪生まれの古典文学研究の碩学折口信夫が小野の次の詩集『詩集大阪』を愛読し絶讃していたと伝えられるのは、昭和10年代の危機的な日本の状況にあって小野の詩集がいかに確かな現実把握を示していたかを志賀直哉折口信夫ら小野の父親の世代に当たる硬派の大家にも伝わった、ということです。志賀は小林多喜二らに密かにカンパしていたことでも知られ、また折口は古典学者としての見地からプロレタリア文学に新たな日本文学の改革の可能性を期待していました。小野十三郎の詩は一見武骨で無愛想に見えますが、抒情を排して現実に対峙する姿勢で石川啄木高村光太郎らの最良の民衆詩的作風を大東亜戦争下の現実にあって着実に推し進めたものです。その点で小野の作風は「詩と詩論」系統のモダニズム詩や「四季」系統の抒情詩よりも現代詩の正統を継ぐものでした。

 昭和8年(1933年)4月に夫人と二児とともに大正10年(1921年)の上京以来ついに帰郷して大阪に居を構えた小野十三郎は在京時の文学論集成『アナーキズムと民衆の文学』をまとめて刊行し、『古き世界の上に』を帰郷後1作目の詩集として昭和9年(1934年)4月に刊行しますが、『半分開いた窓』(全64篇)、『サツコ、ヴアンゼツチの死』(全49篇)と同等の55篇を収めながら大阪帰郷後の新作はまだ第一部の9篇だけで、第二・三部の46篇は在京中の作品でした。前々回にご紹介した「軍用道路」「天王寺公園」は第一部の帰郷後の新作、前回の「留守」は第二部・「同伴者」は第三部の在京時作品、今回の2篇はともに第三部巻末近くと、詩集はほぼ逆年順に作品配列されています。

 小野十三郎昭和2年(1927年)1月創刊の同人誌「文芸解放」社に創刊同人として参加していましたが、萩原恭次郎岡本潤、飯田豊二、矢橋丈吉、江森盛弥、川合仁、金井新作らが参加し壷井繁治が編集・刊行していた「文芸解放」社はダダイズムアナーキズム系からの詩人と元々コミュニズム系の詩人が集まった集団で、同年11月の全国労働組合自由連合会第二次大会が純正アナーキズム派とサンジカリズム派の対立で流会になったのを受け、小野、萩原、岡本らは純正派支持、壷井、江森らは反純正派で同人内に対立が起こり、12月に飯田豊二宅で開かれた文芸解放社同人会議中に純正派アナーキストの黒色青年連盟が襲撃、壷井が負傷、飯田は即退居を強いられ、文芸解放社も即時解散せざるを得なくなります。こうした文学からの革命運動参加が内ゲバ(内部テロ)で瓦解していく状況と戦いながら書き続けられていた時期の詩集や文学論が『サツコ、ヴアンゼツチの死』(新興文学全集・第十巻)や『古き世界の上に』第二・三部、『アナーキズムと民衆の文学』なので、5年ものあまりそうした状況に身をおいた詩人がアナーキスト・グループ中で内縁関係にあった女性と別れ、文学や政治がらみでない夫人と家庭をもうけて二児に恵まれた頃に在京生活に見切りをつけた総決算と再出発の詩集が『古き世界の上に』であり、『半分開いた窓』の(そこが第1詩集なりの良さでもあった)文学少年・青年的な生硬さ、潔癖さはここでは生傷を負いながらより確かな足元を探ろうとしています。それが5年後の小野の最初の傑作詩集『大阪』に結実するのです。

(旧稿を改題・手直ししました)