人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

野口米次郎「雨」(詩集『二重国籍者の詩』大正10年=1921年より)

野口米次郎・明治8年(1875年)12月8日生~昭和22年(1947年)7月13日没
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「雨」

 野口米次郎

雨の唇に歌があるお聞きなさい、其れは空の歌を聞えるやうにしたのです、雨の唇に歌があるお聞きなさい、其れは地の歌を見えるやうにしたのです。
雨の歌は何を歌ひます、私は已(すで)に海の意味を耳にするのです、私は雨を空の死と老いて悲しき単調に疲れて、言葉を唯一の済度と頼む新しい霊だと思ひます。哀しい沈んだ世界の心の霊だと思ひます。
雨の唇に歌があるお聞きなさい、私は其中に時代の脈拍、渇望と神秘、人間の歌の全体を耳にするのです。
雨の唇に歌があるお聞きなさい、何の歌を歌ひますか、地と空の歌でせうか、私は空と地と人間の歌が一つに成つたのを耳にします。

(詩集『二重国籍者の詩』より)

「雨」
 野口米次郎

雨に歌がある、お聞きなさい……
空の歌が聞える。
雨に歌がある、お聞きなさい……
地の歌が聞える。
雨に歌がある、お聞きなさい、
私は時代の脈拍と渇望と、神秘と人間の歌のすべてを聞く。
雨に歌がある、お聞きなさい。
地と空の歌が、人間の歌と一つになつた声を聞く。

(詩集『表象抒情詩』より)


 愛知県出身の詩人・野口米次郎(1875-1947)は明治期の日本の現代詩人でも特異な経歴を持った詩人で、慶應義塾大学に在学中の明治26年(1893年)11月に18歳にしてサンフランシスコに渡米し、木版画の行商や日本人向け新聞社に勤めながらパロアルトの予備学校の特待生となり、21歳の明治29年(1896年)にはアメリカ詩人ウォーウィン・ミラーの秘書を経てミラーの肝入りで明治30年(1897年)にはヨネ・野口(Yone Noguchi)名義で英文の第1詩集『Seen and Unseen』(『明界と幽界』)を上梓します。明治30年島崎藤村(1872-1943)の画期的な詩集『若菜集』が刊行された年ですが、ヨネ・野口の詩集は19世紀アメリカ・イギリスの超越主義的ロマン派詩の系列をそのまま作風としたものでした。ヨネ・野口はアメリカ各地を放浪し、明治31年(1898年)には早くも英文の第2詩集『The Voice of the Valley』(『渓谷の声』)を発表します。24歳から27歳にかけての明治32月(1899年)~明治35年(1902年)にはシカゴの新聞社「イヴニング・ポスト」紙の記者を勤め、明治35年11月にはイギリスに渡ります。28サイズの明治36年(1903年)1月にはロンドンで詩選集『From the Eastern Sea』(『東海より』)を自費出版、この詩集が大反響を呼んで増補版がユニコーン・プレス社から刊行され、イギリスでの名声を確立しました。翌明治37年(1904年)にはニューヨークに戻り日本への帰国を考え始めますが日露戦争の開戦によりジャーナリストとしての仕事の多忙から帰国を延期し、明治38年(1905年)に第3詩集『The Pilgrims』(『巡礼』)を発表したあと同年9月に日本に帰国します。翌明治39年(1906年)には慶應義塾大学英文学科教師に就任し、日本語による海外紀行文集を刊行するかたわら英文の第4詩集『The Summer Cloud』(『夏雲』)を春陽堂から刊行し、大正10年(1921年)まで英米との交換教師を兼務しながら英語による日本文化の紹介の著作、紀行文集を英米仏で刊行しますが、野口米次郎名義で初めての日本語による詩集『二重国籍者の詩』を玄文社から刊行したのも46歳の大正10年12月になりました。

 以上の通り、野口米次郎は島崎藤村土井晩翠、河井醉茗、蒲原有明薄田泣菫ら同世代の明治30年代の新体詩人たちと同期に詩作を始めながら、明治20年代~大正期の日本の現代詩の推移とはまったく無縁に、19世紀末~20世紀初頭のアメリカ~イギリス詩の環境においてのみ作風を確立していた詩人です。日本語詩集『二重国籍者の詩』以降は日本語による新作詩集を刊行しましたが、英語詩時代の詩は大正11年(1922年)の『野口米次郎詩選集』や大正13年(1924年)の『ヨネ・野口代表詩』、大正14年(1925年)の『野口米次郎定本詩集』や大正14年12月~昭和2年(1927年)6月にかけての『表象抒情詩』『第二表象抒情詩』『第三表象抒情詩』『第四表象抒情詩』に野口米次郎自身によって日本語訳されて再発表されています。また日本語による第1詩集『二重国籍者の詩』自体が先立つ英文詩集で発表されていた英語詩の日本語訳によるもので、今回引いた作品「雨」は英文による第1詩集『Seen and Unseen』(『明界と幽界』)に収録された英語詩を『二重国籍者の詩』収録に当たって日本語詩に改作し、さらに総合詩集『表象抒情詩』の第一集に再収録する際に改作が重ねられたものです。

 詩集『二重国籍者の詩』収録の「雨」は、いかにも英語原文からの直訳くさい生硬な表現に無理があるばかりか、およそ日本語の文体として体をなしていないものです。「雨の唇に歌があるお聞きなさい、其れは空の歌を聞えるやうにしたのです、雨の唇に歌があるお聞きなさい、其れは地の歌を見えるやうにしたのです。」という第一連は具体的な直喩すぎ、雨が雨音を立てて降るさまを「雨の唇」、雨粒が地面に散る音のさまを「地の歌」とするのは日本語の表現として破格すぎ、詩として意味の露出に傾きすぎています。ほとんど子供の描くような擬人化表現に始終しており、『若菜集』と同時代の詩としても、日本語詩として再発表された大正10年の時点の詩としてもあまりに無理の目立つものです。しかし、英語詩の直訳体からより練れた日本語詩に改作された『表象抒情詩』での改作での「雨」では、そうした日本語表現の無理から来る抵抗感が一掃されたことで、詩としてはかえって印象の稀薄な、平凡な抒情詩に収まってしまっているのも明らかです。日夏耿之介の大著『明治大正詩史』では野口米次郎については、ヨネ・野口名義の英文詩集時代の業績を「英米詩壇において東洋人による英文詩であることによってのみ功績を残し、同時代の日本の詩とは干渉を持たない」ものだったとしています。野口米次郎が明治30年代の日本にあって日本語の詩を残していたらというのは仮想にしか過ぎませんが、「雨」について言えば日本語の体裁をなしていない『二重国籍者の詩』での発表型の方に日常言語から離れた詩としての驚きがあり、日本語詩として練れた『表象抒情詩』での改作では原作の詩趣はことごとく霧散してしまっている倒錯した現象が起こっており、今やほとんど顧みられることがない野口米次郎という歴史の彼方の詩人がいかに異例の境遇にあった存在であったかを表しています。過去の詩人に目を向けるとはヨネ・野口から野口米次郎に起こったそうした曲折に目を向けることでもあるでしょう。