人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

警句と皮肉(2)

「私たちは運命だと思うの」と結婚を決めたのは妻だった。話し合いもなしに離婚を決めたのも妻だった。
別れた妻は初めて会った時から嘘も隠し事もできない女性で、離婚の間際までそれは続いた。ぼくには一言もなく保健所と警察署に離婚の計画を起てたのは娘たちを連れて家出した2週間ほど前だと後で知った。彼女は協力者を揃えていて、マンションに妻と娘たちが戻る条件はぼくが出ていくことだった。ウィークリー・マンションはすでに用意してあった。まったく土地勘のない、乾燥しきった町だった。隣がお寺、向かいが幼稚園だった。
ゴダールの「気**いピエロ」にこんな科白がある。「彼女が外は晴れね、と言えば、外は晴れなのだ」
妻はそういう女だった。だから彼女がぼくを告訴すれば、ぼくは告訴状通りの人間ということになった。裁判5日前の最初の接見で、DV常習者の先入観で緊張して入ってきて、顔を会わせた国選弁護士の嘲るような表情。拍子抜けしたのだ。裁判も最低だった。検事は専門家なら絶対してはならないことをして裁判長に叱責されていた。ぼくが獄中から出した娘へのバースディー・カードを妻が届け出たらしく(!これは悲しかった)、それを再犯(何の?)の可能性の根拠にしたのだ。裁判長は直ちに却下した。ましだったのはそのくらいのものだ。
(釈放後に市の法律相談を受けたところ、ぼくが違犯したとされる条令はぼくの条件には本来適用されるものではなく、新条令のキャンペーンとして拡大解釈された気配が濃厚だと知った。ただしぼくはすべてを認めて有罪となったのだからもう後の祭りだ)

こうしたことも踏まえて前回挙げた警句を見ると、ぼくがいかにどの警句をも身を持って証明してきたかが判る。
「すべての詩人は狂人だが、狂人のすべてが詩人ではない」出典不詳。説明不用。それでも次の警句、
「悪人でも人間には違いないのだから、ヘボ詩人でも詩人には違いない」(G・K・チェスタートン「新ナポレオン奇譚」)のおかげで何とか救われる。
「危機を経験した人間は信頼できるが、危機が多すぎるのも問題である」この現実性はイギリス人だろう、と註したが、深くこうべを垂れるしかない。
三島由紀夫仮面の告白」からフランス作家からの孫引き。「…女が力をもつのは、ただその恋人を罰し得る不幸の度合によってだけである」
これがオチかよ!