人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

「苦しみを担う者の信条」を読んで

のっけから引用。これは現代詩の紹介・鑑賞ではない。ぼくの通う教会の聖書研究会の副読本に参考資料として掲載されていた詩だ。ニューヨーク大学リハビリテーション研究所の壁に一患者の作品として掛けられているという。タイトルは「苦しみを担うものの信ずるところ」(あまりこなれた訳ではないが、原文がないので訳文に従う。タイトルだって「苦しみを受け入れた者の信条」とすべきだろう)。以下追い込みで引用する。

大事をなそうとして/力を与えて欲しいと神に求めたのに/慎み深く従順であるようにと 弱さを授かった/より偉大なことができるように 健康を求めたのに/より良きことができるようにと 病弱を与えられた/幸せになろうとして 富を求めたのに/賢明であるようにと 貧困を授かった/世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに/神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった/人生を楽しもうと あらゆるものを求めたのに/あらゆることを楽しめるように 生命を授かった/求めたものは一つとして与えられなかったが/願いはすべて聞き届けられた/背ける身にもかかわらず/言いあらわせなかった祈りもすべてかなえられた/私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ
(出典・キリスト教との出会い 生きる力」日本キリスト教団出版局)

さて、どこから手をつければいいのだろう。この「詩」なるものの正体は一体なんだろうか?一読して背筋に冷たい嫌悪が走り、冷静にレトリックの整合性を確かめながらこれはこれで大したものだと認めるのだが、ぼく自身の感想は反感と怒り、このふたつに尽きた。
たぶんこれはアメリカ人(市民)にとっての「雨ニモ負ケズ」なのだ(とぼくは考えた)。アメリカ市民、とひとくくりで言う時、そこには抽象概念しか存在しない。具体的な個人はアメリカ市民を代表しない。この「詩」は捏造されたステイトメントだ。厳密には詩とは言えないものだ。
それで済めばいい。すでに「雨ニモ負ケズ」に例えたが、相田みつをかもしれない。居酒屋の便所に貼ってあるアレ。一種の魔除け。個人の苦痛にはまるで関係なく、それどころか本質的な問題から人を逸らしてしまう代物。
おそらく東洋思想(具体的には老荘思想)とキリスト教の混在がある。幅広く人を感動させる要素がある。なのにぼくのこの反感はどこから来るのだろう?