人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

山之口貘『喪のある風景』ほか

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 山之口貘(1903-1963)は沖縄生まれの詩人。19歳で上京後は数十種類の職業を転々としながら、主義としてのアナーキズムではなくホームレスの立場から特異な詩を書いた。詩集に「思辨の苑」1938、「山之口貘詩集」1940、「定本山之口貘詩集」1958、「鮪に鰯」1964がある。

 前回紹介した「生活の柄」を筆頭に、山之口はルンペン・プロレタリアートの詩人として注目された。第一詩集より『座蒲団』。

土の上には床がある
床の上には畳がある
畳の上にあるのが座蒲団でその上にあるのが楽という
楽の上にはなんにもないのであろうか
どうぞおしきなさいとすすめられて
楽に座ったさびしさよ
土の上の世界をはるかにみおろしているように
住み慣れぬ世界がさびしいよ
 (詩集「思辨の苑」より)

一方で結婚願望をあっけらかんと詠う。『現金』

誰かが
女というものは馬鹿であると言いふらしていたのである。
そんな馬鹿なことはないのである
ぼくは大反対である
諸手を挙げて反対である
居候なんかしていてもそればかりは大反対である
だから
女よ
だから女よ
こっそりこっちへ廻っておいで
ぼくの女房になってはくれまいか。

また、『もしも女を掴んだら』。

もしも女を掴んだら
丸ビルの屋上や煙突のてっぺんのような高い位置によじのぼって
大声を張りあげたいのである
つかんだ

つかんだ

つかんだあ と張りあげたいのである
(…)
僕にも女が掴めるのであるという
たったそれだけの
人並のことではあるのだが。

 だが山之口貘畢生の代表作はこの一篇になるだろう。『喪のある風景』。

うしろを振りむくと
親である
親のうしろがまた親である
その親のそのまたうしろがまたその親の親であるというように
親の親の親ばっかりが
むかしの奥へとつづいている
まえを見ると
まえは子である
子のまえはその子である
その子のそのまたまえはそのまた子の子であるというように
子の子の子の子の子ばっかりが
空の彼方へ消えているように
未来の涯へとつづいている
こんな景色のなかに
神のバトンが落ちている
血に染った地球が落ちている
 (詩集「山之口貘詩集」より)