石原吉郎(1915-1977)は静岡生まれの詩人。24歳で応召、敗戦後の8年間ソヴィエトで強制労働に従事(いわゆるソヴィエト抑留兵)。帰国後に始めた詩作でたちまち一流詩人と認められた。一兵卒として青年時代の15年間を戦地に過ごした後の詩人デビューは石原を措いて他にない。その詩もまた、戦前・戦後を通して例のない詩法で書かれたものだった。
『葬式列車』
なんという駅を出発してきたのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
真っ黒なかたまりが
投げこまれる
そいつはみんな生きており
汽車が走っているときでも
みんなずっと生きているのだが
それでいて汽車のなかは
どこでも屍臭がたちこめている
そこにはたしかに俺もいる
誰でも半分はもう亡霊になって
もたれあったり
からだをすりよせたりしながら
まだすこしずつは
飲んだり食ったりしているが
もう尻のあたりがすきとおって
消えかけている奴さえいる
ああそこにはたしかに俺もいる
うらめしげに窓によりかかりながら
ときどきどっちかが
くさった林檎をかじり出す
俺だの 俺の亡霊だの
俺たちはそうしてしょっちゅう
自分の亡霊とかさなりあったり
はなれたりしながら
やりきれない遠い未来に
汽車が着くのを待っている
誰が汽車にいるのだ
巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
どろどろと橋桁が鳴り
たくさんの亡霊がひょっと
食う手をやすめる
思い出そうとしているのだ
なんという駅を出発してきたのかを
(詩集「サンチョ・パンサの帰郷」より)
石原の晩年はおそらく適応障害による奇行が目立ち、その死も事故死か自殺かわからないものだった(服薬・泥酔中の入浴による心臓発作)。最晩年の佳作を挙げる。
『風』
男はいった
パンをすこし と
すなわちパンは与えられた
男はいった
水をすこし と
水はそれゆえ与えられた
さらにいった
石をすこし と
石は噛まずに
のみくだされた
そのあとで男はいったのだった
風と空とをすこしずつと
(詩集『足利』1977より)