人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

娘たちへの贈り物

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一昨日の夢では次女に先立たれるなど実に陰惨な目にあったが、先週からいそいそとヴァレンタインと進級祝いを揃えて娘たちのことを思う時間が多かったからだ。妻はともかく娘たちは、ぼくをたまには思い出すだろうか?ブログで訳載中のボブ・ディランの曲でも別れた女性を歌うと必ず「彼女はぼくを覚えているだろうか」というフレーズが出てくる。実に女々しいが、これは男特有の女々しさであって、女性には稀薄な感情なのではないか。未練、と他人からは見えるかもしれない(ぼくなど娘たちに折々にプレゼントを贈っているのを知人に罵倒されたことすらある)。女々しいと言わば言え。未練と言うなら違う。それに夫婦別れと父娘の縁は別、というのもある。
「女の腐ったようなやつ」という慣用句もある。これは「女々しい」よりさらにひどい。案外女性に男性優位主義者が多く、男性優位主義者ではない男を許さない。男がわざわざ自分の性別を意識しないで済むようにはいかない女性がいて、彼女にとっては女とは常に男に対する対概念だから、男性優位主義が安定していないと彼女自身の立場も揺らぐ、ということになるようだ。
たとえば日常の現実では同性愛者は危険・反社会的な存在。その前提があるから、芸能や芸術の世界では興味や享楽の対象になる。
話が脱線気味だが、これまたディランの「ロック三部作」(「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」「追憶のハイウェイ61」「ブロンド・オン・ブロンド」の3作を勝手にそう呼ぶ)にはオカマがぞろぞろ出てくるのだ。ディランも当然そのひとりの、アンディ・ウォホールを中心とした60年代ニューヨークのアート界では、ゲイまたはゲイの友人であることもアーティストの証のひとつだった。その30年前には20世紀アメリカ最高の詩人ハート・クレイン(1899-1932)がゲイとして、また詩人としての悩みで船上から海中へ入水自殺している。隔世の感がある。
脱線した。この一文は娘たちに送ったCDの話題のつもりだった。
ボブ・ディラン「グレイテスト・ヒッツ」(上)
ビーチ・ボーイズ「終わりなき夏」(中)
●ビル・エヴァンズ&ジェレミー・スタイグ「ホワッツ・ニュー」(下)
去年はマイルス・デイビスビートルズストーンズのベスト盤を贈った。パパからのプレゼント、解説ならママに訊けばわかるよ。