まず詩人は職業ではない。商売にはならない。定年後に専業詩人を名乗る程度だろう。文筆で身を立てる人も多少はいるが、詩自体で生計は立たない。エッセイスト、新聞雑誌の選者、スクール講師を兼ね、時おり依頼がある短編小説で賞でも取って…と思っている。これでは中原中也の没後、小林秀雄が現代詩になど見向きもしなくなったのも当然だ。
だが一方、一介の同人誌詩人で自費出版詩人だった人が、短い生涯の晩年にはっきりと死の予感をもって突き抜けた例も思い出すことができる。そこに到って初めて詩は実存すべてを吹き込まれたものとなった。
だから氷見敦子遺稿詩集「氷見敦子詩集」が1986年秋に刊行され大きな反響を呼んだ時、それまで5冊あるという以前の詩集も読みたいと思った。「氷見敦子全集」の刊行は5年後の1991年秋、8ポ2段組400ページで散文・書簡・日記も収録されている。
氷見敦子(1955-1985・画像1)は晩年までは特に際立った詩人ではなかったが、胃癌で逝去した1985年に書かれた遺稿詩集で独自の風格に達した。真に優れた詩人になったのと予期しない早逝は裏腹のことだった。
出版社勤務の後、まもなくフリーライターへ(左川ちかも商業記事を書いた。左川も氷見も器用ではない)。84年(29歳)1月、結婚を宣言して同人誌仲間の「井上さん」と暮し始める。健康の急激な悪化を自覚、予想通り胃潰瘍も患っていたが、年末には家族に癌の告知がある。人前に姿を見せたのは85年8月が最後となり、9月に遺稿となった作品が同人に届く。死の前月まで本人に告知はなかった。10月6日逝去、享年30歳。
ほぼ同年輩と言える立中潤(1952-1975・画像2)は、80年代の消費文化を生きた氷見と較べると、50年代まで遡る政治の季節の最後を生きたように見える。79年に詩・評論「叛乱する夢」と日記・書簡「闇の産卵」で、生前未刊だった晩年の詩群、抜群に面白い大学時代の日記が、故郷の銀行に縁故採用後わずか2か月目の自殺から4年後に刊行され評判を呼んだ。生前の詩集は無視と酷評に終った人だった。
立中潤の未刊行手記は70年代前半の大学生詩人の東京生活をいきいきと描き、ようやく晩年に表現の端緒についたことを示す。享年23歳。
この生れ年3年違いの2詩人を読み返してみたい。死者はいつまでも若い。