(氷見敦子<昭和30年=1955年生~昭和60年=1985年没>)
『氷見敦子全集』思潮社・平成3年=1991年10月6日刊
消滅してゆくからだ 氷見敦子
眠りについた男の腕のなかから
昨日よりもさらに深い夢の奥へ入っていく
その女のからだが水の通路になっていて
水音が聞こえる、どこかで
水道の蛇口が大きく開かれているのか
流しを打つ水が溢れて台所を飲み込んでいく
気がつくと脳のなかまで水嵩が増し
わたし、少しずつ死んでいくみたいだ
隣のアパートの屋根が闇の表に黒光りしている、その下には
蜥蜴を飼っている女が棲んでいるのだと
いつのまにか思い込むようになった
真夜中、
ひっそりと明かりのともる窓から
女の吐き出す熱っぽい咳が絶えまなく聞こえる
咳と咳のすきまに水が流れた
大量の水が夢の奥へ流されていく、水の底には
頭部が異常に発達した蜥蜴といっしょに溺死した女が沈んでいる
死んだように生きるよりも、想念の
死体となって永遠に生きていくのよと言い放った
女の唇だけがまだ微かに笑っている
かつてふたつの目玉があったところには
井戸が掘られ
いまでは無限そのものを
井戸の底から見据えることができる
畏れることなく
女の視線が宇宙のかなたへ向かっているのだ
わたしはまだ夢の奥で水の音を聞いています
からだを貫いて流れる、流れていく水音が
いっさいの音という音を掻き消していく、水が流れて
とめどなく流れていく水は、きっと
惑星の果てに注ぎ込んでいるのですね
もう肉体など必要ない
女のからだが虹のように空にかかるのがみえる
(女性詩誌「ラ・メール」昭和59年10月発表、『氷見敦子詩集』思潮社・昭和61年=1986年10刊収録)
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氷見敦子(昭和30年=1955年生~昭和60年=1985年没)は大阪府寝屋川市の裕福な家庭に生まれ、フェリス女学院大学に学び英文科を卒業しました。幼少からピアノを習い、18歳の頃の夢は女優、シンガーソングライター、作家だったという文学少女だった氷見は、同大学で講師だった詩人・中桐雅夫に師事して本格的に詩作を始めるようになります。1980年代に入って同世代の詩人との同人誌活動に参加し、'80年代の女性詩人ブームに乗って自費出版詩集『石垣のある風景』(紫陽社・昭和55年=1980年)、『水の人事』(ワニ・プロダクション・昭和57年=1982年)、『パーティ』(七月堂・昭和58年=1983年)、『異性の内側』(詩画集、あとりえ・のおと、銅版画=岩佐なを・昭和58年=1983年)、『柔らかい首の女』(一風堂・昭和59年=1984年)を刊行していました。広告会社勤務からフリーライターとして独立していましたが、実家を出て同人誌仲間の恋人と暮らし始めたのは詩集『柔らかい首の女』刊行後になります。詩集刊行ごとに徐々に注目を集める詩人になっていましたが、氷見敦子の名を現代詩に刻んだのは著者の一周忌に編まれた『氷見敦子詩集』に収録される詩篇が発表され始めた晩年1年間で、悪性腫瘍の悪化による逝去(享年30歳)の翌年の昭和61年(1986年10月)に刊行されました。昭和59年(1984年)9月発表~昭和60年(1985年)11月発表(逝去翌月)の遺作にいたる14か月間に発表された14篇からなる遺稿詩集です。本人自身の編集ではない遺稿詩集なので詩篇は詩作年代順に並べられています。
今回ご紹介した詩は巻頭作品にあたる、詩集中でも比較的短い一篇です。まとまりのいい詩ですが、この「消滅してゆくからだ」と詩集で次に置かれた「アパートに住む女」(「現代詩手帖」発表)は「女」をテーマにした前詩集「柔らかい首の女」の補遺といえる作品です。氷見敦子にとってはこの2篇が初の商業誌発表でしたから、詩作時期より掲載月が遅かったと思われます。巻頭から三番目の詩篇「神話としての「わたし」」は昭和59年(1984年)9月同人誌「SCOPE」発表で、ここから恋人の「井上さん」が登場し、詩篇の長編化・断片化とともに、絶筆「鍾乳洞へ降りていく」までの異様な文体が試みられるようになります。氷見敦子の全詩集・エッセイ・日記・書簡は一巻本の『氷見敦子全集』(思潮社・平成3年=1991年)にまとめられていますが、全集刊行が実現されたのも晩年1年間の短い恋愛経験と徐々に悪化していく病苦から書かれた遺稿詩集『氷見敦子詩集』の壮絶な作品世界によるので、早逝を代償にしなければ到達できなかった詩集と思うと痛ましく感じもし、また進行形で死への直面と、死による強制終了を予定された恋愛を描いた詩集というテーマに立ち向かい、限界まで書ききった氷見敦子の創作への営為は驚嘆せずにはいられません。今後も機会を作って氷見敦子の詩をご紹介していきたいと思いますが、最後に『氷見敦子詩集』の収録詩篇目次を上げておきます。この詩集は急逝によって未完となった詩集でもありますが、死によって稀薄化していく生の感覚、まるで看取るかのような恋人との関係の推移が、一篇ごとの詩のタイトル(詩作順)を見ていくだけでも暗示されているかのようです。