人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

氷見敦子「日原鍾乳洞の『地獄谷』へ降りていく」(『氷見敦子詩集』昭和61年=1986年刊より)

(氷見敦子<昭和30年=1955年生~昭和60年=1985年没>)
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『氷見敦子全集』

思潮社・平成3年=1991年10月6日刊
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日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく

氷見敦子

その日を境に
急速に体調が悪化していった

明け方、喉の奥が締めつけられるように苦しく
口にたまった唾液を吐き出す
胃を撫でさすりながら
視線が、白み始めた窓の外へさまよっていく

八月、千石からレンタカーをとばし
奥多摩の陽射しをぬって (井上さんといっしょに)
日原鍾乳洞に入った
見学料金
大人・500円 中人・350円・小人・250円
入洞時間
午前8時~午後5時

蛇行する道を
引き込まれるようにして進む
左右から鍾乳石が不思議な形で迫ってきて
躯を小さく沈めるようにして歩く

一晩中、鈍い腹の痛みが続いた
何度でも寝返りを打ち
躯を眠りの穴へ追い落とすようにするのだが
痛みに引きもどされ
呻くしかない
まどろみながら夢のない夜を渡っていく

冷気が洞穴に満ちているので
思考する温度が急速に下がり始める
かつて、狭くて暗い道を通ってきたことがある
という記憶が
脳の奥で微かにうづくようだが
恐怖はなく
本能だけがわたしの内側をぼんやり照らし出している
柔らかい胎児の足が
濡れた道をこすって穴の奥へ這い寄っていく

下腹部が張り
死児がとり憑いたように腹が膨らんでいる
胃と腸が引きしぼられるように傷み
躯をおこすこともできず
前かがみになってのろのろと移動する

鍾乳洞の壁を伝って地下水がしたたり
足元に水たまりを作っていた

「格天井」「船底岩」を過ぎ
「天井知れず」の下で頭上を眺める
重なり合った鍾乳石の割れ目にぽっかりあいた穴の果ては
見きわめることもできず
目を凝らすうちに
とりかえしのつかない所まで来てしまったことに気づく
わたしの足には
もう鎖のあともないが
数百年、ひとりの男であったわたしは
このような地の底の牢獄に閉じ込められていたような気がする

便が出なくなり下剤を常用する
午前八時に便器にすわり
一時間近くにわたってどろどろに溶けた便を何度も出す
トイレットペーパーが大量に消費され
汚水が滝のように下の階へ流される

「三途の川」を渡って「地獄谷」に降りる
地の底の深い所に立つわたしを見降ろしている井上さんの顔が
見知らぬ男のようになり
鍾乳石の間にはさまっている
ここが
わたしにとって最終的な場所なのだ
という記憶が
静かに脳の底に横たわっている
今では記憶は黒々とした冷えた岩のようだ
見上げるもの
すべてが
はるかかなたである

九月、大阪にある「健康再戦会館」の門をくぐる
ひた隠しにされていた病名が明からにされる
再発と転移、たぶんそんなところだ
整体指圧とミルク断食療法を試みるが
体質に合わず急激に容体が悪化する
夜、周期的に胃が激しく傷み
眠ることができない
繰り返し胃液と血を吐く、吐きながら
便を垂れ流す

翌日、新幹線で東京へもどる

(同人誌「SCOPE」昭和60年=1985年11月発表)


 氷見敦子(昭和30年=1955年2月16日生~昭和60年=1985年10月6日没・享年30歳)の没後刊行詩集『氷見敦子詩集』(思潮社・昭和61年=1986年10月6日刊)は第4詩集『柔らかい首の女』(昭和54年=1984年10月刊)の完成した1984年6月以降、1986年10月の氷見急逝までに書き継がれた14篇が制作順にまとめられた詩集で、巻末に収められた今回の没後発表の1篇をご紹介して詩集は未完に終わります。氷見敦子の略歴、遺稿詩集『氷見敦子詩集』の制作背景は、これまでの13篇をご紹介した際にたどってきました。今回ご紹介した、
日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく (同人誌「SCOPE」昭和60年=1985年11月発表)
 は、点滴を受けながらほとんどペンを握る力もない状態の入院中の最晩年の病床で書かれ、昭和60年9月24日付けで同人誌に送られており(全集年譜による)、そのまま絶筆となり、10月6日の氷見敦子逝去翌月に同人誌発表された作品です。詩集中盤以降の長詩化に並べると1/2~1/4以下に短く、詩行も短く、メタファーもほとんど用いられず、おそらくこれ以上は書けないと判断して未完の状態で続きや仕上げを断念したと思われる、衰弱もはなはだしい遺作ですが、それだけにこれまでの『氷見敦子詩集』収録詩篇がいかに無理を押して書かれ、優れた出来を示してきたかを痛感させられる絶筆です。『氷見敦子詩集』は第4詩集『柔らかい首の女』(昭和54年=1984年10月刊)の刊行に合わせて初めて投稿以外で商業詩誌からの依頼発表となった2篇「消滅していくからだ」「アパートに棲む女」から始まりますが、その冒頭2篇は第4詩集『柔らかい首の女』の補遺とも言えるもので、冒頭から3篇目の「神話としての『わたし』」から『氷見敦子詩集』ならではの作風・文体が始まります。この1週間で「アパートに棲む女」「神話としての『わたし』」以降の詩集全編をご紹介してきて、冒頭の「消滅していくからだ」はそれだけ4月にご紹介したきりだったので、再び掲載しておきます。詩集巻頭詩から絶筆までのたった1年の間に、氷見敦子の晩年の詩これほど変貌したのです。

消滅してゆくからだ

氷見敦子


眠りについた男の腕のなかから
昨日よりもさらに深い夢の奥へ入っていく
その女のからだが水の通路になっていて
水音が聞こえる、どこかで
水道の蛇口が大きく開かれているのか
流しを打つ水が溢れて台所を飲み込んでいく
気がつくと脳のなかまで水嵩が増し
わたし、少しずつ死んでいくみたいだ

隣のアパートの屋根が闇の表に黒光りしている、その下には
蜥蜴を飼っている女が棲んでいるのだと
いつのまにか思い込むようになった
真夜中、
ひっそりと明かりのともる窓から
女の吐き出す熱っぽい咳が絶えまなく聞こえる
咳と咳のすきまに水が流れた
大量の水が夢の奥へ流されていく、水の底には
頭部が異常に発達した蜥蜴といっしょに溺死した女が沈んでいる
死んだように生きるよりも、想念の
死体となって永遠に生きていくのよと言い放った
女の唇だけがまだ微かに笑っている
かつてふたつの目玉があったところには
井戸が掘られ
いまでは無限そのものを
井戸の底から見据えることができる
畏れることなく
女の視線が宇宙のかなたへ向かっているのだ

わたしはまだ夢の奥で水の音を聞いています
からだを貫いて流れる、流れていく水音が
いっさいの音という音を掻き消していく、水が流れて
とめどなく流れていく水は、きっと
惑星の果てに注ぎ込んでいるのですね
もう肉体など必要ない
女のからだが虹のように空にかかるのがみえる

(女性詩誌「ラ・メール」昭和59年10月発表)

 第1連末の「わたし、少しずつ死んでいくみたいだ」が図らずも本当にこの詩発表のちょうど1年かけて進行していったと思うと、初の商業詩誌依頼発表詩という記念もありますが、「神話としての『わたし』」からではなくこの「アパートに棲む女」から制作年代順に『氷見敦子詩集』が編まれたのも、昭和58年(1983年)4月から享年まで2年半氷見敦子が拠った同人詩誌「SCOPE」同人の見識がうかがわれます。また遺稿詩集『氷見敦子詩集』収録詩篇の発表期間中に同人誌発表され、詩集に収録洩れとなった作品が1篇だけあります。同作は没後6年目の命日に刊行された『氷見敦子全集』の「未刊詩篇」の部(詩誌発表・詩集未収録詩篇37篇)で初めて単行本収録になりました。

水浴びをする女

氷見敦子

最初に
水の音が聞こえた
壁の内側に透明な水が湧き出し
からだから立ち昇る夢を絶えまなく洗っていく
ひんやりとしたものに
髪の毛一本、一本まで浸されたあとは
裸足のまま
泳ぐように廊下をさまよっている
今夜も
水音をさぐる目玉が
ゆらゆらとわたしから燃え出し
星の光となってかなたを照らし出すことをやめない
ひとり脳の底に降り立ち
妄想の皮を剥ぐようにして服を抜き捨てている
遠いところから這い出した
女の息遣いと重なり合ったまま
全身に水を浴びた
ほとばしるものが
しだいに熱を帯びてくる夢のなかで
わたしを呼びとめる人は
だれもいない

(同人誌「BLACKPAN」昭和60年=1985年4月・『氷見敦子全集』平成3年=1991年10月刊「未刊詩篇」収録)

 これはいわば氷見敦子が管直人選挙事務所広報や資生堂広告に携わってきたのと同じ広告的な詩であり、広告とは一方的に自分を告げるもので、世間一般の伝達言語とはほとんどそういうものです。しかし詩とは伝達とは別の次元にある無償の言語行為です。これが収録洩れになったのは「SCOPE」同人の見落としか、「井上さんのいなくなった部屋で、ひとり……」(同人誌「SCOPE」昭和60年=1985年3月発表)と「井上さんと超高層ビル群を歩く」(「SCOPE」昭和60年=1985年5月発表)の間の発表で他誌に求められて旧作を出してきたからかもしれませんが、「水」「音」「女」「壁」「目玉」「脳」「妄想」と氷見敦子らしい語彙は揃ってまとまっているとしても素質のある初心者の投稿詩程度の次元にとどまっていて、質と規模において『氷見敦子詩集』収録の水準に達していないのは明らかでであり、逆に『氷見敦子詩集』がいかに全力を尽くした詩篇が集中的に書かれていたかを物語ります。氷見敦子は25歳の第1詩集『石垣のある風景』(昭和55年=1980年8月刊)から第4詩集『首のない女』(と岩佐なお・銅版画との詩画集『異性の内側』昭和58年=1983年6月刊)まですべて自費出版でしたが、『氷見敦子詩集』までも詩集1冊ごとに着実に進展を遂げてきており、晩年1年の爆発的な詩作も5年来の研鑽の腕前によるものだったのが全詩集・エッセイ・書簡・日記を集成した『氷見敦子全集』でわかります。その究極の達成が遺稿詩集となることを運命づけられた『氷見敦子詩集』だったのは痛ましく、絶筆「日原鍾乳洞の『地獄谷』へ降りていく」は最後の小康状態だった逝去1か月半前の8月下旬の「井上さん」との奥多摩鍾乳洞見学を題材とし、翌月の末期胃癌告知を経て書かれていますが、衰弱そのものを詩行が告げるこのような遺言的作品についに呼び寄せられたことで氷見敦子の命の灯火も消えていったので、本作はもはや批評の域を越えた巻末作品の位置を占めています。今回までで『氷見敦子詩集』全篇のご紹介が済みました。詩集目次を上げておきましょう。
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『氷見敦子詩集』

思潮社・昭和61年=1986年10月6日刊・目次
○消滅していくからだ (女性詩誌「ラ・メール」昭和59年=1984年10月発表)
○アパートに棲む女 (「現代詩手帖」昭和59年=1984年11月発表)
○神話としての「わたし」(同人誌「SCOPE」昭和59年=1984年9月発表)
○夢見られている「わたし」(同人誌「かみもじ」昭和59年=1984年10月発表)
○井上さんと東京プリンスホテルに行く (同人誌「SCOPE」昭和59年=1984年11月発表)
○千石二丁目からバスに乗って仕事に行く (同人誌「SCOPE」昭和60年=1985年1月発表)
○井上さんのいなくなった部屋で、ひとり…… (同人誌「SCOPE」昭和60年=1985年3月発表)
○井上さんと超高層ビル群を歩く (同人誌「SCOPE」昭和60年=1985年5月発表)
○一人ひとりの<内部>の風景を求めて (同人誌「漉林」昭和60年=1985年9月発表)
○井上さんといっしょに小石川植物園へ行く (同人誌「ザクロ」昭和60年=1985年8月発表)
○東京駅から横須賀線に乗るとき (同人誌「SCOPE」昭和60年=1985年9月発表)
半蔵門病院で肉体から霊が離れていくとき (同人誌「SCOPE」昭和60年=1985年7月発表)
○「宇宙から来た猿」に遭遇する日 (「現代詩手帖」昭和60年=1985年10月発表)
日原鍾乳洞の「地獄谷」へ降りていく (同人誌「SCOPE」昭和60年=1985年11月発表)