人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

「千の顔を持つ男」ロン・チェイニー(1883-1930)主演作『天罰』The People (Goldwyn Pictures'20)

 (『天罰(The Penalty)』'20の1シーンより)
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 ロン・チェイニー(Lon Chaney, 1883-1930)は『ノートルダムの傴僂男』'23、『オペラの怪人』'25(邦題『オペラ座の怪人』はリメイク作品以降のタイトル)の2作だけでも映画史に残る俳優ですが、映画がサウンド・トーキー化した直後に早逝(享年49歳)した、生粋のサイレント映画俳優と言うべき映画人でした。息子のロン・チェイニー・ジュニア(1906-1973)も映画のトーキー化後にデビューし、小柄だった父とは違う巨体を生かしてユニヴァーサルの怪奇映画のスターになり、'40年代に狼男、ミイラ男、フランケンシュタインの怪物、ドラキュラの4大モンスターをすべて演じ、戦後は性格俳優として『真昼の決闘』などにも出演しましたが、普通ロン・チェイニーと言うとサイレント時代の大俳優である父チェイニーを指し、息子の方はジュニアをつけて呼ばれます。さて、移民1世の両親がともに聾唖者だったためパントマイムを身につけて育ったというチェイニーは、舞台俳優デビューは22歳の'02年という遅い出発でしたが、'12年にパラマウント社の前身フェイマス=ラスキー・コーポレーションで映画俳優デビューし、D・W・グリフィス(1875-1948)と並んでアメリカ映画の父とも言える早逝の映画監督=プロデューサー、西部劇を得意としたトーマス・H・インス(1880-1924)の短編に多く出演した後、'18年には特異な性格俳優としての座を固めてフリーとなり同年だけでも長編9作に出演。日本公開された中でも最古のチェイニー出演作でインス製作、アメリカ映画初の西部劇スターの座をハリー・ケリー(シニア、1878-1947)と分けあうウィリアム・S・ハート(1864-1946)主演の『リッドル・ゴウン』'18の撮影を見学した夭逝の鬼才監督、ジョージ・ローン・タッカー(1872-1921)がチェイニーに注目し、意欲作『ミラクルマン』The Miracle Man (Famous Players-Lasky'19.Aug.29)の主演に抜擢し、同作は制作費12万ドルに対して興行収入300万ドルの年間No.1の大ヒット作になり、タッカー最大のヒット作かつチェイニーの大ブレイク作となりました。『ミラクルマン』はアメリカ本国でも日本でもグリフィスをしのぐ映画的革新性を謳われましたが、同作が日本公開中の'21年6月のタッカーは急逝し、『ミラクルマン』の後1作を残して早逝してしまったため忘れられるのも早く、また映画のトーキー化以後に次々とサイレント時代の映画の大半は再上映の需要なしと放置され、廃棄、紛失、焼失(サイレント時代の映画フィルムは常温ですら可燃性の高い、自然発火すら珍しくない材質でした)してしまったことから『ミラクルマン』は'30年代に作られたサイレント映画名場面集のオムニバス映画に抜粋された2分半程度の断片(https://youtu.be/Z_Mk4pjydBk)しか残っておらず、同作の散佚はアメリカ映画史最大の損失の一つとされています。タッカーの作品自体が長編12作のうち移民の人身売買組織を描いた長編第1作の『暗黒街の大掃蕩(Traffic in Souls)』'13('94年Kino InternationalよりVHS復刻、2008年Flicker AlleyよりDVD復刻)しかフィルムが現存しておらず、タッカーはアメリカ映画創生期の幻の巨匠としてもっともミステリアスな映画監督とされています。ロン・チェイニーにしても'12年のデビュー短編から'17年の短編最終作まで84本('12年と'17年は1本きりで、'13年~'16年にに82本)、'14年の初長編から'30年の遺作まで長編83編と、判明しているだけでも167本の映画に出演したうち100本以上が失われているとされ、長編83作のうち36作は散佚し、残る47作も不完全版や短縮版を含み(全編現存は約30作)、現存する最古のチェイニー出演作の西部劇「By the Sun's Rays」'14(監=チャールズ・ギブリン、主演=マードック・マッカーリー、Universal Pictures'14.Jul.22, 11min : https://youtu.be/RcOHfzVXlRQ)ほか数編を除いて短編のほとんども、現在では散佚作品になっています。アメリカ映画協会の調査では現在では全世界で製作されたサイレント時代の映画の75%以上が散佚しているといいますから、長編主演作約80作のうち全編が現存する約30作(海外盤DVD化済み)に今でも熱烈なファンがついているチェイニーは、チャップリン、ロイド、キートンらの喜劇以外を除いたアメリカのサイレント劇映画では今なおもっとも人気の高い俳優なのです。
 一般的には『ノートルダム~』『オペラ~』の2作が代表作とされ、またこの2作もチェイニーの本領を発揮した名作ですが、悪役俳優からキャリアを始めたチェイニーは、さまざまな社会的弱者を演じることを生涯のテーマにしていた異色の俳優でした。それは当時のアメリカではネガティヴに見られた被差別下の状況にある人々――先住民や少数民族移民、有色人種、身体障害者精神障害者、搾取された労働者、貧困や孤独を背景にした犯罪者ら、社会の暗部を担う役柄を演じることに表れたので、チェイニーの主演映画ではそうした社会の底辺で抑圧された主人公がしばしば残酷な境遇に反抗して反社会的な行動を重ね、無惨な破滅を迎えます。しかしストーリーの上では映画は市民的常識力に従って主人公を敗北させても、真の観客への訴えは無情な偏見にさらされた主人公と、自由と公正さを希求する必死の闘争なので、チェイニーの演じる主人公は常に自己の規律に厳しく、自己犠牲的ですらあるアンチ・ヒーローであり、映画の体裁とその真意がまったく反対でもあるのが勧善懲悪の体裁を強いられたサイレント時代の映画の限界でもあり、逆にテーマをそのまま表現できない桎梏が映画のニュアンスを複雑な味わいのものにしています。作家レイ・ブラッドベリは「チェイニーは人々の心を見抜き、精神そのものを演じることができる俳優だった。チェイニーの映画は報われない愛への怖れの歴史であり、それが決定的になればチェイニーの映画は世界を変えるかもしれなかった」と激賞しています。決して「ホラー映画の元祖」で済まされるものではなく、かつ映画俳優が精神そのものであり得たサイレント映画時代の最大の俳優の一人、ロン・チェイニーの存在は知られるよりもずっと大きく、重要なのではないかと思われるのです。サイレント時代の長編劇映画の確立は1913年(大正2年)、サイレント映画が現在のようなサウンド映画に取って代われれるのはチェイニー歿年の前年1929年(昭和4年)からですが、今回ご紹介する『天罰』'20は長編劇映画がすでに100年前にどれほどの高い技巧と表現力、映像美、歪んだ社会構造への洞察、人間性の真実の追求、テーマの深みに達していたかを伝えてくれる驚くべき作品で、しかもヨーロッパ映画のような芸術的指向ではなく通俗猟奇犯罪娯楽映画であることがかえって芸術的高さを際立たせている衝撃的傑作です。

『天罰』The Penalty (監=ウォーレス・ワースリー、Goldwyn Pictures'20.Aug.)*93min(Original length, 90min), B&W (Tinted), Silent; 日本劇場公開(年月日不明) : https://youtu.be/gpxShtnDdAM
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[ 解説 ](キネマ旬報近着外国映画紹介より) ガヴァナー・モリス氏原作の小説を脚色したもので、性格俳優の名手ロン・チャニー氏が主役ブリザードに扮して得意の腕を振っている。米誌は筋としてはこの映画を格別褒めておらぬが、技術的方面及びチャニー氏の演技を激賞している。チャニー氏の外にケネス・ハーラン氏、クレア・アダムス嬢等が出演している。
[ あらすじ ] 小児の時に受けた手術によって、ブリザード(ロン・チャニー)は両足を失っていた。彼の望みは彼を不具にした医者(チャールズ・クラリー)に復讐することと、サンフランシスコ暗黒界の大頭目となること、他人の両足を切って自分の足の切り口につなぐこと、この3つであった。いかにして彼がこれを企み、これに失敗するかが劇の骨子である。

 1920年になると前年8月公開の『ミラクルマン』での大ブレイクを受けて、下積み時代の長かったチェイニーもいよいよ本格的な主演作品が作られるようになります。この年の出演作は6作ですが、特に強烈な作品としてチェイニーのキャリアでも重要視されているのがこの年4作目の、トッド・ブラウニングに次いでチェイニー主演作を多く手がけたウォーレス・ワースリー(1878-1944)監督による本作で、『The Penalty』を『天罰』と訳した大正時代の日本の映画会社のセンスもすごいですが、映画の内容はもっとすごい。映画はまずプロローグで「交通事故の犠牲者」と、ベッドに横たえられた少年と二人の医師がいる病室が映されます。若い医師は両脚の切断を主張し、年長の医師は誤診の可能性を指摘しますが、若い医師に押し切られてしまいます。少年の両親が到着し、息子は助かるのか医師に問い、若い医師は任せてくださいと請け負って、医師たちの話を聞いていた少年は必死で抗議するも両脚の切断手術は施術されてしまいます。「27年後、アメリカ有数の大都会サンフランシスコ」といきなり時代は飛び、大衆食堂でテーブルに突っ伏して眠りこんだ男の財布をすり盗ろうとした女が、ヤクザのフリスコ・ピート(ジェームズ・メイソン)に捕まって連れて行かれそうになり、店を出たところで揉めてフリスコ・ピートは女を殺し、階段から投げ落とし往来は騒然となります。ピートが路地裏に逃げると小路から両脚が膝までしかない、松葉杖をついた男、ブリザード(ロン・チェイニー)が手引きしてピートは小路奥のアジトに隠れます。追ってきた警官がチェイニーに逃げてきた男はいなかったか尋ねますがチェイニーはとぼけてみせ、警官は異形のチェイニーに怯んで追究はせずに去っていきます。チェイニーはオフィスに戻り、隠し窓から様子見をした後で隠し扉から地下の女工ばかりの帽子工場を視察し、不機嫌に女工たちの作業をにらんで不出来な帽子を作っていた女工の髪をつかんで激しく叱責し、逃げたければ逃げてもいいぞ、ただし逃げれば殺すがな、とフリスコ・ピートが女を殺してきたことを知らせます。チェイニーはまた別の隠し部屋に入るとそこはピアノが置かれた音楽室で、脚がないチェイニーはペダル係の女にピアノのフットペダルを押させて演奏しますが女のミスに怒り、役立たずのペダル係は殺すぞ、と脅します。警察は相次ぐ犯罪事件の黒幕がチェイニーではないかと女性捜査官のローズ(エセル・グレイ・テリー)を潜入捜査に送りこみます。一方、チェイニーは、出世して財をなしサンフランシスコ医師会の重職になった、27年前にチェイニーの両脚を医療過誤で切断したフェリス医師(チャールズ・クラリー)の館の門番をスパイにしています。フェリス医師は後継者として若い医師アレン(ケネス・ハーラン)を娘のバーバラ(クレア・アダムズ)と婚約させていますが、バーバラは彫刻家志望で縁談に消極的です。バーバラが彫刻のモデルの新聞広告を出しているとスパイから知ったチェイニーは、バーバラにサタンの胸像のモデルにしないかと売りこみます。チェイニーの帽子工場の女工になった潜入捜査官のローズは新顔なのでチェイニーのピアノのペダル係を兼務するようになりますが、サンフランシスコの暗黒街を支配し、両脚を奪った医師に復讐するつもりの自分がペダル係の助けを借りないではピアノも弾けないのか、と泣き崩れる姿にショックを受け、献身的にチェイニーのピアノのペダル係を勤めるようになります。チェイニーは定期的にバーバラのモデルになり、父にも婚約者にも彫刻を子供の遊び扱いされていたバーバラは、真剣にバーバラのモデルを勤めるチェイニーを信頼するようになります。ローズは帽子工場の天窓から通信文を警察の連絡員に投げ渡しますが、警察の連絡員はチェイニーの手下につかまってローズの身元は露見してしまいます。チェイニーはバーバラを籠絡しようと愛を訴えますがバーバラを抱擁しようとして台座から転落してしまい、バーバラがひるむのを見て作戦を変え、自分の惨めさを嘆いて同情を買います。帰宅したチェイニーはローズの身元を手下から知らされ、最高のペダル係だったよ、とほくそ笑むチェイニーにローズは忠誠を誓い、チェイニーへの愛を明かしますが、チェイニーは同情はいらない、ペダル係だけでいい!と激怒します。チェイニーはついにフェリス医師が在宅する日にモデルを勤めに行き、フェリス医師は蒼ざめてもう来ないでくれと嘆願しますが、それはお嬢さん次第でしょうとせせら笑います。チェイニーはローズに青年医師アレンとフェリス医師にバーバラの身元は預かった、と偽の誘拐電話をかけさせ、バーバラの身の安全を守りたいならアレン医師の両脚を切断して自分に接合手術せよ、と両医師に迫ります。バーバラが警官隊とともに駆けつけると、手術は済んだ、とフェリス医師がアレン医師ともども出てきます。フェリス医師はチェイニーの脳を切開してロボトミー手術を行ったので、今やチェイニーはローズにつき添われて自分の罪を懺悔しています。一方犯罪組織には震撼が走り、チェイニーを殺すか自分たちが殺られるかだ、とかつての手下たちが話し合います。チェイニーはローズと結婚し、術後の見舞いと祝いを兼ねてフェリス医師が訪ねて帰っていきます。晴ればれした表情でローズの助けでピアノを弾くチェイニーは、窓からフリスコ・ピートに狙撃されます。ローズの腕の中でチェイニーは、これが天罰さ、と息を引き取ります。そしてフェリス医師邸のアトリエで、バーバラがアレン医師とうなだれたサタンの胸像を見ながら、「これだけが彼の残していってくれたものだわ」とバーバラ。エンドマーク代わりにゴールドウィン映画社の咆哮するライオンのTMタイトルで、映画は終わります。
 チェイニーの身体障害者役は『ミラクルマン』を踏襲したものになるそうですが、両脚切断まで極端ではありませんでした。この役は膝を限界まで折って革の脚絆で包んで演じられたそうですが、全体重を両脇の松葉杖で支える苦労ともどもあまりに苦痛なため数分以上続けて演技はできなかったそうです。本作の原作は大衆雑誌連載の犯罪スリラーらしいので、突っ込みだらけの点(暗黒街のボスに成り上がった手段や組織の実態が謎とか、警察が無能すぎとか、仇敵に強制した手術を手下に見張らせなかったのかとか)やあんまりな結末(ロボトミー手術!)も原作通りなのでしょう。しかし本作はチェイニー演じる主人公ブリザードの復讐心と邪悪さの中に秘められた悲しみを思いきり扇情的かつ暴露的でショッキングに描くことが意図なので尋常な基準でのリアリティなど問題ではなく、このあんまりな結末さえ医師を信用して裏切られた皮肉とも取れます。しかも、かつて医療過誤で両脚切断したばかりか、本人の同意など当然なしにロボトミー手術で無害化してしまうというこのフェリス医師こそ本当の悪役なのは確かなので、このあまりにむごい残酷譚は一応首尾一貫しているとも言えるのです。チェイニーの演技も映画界入りして8年、37歳にしてつかんだ主演の座で入魂の演技です。サイレント時代の男性俳優は身体能力でこなすタイプの俳優に人気が集まりましたが、喜劇映画はまだしもこうした陰鬱な娯楽映画で、チェイニーのような芸風をこなせる人材はチェイニーしかいなかったので、本作もチェイニーの出演を前提にしなければ成り立たなかった映画です。サイレント時代の映画に限らず映画が実際のテーマと見かけが異なるのはよくあることで、せっかくだからネタバレしますが前年の助演作『勝利』は原作では悪党(チェイニーはその一味)同士の仲間割れの流れ弾に当たってヒロインは死に、主人公は手遅れになって初めてヒロインへの愛に気づくも絶望して家に放火して後追い自殺し、悪党のうち2人は殺し合って死に、生き残った1人も事故死して全員死んだ後で主人公の友人ダヴィッドソン船長が到着し、真相を知ります。映画では悪党の1人が裏切って仲間を殺して自分も死に、残る1人の悪党は主人公と戦って死に、ヒロインへの愛に目覚めた主人公とヒロインは結ばれて終わります。『勝利』の場合は明らかにストーリーだけを借りてまったく逆のものにしてしまったのですが、『天罰』の場合チェイニーはロボトミー手術という暴力的手段で思考改造されてしまうまでは一貫していて、ローズが探っていたチェイニーの陰謀は1,000人のメキシコ人移民(全員ソンブレロをかぶっています)を雇ってサンフランシスコ中で同時多発武装テロを起こし、秩序を壊滅させてチェイニーの暗黒組織が恐怖支配でサンフランシスコを乗っ取る、という計画でした(チェイニーの語りにカットバックしてテロの様子が映像で流れるので、一瞬テロ決行の場面に時間が飛んだのかと錯覚します)。帽子工場はその資金作りも兼ねているのと、女性嫌悪症のチェイニーのサディズムの満足の両方のためですが、膝までしか両脚がない体で蜘蛛のように移動するチェイニーの、人目にさらされるだけで嫌悪を催される姿を見ていると世界に対する憎悪がそのくらい荒唐無稽であってもおかしくはあるまい、と思えてきます。ワースリーはのちのチェイニー映画の傑作『ハートの一』『ノートルダムの傴僂男』の監督でもありますが、15世紀のフランスを舞台にした文芸歴史映画でもある同作と、現代サンフランシスコのやくざな港町バーバリー・コーストが舞台の本作では生々しさが違います。チェイニーの特異な俳優としての座は前年の『ミラクルマン』に続き、'20年の『宝島』(4月公開)と本作『天罰』の2作で決定的になったそうですが、トゥーヌール監督の『宝島』ではチェイニーは主演俳優ではなく、また同作は現在散佚作品になっています。映画として出来が良いのもありますが『ノートルダムの傴僂男』と『オペラの怪人』はフランスものという点でチェイニーの生々しい憎悪、毒気、痛々しさ、おぞましさ、まがまがしさが適度にファンタジー的なオブラートに包まれているので、万人とまではいかずともわかりやすい怪奇映画らしさが誰にでも楽しめる面があり、チェイニー版に続いてはチャールズ・ロートン版『せむし男』、クロード・レインズ版『オペラ座』といった具合にリメイクを許す内容でもある。しかし『天罰』のリメイクなどパロディでもなければ想像もつきませんし、題材からも無理ならば歴史的作品ではありながら日本版DVDの発売すらはばかられるでしょう。イギリスの映画雑誌エンパイヤ・マガジンが2009年に選んだ「知られざるギャング映画の名作20選」では本作は第17位に選ばれており、また『ノートルダムの傴僂男』『オペラの怪人』以前のチェイニー主演作では本作はもっとも成功した作品とされ、チェイニーのベストの1作の内に上げる評者も多いそうです。それはもちろん、ロボトミー手術という暴力的手段による解決の不条理さも含めたものに違いありません。このイロニーもチェイニーが演じた本作のキャラクター、ブリザードが被害者に始まり被害者に終わる因果に結びついており、『天罰』とはそうした人生の皮肉と悲劇性を表すタイトルだからこそ笑えないブラック・ユーモアになっているのです。いみじくもブラッドベリの鋭い指摘のように「愛されないのではないかという恐怖の映画」「報われない愛への怖れの映画」、前年の重要な助演作品『仮面の人』や『勝利』とは違う、苛烈さにおいてサイレント時代のアメリカ映画ではエリッヒ・フォン・シュトロハイム(1885-1957)にしか並ぶものがない正真正銘のロン・チェイニー映画(のちの名作『影に怯へて』'22、『殴られる彼奴』'24、『黒い鳥』'26、『嘲笑』'27、『道化師よ笑へ』'28など)は、『ミラクルマン』が残っていない現在、本作から始まると言って良いかもしれません。

創作童話『荒野のチャーリー・ブラウン』より抜粋5話

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 スヌーピーチャーリー・ブラウンの世話焼きを日ごろ干渉過剰に感じていました。飼い犬が手を噛むというのを実際にやってみたらどうなるんだろうな。酷たらしい殺人現場、むくろとなって横たわるチャーリー・ブラウン。その頃サングラスで顔を隠した一匹の犬がソフト帽を深くかぶり、トレンチ・コートの襟を立てて国境を越えようとする。二足歩行をマスターしてから、スヌーピーは自分から明かさない限りは、その場限りでは人間で通るのです。国境は東西に長く長く延び、西には太陽が暮れて東には太陽がのぼるところでした。
 国境警備員はスヌーピーの偽造パスポートをスキャナーで確認し、指紋と声紋を照合しました。指紋は偽装用手袋で、声紋はジューズ・ハープでこなすのがスヌーピーの手口で、偽造指紋という19世紀からあるトリックが未だに通用するのは呆れるばかりですが、あまりに原始的で古典的な手口のためかえって最新の検査法では網にかからないのかもしれません。
 ジューズ・ハープの方は、もし彼がプロの演奏家の道を選べば世界的なトップ・プレイヤーと目され、世界中の作曲家が彼のためにジューズ・ハープのための協奏曲を書き、あらゆるオーケストラから競演の声がかかり、映画音楽に採用されれば大ヒットして商店街の有線放送でも流れ(もっとも彼はディズニー映画だけはお断りでしたが)、甲子園ではブラバン応援曲にアレンジされて盛り上がり、紅白歌合戦にもゲストで呼ばれるので無理難題を出演条件にしたりして、それもけっこう楽しい生き方だったかもしれません……パインクレストのアイドル犬に甘んじるよりは。
 ですが今スヌーピー中南米への遁走の途上にありました。ブラジルかアルゼンチンか。彼は旧友の故ザル・ヤノフスキーを思い出しました。ザルは好人物で才気溢れる男でしたが、密売品を購入したために逮捕され、密売人の連絡先を自白させられたので仲間から密告者の汚名を着せられて爪弾きになり、しばらく消息を絶った後に届いた絵葉書が「アルゼンチンで元気です」というものでした。
 それもいいが、とスヌーピーは思いました。おれが去ったパインクレストはもうおれのいたパインクレストではないだろう。ならばパインクレストを去ったおれは、パインクレストにいた時の力を徐々に失っていくに違いない。そして一介の、ただの野良犬になっていくのだ。


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 かつてスヌーピーが望んだのは、ランプの人工的な光に照らされることでよりいっそう映えるような色彩でした。昼間の光には味気なく見えても構いません。彼が小屋にこもりきりになるのは夜でしたから……誰もが自分だけの部屋で孤独にいる時こそ快適であり、精神は夜の闇に包まれている時こそ真に活性化する、というのがスヌーピーの持論でした。パインクレストの町が夜の闇に寝静まる時、ひとり小屋の地下室でランプの下に起きているのはスヌーピーだけの悦楽でした。この悦楽は職人が他人を締め出して念入りな仕事にこもるような、一種の虚栄心にも通じるものでした。
 スヌーピーは入念に、あらゆる色を検分しました。青はロウソクの光で見ると不自然な緑色にくすみます。空色や藍色のような青ではほとんど黒くなり、明るい青でもロウソクの光では灰色に変わります。トルマリンのように暖かく柔らかでも艶を失い、冷たい色になるのです。ですから、補助色のように配合して用いる以外にシアン系の色彩は部屋の基本色には不向きなのは明らかでした。
 一方、茶色はランプの光で見ると、濁って鈍く見えました。真珠色は透明な青味が失せて、汚いだけの白になります。灰色は眠たげで冷たくなり、深緑はといえば濃紺と同様に黒の中に沈んでしまいます。
 そうして青は駄目、緑は濃いほど駄目となると、青味を極力含まない緑、つまり淡い黄緑や浅黄色に行きつくしかありませんが、それらもランプの光の下では不自然な色調になり、やはりどんより濁ってしまうのでした。
 サーモン・ピンクもコーン・イエローも、昔ながらの薔薇色もさらに問題外でした。薔薇色は女性的で、孤独の思想には矛盾しています。とはいえ紫色は寒々しく、これも駄目。赤色だけが夕方の光の中でぐっと映えてくるのですが、ひと口に赤と言ってもその種類たるや!べたべたした赤や、赤ワインの搾りかすのような赤ではどうしようもありません。こうした色は安定感がなく、たとえば彼は気管支炎の鎮静用シロップを服用していますがふとした光の加減で嫌な紫色に見える時がある。そんなふうに部屋の内装がちょっとした加減で変色して見えるのではたまりません。
 そうして除外していくと、三つの色だけが残りました。それが赤と、オレンジと、黄色でした。


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 オルトレキシアとは、不健康だと考える食品を避けることで生じる極端、もしくは過度な先入観によって引き起こされる摂食障害精神障害を指します。1997年にスティーブン・ブラットマン博士が神経性無食欲症といった他の摂食障害と並行する形で使用し始めました。オルトレキシアは、幅広く使われている精神障害の診断と統計マニュアルには記載されていませんが、ブラットマンが命名した病名であり、まれな症例であるものの重度の栄養失調や死につながるほどの極端な病的執着になり得る点が主張されています。
 やせ衰えたスナフキンは、虹の果てから引き返しながらふと、ムーミンの声が聞こえたような気がしました。気のせいか、と立ち止まり、やはりムーミンの苦しげな息づかいが聞こえるので、そんな声が風がうねるこの荒野まで届くわけはないとすると、考えられるのはひとつ、ムーミンスナフキンの頭の中に直線話しかけているのでした。
 オルトレキシアは、体に悪いと考える食品を避けることで生じる強迫観念という特徴があります。また、さまざまなな理由で特定のダイエットを選ぶ健康的な人と、体に悪い状態やライフスタイルにつながる強迫観念的な行動をとってしまう人を区別することが重要です。健康的な食事が摂れることを約束できる均衡の手がかりは何かを求めるあまり、食品選びで極端な制限や強迫観念を課してしまうのがオルトレキシアとされ、毎日の行動において自分を見つけることが困難になります。また他人の食品や健康観に耐えられず距離をおくようになります。健康的な食品への強迫観念は、家庭習慣、社会トレンド、経済問題、最近の病気、宗教的信条、超越的思想に起因することがあり、また食品の種類に関する否定的な情報を聞いただけでも発生してしまい、最終的に自身の食事からそのような食品を排除させることになります。この症状は女性より男性、また受けた教育水準が低い場合に多く見られるといわれます。また年齢的な偏差も考えられますが、いずれも決定的な原因と見做すべきではないでしょう。
 チャーリーは突然空腹を意識しました。今ようやく放浪の果ての問題が二つ、同時に解決したことが理解できたのです。その一、チャーリーはもう愛犬を連れて逃げ回る必要はない。その二、逃亡のすえ差し迫っていた食糧問題もなんとかなる。チャーリーは血溜まりに落ちているナイフを拾い上げると、思い切って目の前の


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 支度は終わったよライナス、と、リランが振り返ると、ベッドに腰かけていたはずの兄の姿はありませんでした。隠れているのだろうか、それとも待ちくたびれて出ていってしまったのか。どちらにしても、もしそうだったら、気配くらい感じてもおかしくないはずなのに、その気配もない。それともぼくが鈍かっただけなのだろうか。ボーッとしていてそのことに気づかなかっただけなのだろうか。
 外では風がうなり声をあげ、ガラス窓ごしでも気圧の変化が鼓膜に圧力をかけてくるようでした。やあねえ、とみさえは取り込んだ洗濯物をたたみ終えると、より分けてたんすにしまいながら、夫と息子に傘を持たせておいて良かった、と自分を安心させました。息子は幼稚園バスが家の前まで送ってくれますが、まれには工事中や通行止めで住宅街の通りの角になることもあるのです。ですから……
 心配なのはきみだけじゃない、とヘムレンさんはスノークムーミンパパに言いました。えっ、と二人は驚き、それから顔を見合わせましたが、この場合の「きみ」は二人称単数ではなく複数形の「きみ」だと了解するには、おたがいのまぬけ面に気がつくだけで十分でした。ヘムレンさんの言う通りだ、とムーミンパパとスノークは思いました。だがいったい私たちは、何が心配だと言うのだろう。
 領域主権とは、国家は独立を確保するために他国の介入を排除して、領土・領海・領空などの自国領域に関し各種の国家作用を行うことができるとする、主権の一部をなす権利を指します。国家とその領域をどのように関連付けるかについて、大きく分けて二つの学説が対立します。そのうちのひとつが「客体説」であり、これによると領域主権は領域に対する使用・処分といった行為のための対物的権利とされます。これに対し「空間説」は領域主権を統治の権利として捉える考え方です。
 チャーリー・ブラウンはまたひとりぼっちになった自分を感じました。空っぽになった水筒はただ重いだけでした。これから来た道を引き返さなければならないことを思うと、遠くまで来てしまったことが悔やまれてなりませんでした。地上には一滴の水もないのに、空には大きな虹がかかっていました。ここはもうチャーリーが住んでいたのとは別の国の国土かもしれませんが、たぶん虹はいくつもの国境を越えて空をまたいでいました。そして空にはダイヤモンドを光らせたルーシーが飛んでいました。


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 嵐の吹く暗い夜でした。私たちは暖炉の前で遅い夕食の後のお茶を飲みながら、とりとめのない談義で就寝までの時間を潰していました。会話には飽きていましたが、嵐の夜では他にすることもありません。もともとその日は、地域の集会のために空けてあった夜でした。集会そのものは義務でしかないものですが、中止ならともかく突然の悪天候で日延べになったのでは面倒が先送りになっただけです。そんなわけで私たちは、今夜の議題について準備した意見も次には無駄になっているかもしれず、これなら何も急いで帰宅しなくてもよかったな、と持て余し気味になっていたのです。
 お茶も飽きたな、ウィスキーにしようか、と私たちはグラスの準備と氷の準備を分担しました。アイスピックで氷を割る鋭い音が、安普請ながら一応は煉瓦造りの壁に反響しました。始めから小さなブロックに分かれた製氷皿を使えば便利なのですが、あれは凍るのが早すぎて水道水の中の次亜塩素酸カルシウム(カルキ)まで閉じ込めてしまう。なるべく純度の高い天然水を大きな容器でゆっくり凍らせた方が良質な氷が出来るのです。清涼飲料水ならまだブロック製氷皿の氷でも気になりませんが、オン・ザ・ロックとなるとてきめんに氷の質で味が変わってくる。それにアイスピックで氷を割るのは注意は必要ながら面白い作業で、氷にも密度の差があるのでしょう。上手く亀裂がはいると面白いように細かく砕けるのです。
 ただし目測が外れると、どんなに力んで刺しても表面しか削れません。その晩の氷がそうでした。グラスとウィスキーがテーブルに揃っても、まだ氷はかけらほども砕けていません。苦戦してるみたいだな、そんな時ってあるよ。うん、上手く刺さらないんだ、刺す面がいけないのかな。氷の側面を上に置き直して、しっかり垂直にアイスピックを振り下ろしますが、やはり表面だけで止まってしまう。これでやるか、と私たちはハンマーを持ってきました。ひとりがアイスピックを氷に突き立てて固定し、もうひとりがハンマーで叩く、という共同作業です。これなら上手くいくぞ、と私たちは期待しましたが、そうは問屋が卸しませんでした。ハンマーの打撃はアイスピックが受け止めただけで、私たちは振り下ろしたハンマーを持つ手も、アイスピックを固定した手も無駄に痺れさせてしまいました。こうなったらこれで行くか、と私たちがスパナを握った時、あの子がやって来たのです。


(初出2014年/全80回より抜粋・お借りした画像は本編と関係ありません)

創作童話『偽ムーミン谷のレストラン』より抜粋3話

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  (29)

 スナフキンが着いたのは、夜も更けてからのことでした。谷は深い雪の中に横たわっていました。谷の両側にそびえるはずの山はまったく見えず、霧と夜の闇に包まれていました。街の中心地を示すかすかな灯りさえなく、スナフキンは長いあいだ国道から谷に通じる木の橋の上に立ちすくみ、ぼーっとなにもない空間を見上げていました。
 やがてスナフキンは泊まる場所をさがしに出かけました。宿屋はまだ開いていました。空いた部屋はありませんでしたが、宿屋の主人は突然の深夜の客に驚き、面食らって、酒場の床でよければゴザでも敷いて寝かせてあげよう、と申し出ました。それで結構、とスナフキン。農夫が数人まだビールを飲んでいましたが、スナフキンは誰とも口をきく気がしないので、屋根裏部屋から自分でゴザを下ろしてきて、ストーヴの近くに横になりました。暖かいな、とスナフキンは思いました。農夫たちは静かでした。スナフキンは疲れた目でしばらく彼らの様子をうかがっていましたが、やがて眠り込みました。
 ところが、うとうとしたかと思うとすぐにまた起されました。都会的な服装で、俳優にでも向きそうな顔立ちの、目の細い、眉の濃い若い男が、宿屋の主人と並んでスナフキンのすぐそばに立っていました。農夫たちもまだ店にいて、椅子をこちらに向け、成り行きを見守っている様子です。
 若い男はスナフキンを起したことを丁重にわびて、領主の執事の息子だと自己紹介したのち、告げました。この宿は、谷の領土です。ここに住む者や宿泊する者はすでに谷の中に住むか、または泊まるも同然です。それには公的入谷許可証が必ず要ります。ですがあなたは、その許可証をお持ちでない。というのが失礼になるなら、その許可証をご提示にならない。
 スナフキンは上半身を起こし、帽子をかぶり直すと、若い男と宿屋の主人を見上げて、どういうことでしょうか、と訊きました。
 申し上げた通りです、と簡潔に、若い男。
 それで、宿泊の許可が要るというのですか?とスナフキンは先ほどからのやり取りが夢ではないかと確かめるように言いました。
 そうです、この谷では、と若い男。そして、宿屋の主人や農夫に向かってあからさまにスナフキンを嘲る仕草をしました。
 この宿も谷だとおっしゃのですか?
 若い男はゆっくりと、もちろんです、と答えました。ここはムーミン谷という谷です。


  (51)

 第六章。
 ムーミン谷近代美術館所蔵映画全目録。『愛と死をみつめて』『赫い髪の女』『赤いハンカチ』『秋津温泉』『網走番外地』『天城越え』『嵐を呼ぶ十八人』『ある殺し屋』『生きているうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』『伊豆の踊子』『一心太助』『刺青』『いれずみ判官』『浮雲』『右門捕物帖』『駅前旅館』『おとうと』『解散式』『陽炎座』『貸し間あり』『花芯の刺青・熟れた壺』『関東無宿』『喜劇あゝ軍歌』『喜劇女は度胸』『君の名は』『巨人と玩具』『切られ与三郎』『斬り込み』『斬る』『くちづけ』『雲ながるる果てに』『狂った果実』『警視庁物語全国縦断捜査』『恋文』『木枯し紋次郎』『月曜日のユカ』『拳銃は俺のパスポート』『ゴキブリ刑事』『ゴジラ』『さらば愛しき大地』『座頭市物語』『思春の泉』『七人の侍』『しとやかな獣』『忍びの者』『勝利者』『処刑の部屋』『女囚701号・さそり』『ションベンライダー』『新幹線大爆破』『地獄』『実録阿部定』『十三人の刺客』『十兵衛暗殺剣』『次郎長三国志・殴り込み甲州路』『仁義なき戦い』『仁義の墓場』『砂の器』『青春残酷物語』『関の弥太っぺ』『0課の女・赤い手錠』『曽根崎心中』『大幹部・無頼』『胎児が密猟する時』『太陽を盗んだ男』『たそがれ酒場』『玉割り人ゆき』『大草原の渡り鳥』『大地の子守歌』『近松物語』『血槍富士』『忠臣蔵』『妻たちの性体験・夫の眼の前で、今……』『手討』『点と線』『東海道四谷怪談』『東京流れ者』『独立愚連隊』『寅次郎恋歌』『なつかしい風来坊』『七つの顔』『南国土佐を後にして』『憎いあンちくしょう』『二十四の瞳』『ニッポン国古屋敷村』『ニッポン無責任時代』『二等兵物語』『二百三高地』『濡れた海峡』『野菊の墓』『野良猫ロック・ワイルドジャンボ』『薄桜記』『博奕打ち・総長賭博』『白昼の襲撃』『張り込み』『反逆児』『反逆のメロディー』『幕末太陽伝』『晩春』『光る女』『人斬り与太』『ひとり狼』『緋牡丹博徒』『笛吹童子』『豚と軍艦』『兵隊やくざ』『本日休診』『瞼の母』『卍』『みな殺しの霊歌』『明治侠客伝』『夫婦善哉』『最も危険な遊戯』『もどり川』『悶絶!!どんでん返し』『やくざ囃子』『野獣死すべし』『野獣の青春』『用心棒』『夜霧のブルース』『四畳半襖の裏張り』『浪人街』『わたしのSEX白書・絶頂度』。上映機材・なし(死蔵)。


  (52)

 まもなくスナフキンは黒い丘のほうへ急ぎました。牧場の後ろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は北斗七星の下に、ぼんやり普段よりもつらなって見えました。
 スナフキンは、もう露の降りかかった小さな林のこみちを、どんどんのぼっていきました。まっ暗な草や、いろいろなかたちに見えるやぶのしげみの間を、その小さな道がひと筋、白く星あかりに照らしだされていたのです。草むらには、ぴかぴか青びかりする小さな虫もいて、ある葉は青くすかし出され、スナフキンはまるで谷の住民たちが持ち歩く光る木の実のカンテラのようだと思いました。
 そのまっ黒な、針葉樹や落葉樹の林を越えると、にわかにがらんと空がひらけて天の川がしらじらと南から北へ渡っているのが見え、また魔女の結界の頂きも見わけられたのでした。つりがね草や野菊らの花がそこらいちめんに、夢のなかからでも薫りだしたというように咲き、鳥らしき影が一羽、丘の上を鳴きつづけながら通って行きました。
 スナフキンは魔女の結界の頂きの下に来て、火照ったそのからだを冷たい草になげました。
 谷のあかりは、闇のなかをまるで海の底の宮殿の景色のように灯り、子どもらの歌う声や口笛、きれぎれの叫び声もかすかに聞えてくるのでした。風がとおくで鳴り、丘の草もしずかにそよぎ、スナフキンの汗でぬれたシャツもつめたく冷やされました。スナフキンは谷のはずれから、とおく、黒くひろがった野原を見わたしました。
 そこから汽車の音が聞えてきました。その小さな列車の窓は一列、小さく赤く見え、そのなかにはたくさんの旅人が果実を噛ったり、笑ったり、好き放題楽しんでいると考えると、スナフキンはもう何ともいえずかなしくなり、また眼を天にあげました。
・ああ、あの白い天の帯がみんな星だというゾ
 ……ところがいくら見ていても、その天はスナフキンには天文学で教わるような、がらんとした冷たいところとは思われませんでした。それどころではなく、見れば見るほどそこは小さな林や牧場がある野原のように感じられて仕方なかったのです。そしてスナフキンは青い琴の星が三つにも四つにもなってちらちら瞬き、脚が何度も出たり引っ込んだりして、とうとう茸のように長く延びるのを見ました。また、すぐ眼の下の谷までがぼんやりした多くの星の集まりか、ひとつの大きなけむりのように見えると思えました。


(初出2014年/全80回より抜粋・お借りした画像は本編と関係ありません)

このブログの(大雑把な)過去記事カタログ

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 このお方はアメリカのサイレント映画最大の俳優の一人、「千の顔を持つ男」ことロン・チェイニー(1883-1930)様です。オジー・オズボーン様ではありません。
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 さて、本ブログは2011年5月からブログサービス終了までの2019年9月まで毎日欠かさずヤフーブログに更新掲載してきた約4,800記事ごと引っ越してきたものです。総分量400字詰原稿用紙換算2万枚程度になりますが、筆者は元雑誌ライターのご隠居ですので足かけ8年も毎日ブログ作文を書いていればそのくらいの分量にはなります。
 以降はしばらく休んで、10月以降は同一内容を、

 「F2ブログ」では、
https://fifthofjuly1964.fc2.net/
 「はてなブログ」では、
https://hawkrose.hatenablog.com/
 「アメーバブログ」では、
https://ameblo.jp/fifth-of-july/
 
 に掲載しています。アメーバブログでは1記事の文字量制限が少ないので、1万字以上の分量が大半を占めるヤフーブログ時代の過去記事は転載していません。どれもブログタイトルはヤフーブログからの「人生は野菜スープ」、HNはアエリエルを踏襲しています。
 現行ブログのフォーマットでは記事分類(カテゴリー)がご覧になれるかわかりませんが、旧記事の分類は日記・雑録・エッセイの他に、

●詩・創作童話
●読書感想文(海外文学、日本の現代詩・詩史)
●美術(一般)
●音楽(一般)
●ジャズマン・バイオグラフィー
●今日のジャズ名曲
●60年代ロック(主にサイケデリック、ガレージ系)
●実験派ロック(プログレッシヴ・ロッククラウトロック、ポストパンク)
●サン・ラ(全アルバム解説)
クラウス・シュルツェ(全アルバム解説)
ジョン・レノン訳詞集
ボブ・ディラン訳詞集
●映画日記(一般)
サイレント映画
ヌーヴェル・ヴァーグと60年代映画
●アニメーション

 などの記事を載せています。文学、美術、音楽、映画いずれも国の内外問いません。
 一例では、サイレント映画ではグリフィス、チャップリン、ロイド、キートンロン・チェイニーの現存全作品にフランスのサイレント映画史、ドイツのサイレント映画史、日本のサイレント映画(主に時代劇)史など。映画一般としてはラオール・ウォルシュ、カール・Th・ドライヤー、フリッツ・ラングジャン・ルノワールハワード・ホークスウィリアム・ウェルマンアルフレッド・ヒッチコックロベール・ブレッソンミケランジェロ・アントニオーニスタンリー・キューブリックなどの現存ほぼ全作品、ユニヴァーサル・ホラーやB級西部劇、フィルム・ノワール、トーキー以降のフランス映画史(ジャン・ギャバン全主演作など)のご紹介とレビュー。ヌーヴェル・ヴァーグも同様に各国の主要監督作品を系列的にご紹介しました。アニメーションでは映画クレヨンしんちゃん全作品など。
 海外文学では大嫌いなアンドレ・ジッドとヘルマン・ヘッセを周密に再読。日本の現代詩は明治20年代から現代詩史を代表的詩人、マイナー・ポエットを取り混ぜて追いました。
 60年代ロック、プログレッシヴ・ロッククラウトロックはバンド単位に主要アルバムから埋もれたアーティストまでご紹介。ジャズはアーティストと楽曲単位で、サン・ラ(歿年発表まで)とクラウス・シュルツェ(20世紀いっぱいまで)の全アルバム紹介・解説はやりがいがありそうだからやりました。

 このブログに書き下ろし公開してきた中で、映画日記を除けば最大の分量の作文が創作童話体の連作『偽ムーミン谷のレストラン』五部作です。全五部は毎回1,000文字、一章10回・全八章80回で均等な分量に統一してあり、全五部で400字詰め原稿用紙1,000枚におよびます。五部構成は各部完結で第一部『偽ムーミン谷のレストラン』、第二部『荒野のチャーリー・ブラウン』(初出は『ピーナッツ畑でつかまえて』でしたが改題しました)、第三部『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』、第四部『新☆NAGISAの国のアリス』、第五部『魍魎綺譚・夜ノアンパンマン』からなりますが、題材・内容ともに商標権・著作権侵害その他の事情で決して公刊される見込みのない闇文書としてブログの過去記事に眠っています。ご興味お持ちの方は過去記事から簡単に検索できますので、恥も掻き捨てですから五部作のそれぞれ第一回を再録・ご紹介しておきます。これが全編では全400回、1,000枚(200枚×五部)の、いわばサンプラーです。筆者としてはお手持ちのプリンターでも簡易印刷でも何でもいいので、私家版でも海賊版でも何でも公認しますと歓迎申し上げます。『偽ムーミン谷』に限らず映画日記や音楽記事なども構いません。ご自由に転載いただいて結構ですし出典を明示されなくてもいい。何でしたらお好きなように書き換えくださっても一向にかまいません。

 創作童話について簡単に概要を記すと、第一部『偽ムーミン谷のレストラン』は偽ムーミンの暗躍とよそ者スナフキンの放浪を対照に、時のない無法地帯のトロール特区ムーミン谷の危機を描いたユーモア童話。第二部『荒野のチャーリー・ブラウン』(原題『ピーナッツ畑でつかまえて』)はヘタレ少年チャーリーと誇大妄想犬スヌーピー、ヌケサク鳥ウッドストックを描いたアメリカン・コミック『ピーナッツ』を逃亡西部劇の世界に無理矢理移したどたばたコメディ童話。第三部『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』はミッフィーちゃん率いる従軍慰安部隊と、ライヴァル従軍慰安部隊のハローキティー部隊との女の闘いをブレヒトの古典『肝っ玉おっ母と息子たち』を全然参照せず描いたハートウォーミングな戦場の天使もの童話。第四部『新☆NAGISAの国のアリス』はそろそろ惰性で、『不思議の国』『鏡の国』のアリス連作を原文から直接リライト&シャッフルし、ルイス・キャロル=チャールズ・ドジソン自身の語りと平行してフォーク・クルセダーズ主演の大島渚の映画『帰ってきたヨッパライ』'68を動物擬人化挿入したおふざけコラージュ童話。第五部『魍魎綺譚・夜ノアンパンマン』は深夜アニメ『夜ノヤッターマン』のタイトルだけお借りして内容は全然関係なく、「食」が主題のアンパンマン世界を「色」に置き換えアンパンマン世界の住人たちを色情狂にし、終盤は通俗ポルノと化す完全に惰性で書いた官能低俗童話です。

 このご紹介だけで十分げんなりされたと思いますが、こうしたものを辛抱強く書いたというのは一種の課題作文みたいなもので、これはパロディですらなく、創作家ではないただの元雑誌フリーライターが書いたリライトなので、書いた本人にすら属さないような代物と開き直らせていただきたい。お読みくださった方に生じたご感想だけが実体なので、それぞれの本文に書いてあることは何ひとつ確かなものはないのです。このブログは2011年の5月に始めましたが、筆者はその直前の3月に今のところ最後の精神病棟入院から退院したばかりで(退院3日後に震災がありました)、それまで1度の投獄、失職、離婚、数度に渡る精神病棟入院を数年間に経験したばかりでした。そうした経験がこの童話連作に反映しているかどうかも筆者自身はわかりません。どの話も一種の監禁・監視状況に始終し、自我の境界が崩壊している(そもそも自我すら持たない)キャラクター以前のキャラクターしか出てこないのはそもそもこれが「童話」だからで、童話とはキャラクターが自分のキャラクターも自分の運命も選べないからこそ成立します。こんなものには一片の価値もありませんが、書いて公開したからにはそれなりの労力や愛着も多少はあります。公刊の見込みなどまったく考えられない内容もあわせて、私家版や海賊版、転載など何でも歓迎いたします、構いませんと申し上げる次第です。

 では、全五部のそれぞれ第一回を再録いたします。全文は過去記事検索にて閲読いただけます。


第一部『偽ムーミン谷のレストラン』

 第一章。
 ムーミン谷にレストランができたそうだよ、とムーミンパパが新聞から顔を上げると、言いました。今朝のムーミン家の居間には、
・今ここにいる人
・ここにいない人
 ……のどちらも集まっています。それほど広くもない居間に全員が収まるのは、ムーミン谷の住民は人ではなくトロールで融通が利くからです。
 そうだ、わが家は食事のふりならずっとしてきたが、それは家庭という雰囲気の演出のためであって実際に食事をしたことはない。そうだねママ?
 そうですよ、とママはおっとりと答えます。
 私がパイプをくゆらせ安楽椅子で新聞を読んでいるのもそうだ。読売新聞ムーミン谷版は半年に一度しか出ない。半年に一度の紙面を年中読むのを新聞と呼べるだろうか。ムーミン谷にはタウン誌というものもないのだ。
 それで、ねえパパ、新聞にレストランができたって載っていたの?と偽ムーミンが無邪気を装って尋ねます。その頃ムーミンは全身を拘束され地下の穴蔵に幽閉されていました。
 かなり冷え込み、また拘束のストレスもあり恒温動物なら風邪をひくような環境ですが、トロールなのでただ動けないだけです。容貌は瓜二つなので、なにか弱みを握るたびに偽ムーミンムーミンを脅して入れ違い遊びをしてきましたが、弱みを握られる側にも落ち度があると考えて現状を肯定してしまう卑屈さがムーミンにはありました。
 ねえレストラン行くの?とふたたび偽ムーミン。よく見ると頭部のつむじにあたる部分からアホ毛が三本生えていることでも偽物だと気づくはずですが、ムーミン谷の人びとは細かいことは気にしません。
 そこだよ問題は、とムーミンパパ。レストランに行くには、あらかじめいくつかの条件がある。まず正当な連れがいること、これは問題はない。ムーミン一家だからな。正当な連れ?おかしな組み合わせでレストランに入ったら変だということだよ。たとえばママがスナフキンとミーの三人でレストランに行ったらミーをアリバイにした不倫のように見えるだろう?
 あなた止めてくださいよ、とムーミンママがおっとりたしなめます。
 なら簡単に言おう。ムーミン、きみはお腹が空いたことがあるか?
 うん。そうか。でも一家で食卓につくともう空腹ではなくなるだろ?私たちムーミントロールは食事のふりをするだけでいいのだ。だがレストランでは実際に料理を食べなければならないのだぞ。
 偽ムーミンは驚いたふりをしてみせました。わお。

(以下略・全80回)


第二部『荒野のチャーリー・ブラウン』(原題『ピーナッツ畑でつかまえて』)

 第一章。
 ある暗い嵐の夜でした。
水皿の水にぼくのかおがうつっている。ぼくはのどが渇いているけど、この水をのみほせばぼくのかおは見られなくなる。ならぼくを見ているほうがいいや。そうナルシシストの小型ビーグル犬は考えると、そろそろおやすみの時刻かな、と犬小屋の屋根に億劫そうに上りました。彼は閉所恐怖症なのです。
 空模様はまずまずで、犬小屋には実は広大で快適な地下室もあり、タイプライター(執筆に関しては、彼はアンチ・パソコン派でした)を据えたデスクの正面には不運な火災で焼失するまではゴッホの小品が飾ってあり、やむなくビュッフェに変えてからは自分の創作力も低下しているように思えるのでした。「ある暗い嵐の夜でした……」
 彼は脊柱ががっちり犬小屋の屋根の峰を押さえこんでいるのを背筋の感触で確かめると、この小屋を彼に与えたくりくり坊主の少年のことを思い出し、自分ほどの知性ある犬、なにしろ少年の知人の少女には人間だと思われていたことすらあり、かつての戦線では撃墜王として勇名を轟かせ、探偵経験も弁護士資格も持ち、絶版ながら小説の著作も一冊ある(「ある暗い嵐の夜でした……」)。なのになぜあの少年はくりくり坊主としか覚えられないのだろう、と小首を傾げました。
 まあそれは自分のせいではないのだろう、とこの自惚れの強い小型ビーグル犬は気持よさそうに伸びをし、自分が彼らにどう呼ばれているかを、心地良い優越感とともに思い巡らしました。くりくり坊主とその仲間たち、その誰を取っても彼の名前と結びつけずには人物像が浮かばないほど、世界は彼を中心に形成されていたのです。
 ではもしあの少年の名がシルヴァーまたはゴールドだったら?あるいは陰影の深いアジュールやグレイやブラックだった?色鉛筆や草花のようにレッド、ローズ、パイン、ミント、グリーン、ヒース、プラム、ガーネットだったら?
 ……ですがそれはあり得ないことでした。 少年の名前はチャールズ、愛称チャーリー。そして名前はブラウン、変哲もないブラウンだったからです。彼は何の役目も持たずにこの世界に生まれ、たまたま知らないうちにチャーリー・ブラウンという個性になったのでした。それでもスヌーピーにとってはただのくりくり坊主でしかなかったのです。

(以下略・全80回)


第三部『戦場のミッフィーちゃんと仲間たち』

 第一章。
 まったくあの女ったら!とミッフィーちゃんはアイスピックをふるいながらバーバラにこぼしました。あいつらなんかみんな私たちの商売を真似てるだけじゃないの。おかげでうちの店も閑古鳥つづきじゃ、上がったりもいいところだわ。ねえアギー?とミッフィーは親友にふりました。そうねナインチェ、とアギーはおろおろして答えました。ミッフィーはナインチェと呼ばないと怒るのですが、アギーをアーヒェとは呼ばないのです。もっとも仕事場では別で、ナインチェミッフィーですしアーヒェはアギー、バーバラも本名はバルバラと言いました。これをいわゆる源氏名と言います。
 いや、より正しくはコードネームと言うべきでしょう。以前はともかく、現在の彼女たちは公務員、さらに言えば軍務に服しているのですから。そこにのれんをかき分けて、ウインとメラニーもやってきました。やれやれ、安月給でもお給料が安定しているのはいいけれど、タイムカードにはどうも慣れないわね。順番に決めて誰かが全員分を押すことにしない?だめよ、掌紋認証つきカードなのよ。あ、そうか、と5人の少女たちは笑いました。実はこの話題は毎日誰かが口にするのですが、うさぎなのですぐ忘れてしまうのです。バーバラだけはくまでしたが、友だちが全員うさぎなので本人もくまなのを忘れていました。ちなみにウインの本名はウィレマインといいましたが、これでは誰でも縮めて呼びたくなります。
 男なんて少しでも若い子になびきやがって、とまだミッフィーちゃんは愚痴っていました。そお?あの子いくつだっけ?とメラニーはさっさと着替えながら訊きました。さあ、1974年生まれっていうけど、と代わりにアギーが答えました。てことはアラフォーね、それであんたは?1955年生まれの5歳、とミッフィー。そのわりには老けてるわね、とメラニーがからかうと(ナインチェをからかえるのはペンフレンドだった頃の恥ずかしい手紙を握っているメラニーことニナだけなのです)、ミッフィーの×の口が*になりました。
 しかし怒りを親友にぶつけるのは八つ当たりと自制するくらいの理性はミッフィーちゃんにもありました。あのメスねこ!どうにかできないかしらねえ!萌えの元祖はこっちじゃない?とミッフィーちゃんは殴り込みにでも行きかねない様子です。まあ戦争は兵隊さんたちに任せて、とメラニーがなだめました、ほっとこうよ、ハローキティたちなんかさ。

(以下略・全80回)


第四部『新☆NAGISAの国のアリス』

 第一章。
 10歳のアリスはお姉さんのロリーナ(13歳)と妹のエディス(8歳)といっしょに川のほとりに座り、ドジソン先生のお話を聞くのが好きでした。ドジソン先生は当年とって30歳、男ざかりの数学の先生で、年ごろの男性にはよくあることですが同年輩の男も苦手なら女ざかりの女性はなお苦手で、くつろげるのは第2次性徴期前の少女を相手にしている時だけ、というタイプでしたが、そんなことはアリスたちにはわかりません。ドジソン先生にとってこの三姉妹は、13歳のロリーナはぎりぎり相手にできる年ごろで、8歳のエディスは姉たちと並ぶと幼なすぎる。ですからちょうど真ん中の歳の、10歳のアリスが先生にはいちばんのお気に入りでした。さすがにそれは少女たちにも感づかれていて、アリスは靴の中に画鋲を入れられたり、砒素を盛られて髪がごっそり抜けたりしましたが、ドジソン先生が姉妹どうしの嫉妬に気づいていたかどうかはわかりません。
 「学生時代最後の夏休みに」と先生は話し始めました、「大ノッポ、中ノッポ、チビの3人は田舎の海に遊びに行きました。暖い陽気に誘われて3人は泳ぎましたが、その隙に服を盗まれ、かわりに軍服がありました。3人はそのため先々で密入国者扱いされ、パトカーに追われる破目になったのです」。
 そして、たまたまセクシーなおねいさんから温泉で服を盗んだらいいわ、とアドヴァイスされましたが、謎の青年たちに拳銃を突きつけられ、元の服に戻されてしまいます。彼らには何か事情があるらしいものの、3人には何が何だかさっぱりわかりません。ただただパトカーと青年たちを逃れて走り回らねばなりませんでした。追われているうちに3人は次第に逃げ方も隠れ方も上手になりましたが、今は都会が平和で天国のようなところに思えるのでした。三人の逃走に協力してくれたおねいさんは毒虫のような悪者の情婦でしたが、3人には天使のように親切でした。そんなうちに中ノッポがおねいさんに恋してしまいました。ですが3人はパトカーと、消えてはまた現われる謎の青年たちの拳銃におびえながら首都に向って逃亡を続けていかなければならなかったのです。
 先生、とロリーナは首をかしげました。そのお話にはどういう教訓があるのですか?
 いや、これは正確にはお話ではなく、と先生、動物ならば骨に相当する、プロットと言うものです。そして骨はそれだけでは動物にはならず、教訓もありません。

(以下略・全80回)


第五部『魍魎綺譚・夜ノアンパンマン

 第一章。
 あんパンが初めて製菓店の店頭に並んだのは1874年とされており、翌1875年(明治8年)4月4日には花見のために向島水戸藩下屋敷行幸した明治天皇山岡鉄舟が献上し、お気に召された天皇によりあんパンは宮内省御用達となりました。以降、4月4日は「あんぱんの日」となりました。
 創世当時のあんパンはホップを用いたパン酵母の代わりに、酒まんじゅうの製法にならって日本酒酵母を含む酒種(酒母、こうじに酵母を繁殖させたもの)を使っていました。中心のくぼみは桜の花の塩漬けで飾られます。パンでありながらも和菓子に近い製法を取り入れ、パンに馴染みのなかった当時の日本人にも親しみやすいように工夫して作られていたのが成功につながり、1897年(明治30年)前後には全国的に大ブレークして、製菓店の本店では1日10万個以上売れ、長蛇の列で30分以上待たさせることもあったといいます。
 現代では中の餡はつぶあんこしあんの小豆餡が一般的です。いんげんまめを使った白あんパンや、イモあんパン、栗あんパンなどの豆以外の餡を使ったもの、桜あんやうぐいすあんを使った季節のあんパンもあります。
 典型的な形状、つまり顔に当たる部分は平たい円盤で、ケシの実(ケシの種)、塩漬けの桜の花(ヤエザクラ)、ゴマの実が飾りに乗せられます。ただし必ずしもそれがあんパンの必須条件とは限りません。
 いつ彼が人格を持ち、人びとを飢えから救うのを自分の使命とするようになったかは、本当のところよくわかっていません。バットマンがジョーカーを必要とするように、ばいきんまんが現れるまでは彼はパッとしない絵本のヒーローでした。取り柄といえば空腹な人に、あんパンでできた頭をちぎって差し出すだけ。ちぎられた頭は完全になくなっても替えの頭を乗せればいいだけのようですが、ではアンパンマンの魂のありかとはいったいどこにあるのでしょうか?というのは、人間に限らず哺乳動物の身体構造からすればアンパンマンにとってあんパンには目鼻がついた頭部をなしているように見えますし、頭部が欠損して餡が露出すると脳漿以外の何物にも見えず、そのような状態で生命に支障がないとは擬似ヒューマノイドとしか考えられないからです。
 今夜はそんな謎に包まれたアンパンマンの、あまり面白くもない真相に肉迫してみたいと思います。ではばいきんまんさんからお話をうかがってみましょう。

(以下略・全80回)

(お借りした画像は本文とあまり関係ありません。)

アクセスしてくださる方へのお願い

 今日の夜食はチャーハンでした。
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 ところで、大してご覧の方も多くないこのブログですが、もし良ければご興味お持ちくださった記事に☆やコメントを残していただけると今後どういうジャンルの記事にご要望があるか参考になって助かります。記事内容は褒められるほどのものではないのは十分承知していますが、できればご興味持っていただける題材の記事を載せていきたい。決して慢心はしないつもりですので、アンケート程度にリアクション残していただけると幸いです。

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ロック愛聴盤ベスト10

 どうでもいいような年の瀬のお遊びですが、これだけは一生手放したくない、もう20~40年近く聴いて飽きないロックのアルバム10枚を選んでみました。ほとんどがブログの過去記事でご紹介しましたのでジャケットだけ並べます。

1. CAN - Monster Movie (Ger, 1969)

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2. Far Out - 日本人 (Jp, 1973)

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3. Hoelderlin - Hoelderlin's Traum (Ger, 1971)

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4. Pulser - Halloween (Fr, 1978)

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5. Osanna - Landscape of Life (Italy, 1974)

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6. The 13th Floor Elevators - Psychedelic Sound of The 13th Floor Elevators (US, 1966)

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7. Traffic Sound - Virgin (Peru, 1970)

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8. ジャックス - ジャックスの世界 (Jp, 1968)

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9. The Seeds - Raw & Alive : Merlin's Music Box (US, 1968)

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10. Gracious! - This is Gracious! (UK, 1972)

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11. Biglietto Per L'Inferno - Biglietto Per L'Inferno (Italy, 1974)

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12. Heldon - Agneta Nilsson (Fr, 1976)

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13. Love - Love (US, 1966)

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 以上結局13枚、カンなら『Soundtracks』や『Tago Mago』、オザンナなら『Palepoli』、エルドンなら『Un Reve Sans Consequence Speciale』か『Stand By』じゃないかとか、13thやザ・シーズ、ラヴならセカンドやサードはどうなるとも悩みますし、アモン・デュールやタンジェリンやクラウス・シュルツェ(独)、PFMやバンコやアレア(伊)、マグマやアンジュ、カトリーヌ・リベロ&アルプ(仏)が入ってない。オランダやデンマークスウェーデン、東欧、ギリシャ、カナダや南米諸国にもいいバンドが大勢いる。ヘルダーリンよりポポル・ヴーの『Hosianna Mantra』、ピュルサーよりワパスーの『Ludwig』、トラフィックサウンドよりラゴーニア、グレイシャス!よりクレシダ、ジャックスとファーラウトを選ぶなら裸のラリーズもと悶々としますが、人に訊かれたら表向きはビーチ・ボーイズキンクスが最愛のバンドと答えています。だって選んだ13枚ほとんど話が通じる人いないもの。あっ、SPKの*『Leichenshrei』(1982)入れそびれちゃったなあ。
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by ホンダアクセス

キンクス The Kinks - グッド・タイムズ・ゴーン Where Have All The Good Times Gone ? (Pye, 1965)

キンクス The Kinks - グッド・タイムス・ゴーン Where Have All The Good Times Gone ? (Pye, Album"The Kink Kontroversy", 1965) : https://youtu.be/EqrwsGrfv7M

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 当初シングル「Till the End of the Day」(全英8位・全米50位)のB面曲として1965年11月に発売され、同月末発売のサード・アルバム『キンク・コントラヴァーシィ』に収録されたキンクス初期の隠れ名曲。この曲はずばり1965年8月発売のザ・ビートルズのアルバム『HELP!』収録の、あの大名曲「イエスタデイ」を茶化したアンサー・ソングで、ご丁寧にも歌詞に「イエスタデイ」からそのまま「♪Yesterday is such an easy game we played」が引用されています。ローリング・ストーンズの1966年2月の両A面シングル「19回目の神経衰弱 c/w アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」は「ヘルプ!」と「イエスタデイ」へのアンサー・ソングですが、「アズ・ティアーズ・ゴー・バイ」はストリングス入り失恋バラードの「イエスタデイ」をそのまま踏襲したものでした。キンクスはもっととぼけていて、失恋バラードでもなんでもなく「昔は良かったのになあ」とぼやきのガレージ・ロックにしており、ひねったセンスを見せつけます。この「グッド・タイムス・ゴーン」はデイヴィッド・ボウイがアルバム『ピンナップス』1973の最終曲、ヴァン・ヘイレンがアルバム『ダイヴァー・ダウン』1982のオープニング曲でもカヴァーしていますが、日本にはもっと「グッド・タイムス・ゴーン」の忠実な直訳カヴァーを堂々とオリジナル曲として発表していたバンドがあります。キンクスの原曲のエッセンスをつかんだ、ボウイやヴァン・ヘイレンのカヴァーに劣らないものです。

サンハウス - おいら今まで (テイチク, アルバム『仁輪加』, 1976) : https://youtu.be/RevNCymN_IE

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<最終更新>過去記事転写(コピー)先・ブログ移行先のお報らせ

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 この告知記事がヤフーブログでの最終記事になります。今まで当ブログにご訪問いただいた方々にあらためて御礼申し上げます。

 本日でヤフーブログの新規更新は終了しますが、親切な方から懇切なアドバイスいただき、とりあえず「移行」ではなく、今週初めまでの過去記事を、F2ブログに預けておくことにしました。ブログタイトルは新タイトルも考えましたが、まぎらわしいので「人生は野菜スープ」のままにしました。

https://fifthofjuly1964.fc2.net/

 がF2ブログでのアドレスです。8月26日・月曜までの過去記事はすべて(いただいたコメントともども)そちらにコピーしてあります。9月以降にはF2ブログで続きを始めるか、F2ブログからのコピーでヤフーブログ記事がまるごと引っ越ししてはいないので改めてヤフーブログ提供の移行ツール(どうもバグが発生する場合もあるみたいですが)を使って別のブログに移行・開始するかはわかりませんが、一応過去記事保存先として上記F2ブログを設けたのをお知らせしておきます。新しいブログの開始先はF2ブログの方にリンクを貼りますので、ご参観ください。F2ブログへのコピーについてアドバイス、ご教示いただいたk......さま、ありがとうございました。

(画像は本文とはあまり関係ありません。)