今回は「寓話(寓意)」の概念をめぐる小品二篇。カフカにしては平易な語り口。カフカの小品は芥川的・太宰的と、作品によって異なるが、これらは萩原朔太郎(またはボードレール)のアフォリズムを思わせる。こちらの方面は神話もの同様必ずしもカフカの本領でないのは長編の作風からして明らかだが、試作としてかなり手広いテーマを手掛けた実験精神が伺われる(おそらく分量的にも一晩で書かれたと覚しい)。
普通カフカについて語られないペーソスも小品には明瞭に描き出されている。『独身者の不幸』から始めたのもそのためだ。
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『小さな寓話』
「やれやれ」と鼠が言った。世の中は日増しにせせこましくなるばかりだ。はじめは気味が悪いほど広かったものだ。ところが、どんどん走って行くと、とうとうおしまいに、遥か向うの右と左に壁が見えた時の嬉しさといったらなかった。だがその長い壁も急に間が狭まって、もうおれはどん詰まりの部屋に入ってしまった。そしてあそこの隅っこには、おれを入れようとして罠が仕掛けてある」-「お前は走る方向を間違えたのさ」猫が言って、鼠を食べてしまった。
(遺稿集「ある戦いの描写」1936)
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『寓意について』
いつの時代にも賢者の言葉は決って寓意であって、日々の生活の用には立たない、などと不平をいう人が多い。しかも私たちが知っている賢者の言葉はそうしたものばかりなのだ。賢者が「彼方へ行け」と言えば、はるか向こうへ行けという意味ではない。そんなことなら、その結果が行くに値するなら明白なことだ。そうではなくて、彼は何か伝説的な彼方のことを言っているのだ。それは私たちも知らず、彼にもそれ以上は表現できないもので、従って私たちには何の役にも立たない。これらの寓意の本当の意味は、つかめない者にはつかめない、ということになる。それなら私たちも承知していた。けれども私たちの日々の苦労は別のことなのだ。
これに対して、ある男は言った。「何をじたばたしているんだい。もし君たちが寓意の通りやれば君たち自身が寓意になり、日々の苦労から解放されるのに」
別の男が言った。「いや、それこそが寓意だよ」
先の男が言った。「君の勝ちだ」
後の男が言った。「残念だが、単に寓意でね」
先の男が言った。「いや、現実で、だ。寓意では君の負けだよ」
(同)