詩集は意外にも恋愛詩で結びを迎える。例外的だが、かえってそれが詩集全体を引き締めている。絶唱というべき一篇だろう。
24.『日記』
ぼく達はいつも坂を下りきったところで立ち停まった。あなたの邸宅の、大きな門のまえで……。殆んど書斎か応接室の額の中にしか這入っていない、古代英国風なその正門の、錆びた冷たい鉄柵に、鉄錠の死神が固く口を噤んでいた。両側の花崗岩(みかげ)の石柱に絡んだ蔦葉の、秋陽を呼吸しつくした隙間からは、毀れかかった白塗の郵便受箱が、歯齦(はぐき)を一ぱい露わしていた。
ぼく達は小指と小指を差し出し、指きりげんまをした。明日を約束する再会の希望を最大の幸福と考えながら……。それから二、三歩ずつ離れて右手を上げ、この親密な兵士らは互いに失敬し合った。その時、あなたは杖の間から、大変それをしにく相にした。しかしあなたは、決して両頬に、靨(えくぼ)をつくることを忘れなかった。
あなたは、公園のような邸内の白い砂道を、松葉杖を引きずって行った。あなたの背のランドセルがかたかた鳴って、四辺の森の午後を一そう静寂にかえらせた。歩みの遅い上に、あなたは母屋の洋館を隠した栂(とが)の植込みに姿を消すまで、幾度もこちらをふり返った。ぼくはきっと、そのとき、小石を邸内の池に投げ込んだ。差し覗いていた秋の沈黙が水面で割れて、それがため一そう碧空が透明になったかに思われた。
ぼくは、安堵したかに鞄のバンドをずり上げて、花芒の道に踵を返す。鞄の中で鉛筆が、金属製の筆洗皿と寂しい音で擦れ合った。ぼくはぼくの胸底から、いつもそれに似た音波が、大きな呼吸をするごとに、幽かにひびいて来るのを知っていた。
-幾ばくの時間が去来する渓谷の霧のように流れたか。ぼく達はお互いに愛し合っていた。ぼく達二人の幼い愛が、ただ長いながい虚ろな空間に消えて、遠い淡い遊星の瞬きになってしまった。
いつも、繃帯に巻き付かれていた、あなたの片脚!
いつも、コルセットを嵌め込まれていた、ぼくの胸廓!
もはや今年も落葉は枯れ果てて、ぼくの部屋の硝子戸に、石英質の遠い山脈と、痩せこけた桑畑のみが露わになった。流れ去った小川の水はもう帰らない。飛び去った丘の断雲はもう帰らない。
そして、すべて日記の頁は、雨水をあびた落花とともに破れてしまった。
(完)