人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

芭蕉忍者説について

 芭蕉といえば伊賀出身、伊賀といえば忍者の里ですからね。実際芭蕉没後から芭蕉隠密説もあります。23歳で京都に出奔し、その後江戸を拠点に全国を吟遊したのは俳句師範を装ったスパイ活動なのではないか、というものです。実際当時は藩を越えて活動するのは非常に難しく、芭蕉のような旅の俳人は明治まで現れませんでした。
 源氏物語の集団創作説は定説、西鶴偽作説はほんの数人ですが(イギリス文学ではシェイクスピア複数作者説が有力、シャーロック・ホームズの相棒ワトソン医師女性説が冗談として有名)、芭蕉忍者説は部分的にせよ根拠がある(京都上京の動機が明確ではない)と考えられています。
小説家の横光利一(1898-1947)が芭蕉の家系の末裔という大変な人で、この人も天性にいかれた人でした。面白いテーマなので「天然(天才)とハッタリ」はいずれ本文記事のテーマにしてみましょう。

 ところで先日、大槻ケンヂが歌うパンタ『屋根の上の猫』のカヴァーを耳にする機会がありましたが、なんだかプロの歌手のカラオケのようで痛ましくなりました。器用な人ではないだけに、こういうこともしてしまうのかと思いました。
誤解ないよう言えば、大槻さんは表現力と独創性のある、才能ある歌手と思っています(デイヴ・リー・ロスと近い資質の人でしょう。大槻さんはロスと遠藤賢司の中間です)。なのにまったく原曲と同じアレンジの演奏で何の工夫もなく歌ってしまった。それを「プロ歌手のカラオケ歌唱」と言ったので、言い替えれば才能の無駄遣いか勘違いと見たのです。「痛ましい」とはその意味です。本当に痛ましい背景があるとは知りませんでしたが、あれをやってはおしまいです。

 これが適切な結びになるかわかりませんが、先日買い物帰りに、近所にある崖を登る石段を久しぶりに上がりました。傾斜角60度はあろうかという昔からある石段なので、デコボコしているわ歪んでいるわでなおさらとんでもない状態でした。何度もつまづいて手をつきました。
近道だけれどこりごりだ、もう二度と登るまい、と毎回思うのですが、しばらくすると忘れてしまい、また石段ルートで危険な目にあいます。本当に怪我でもしないと学習しないようです。あるいは、怪我をしてすら学習しないかもしれません。危険だと頭ではわかっていても登るかもしれない。そういう性質は普遍的な人間性なのではないでしょうか。