黒田三郎(1919-1980)は詩人グループ「荒地」に拠った詩人。初期は社会主義的な題材を扱った作風だったが、結婚生活から日常的な恋愛詩に転じた画期的な詩集「ひとりの女に」1959の成功から内省的な日常詩に独自の作風を確立。読者の共感を呼ぶ数少ない現代詩人として幅広い支持を獲得した。紹介作品は「ひとりの女に」の続編をなす「小さなユリと」1960から。詩集全体が連作をなすのでこの詩だけでは背景の説明が不足するが、当時黒田夫人は結核治療で長期入院しており、NHK勤務の詩人は保育園と託児所に女児を預けながら家事と育児を一手に引き受けていた。「ひとりの女に」と女児の言葉使いから夫人は裕福な出身で、祝福された結婚ではなかったことがわかる。50年後の現代から読むとかなり臭い詩だが、当時は身につまされて読まれたのだ。
『夕方の三十分』黒田三郎
コンロから御飯をおろす
卵を割ってかきまぜる
合間にウィスキーをひと口飲む
折紙で赤い鶴を折る
ネギを切る
一畳に足りない台所につっ立ったままで
夕方の三十分
僕は腕のいいコックで
酒飲みで
オトーチャマ
小さなユリの御機嫌とりまで
いっぺんにやらなきゃならん
半日他人の家で暮したので
小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う
「ホンヨンデェ オトーチャマ」
「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」
「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」
卵焼をかえそうと
一心不乱のところに
あわててユリが駈けこんでくる
「オシッコデルノー オトーチャマ」
だんだん僕は不機嫌になってくる
化学調味料をひとさじ
フライパンをひとゆすり
ウィスキーをがぶりとひと口
だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
「ハヤクココキッテヨォ オトー」
「ハヤクー」
かんしゃくもちのおやじが怒鳴る
「自分でしなさい 自分でェ」
かんしゃくもちの娘がやりかえす
「ヨッパライ グズ ジジイ」
おやじが怒って娘のお尻をたたく
小さなユリが泣く
大きな大きな声で泣く
それから
やがて
しずかで美しい時間が
やってくる
おやじは素直にやさしくなる
小さなユリも素直にやさしくなる
食卓に向かい合ってふたり坐る
(詩集「小さなユリと」)