人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

黒田三郎『九月の風』

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 詩の選集に選ばれる頻度は先にご紹介した『夕方の三十分』に大差をつけられるのだが、あちらは父子家庭状態の父親の育児詩という、ひょっとしたら世界的にも黒田三郎が初めて題材にしたテーマで際立っていた。これは一見何でもないことのようだが、未開拓のテーマなど滅多にあることではない。
 だが『夕方の三十分』が50年後の現在やや古びて見えるのは一方的に父親の悲哀という観点から書かれているからで、それは作者も気づいたことだった。詩集で連続して載せられた『九月の風』はもっと引いた視点から夫・妻・女児の哀しみをさりげなく均等に描くことに成功しており、抑制のきいた表現の簡潔さは『夕方~』を凌駕する。
 漢字とかなの表記法、淀みないが一語一語に重みのある語彙の選択と改行、自然なスタンザ(連)の流れ、頻繁に切り替わりながら的確に読者の腑におちる視点の移動、とため息が出るほど美しい。一見平易だが文体は不規則かつ文法的に不完全で、『夕方~』の小気味いい文体とは意図的に対照をなす。
 美しい日本語の詩は古来からあるが、むしろ優れた詩ほど作者独自の感受性を誇るものだった。黒田は詩人の感受性の特権に頼らずありふれた生活から非凡な詩を書いた人で、これは戦後現代詩で初めて実現されたことだった。

『九月の風』 黒田 三郎

ユリはかかさずピアノに行っている?
夜は八時半にちゃんとねてる?
ねる前歯はみがいてるの?
日曜の午後の病院の面会室で
僕の顔を見るなり
それが妻のあいさつだ

僕は家政婦ではありませんよ
心の中でそう言って
僕はさり気なく
黙っている
うん うんとあごで答える
さびしくなる

言葉にならないものがつかえつかえのどを下ってゆく
お次はユリの番だ
オトーチャマいつもお酒飲む?
沢山飲む? ウン 飲むけど
小さなユリがちらりと僕の顔を見る
少しよ

夕暮の芝生の道を
小さなユリの手をひいて
ふりかえりながら
僕は帰る
妻はもう白い巨大な建物の五階の窓の小さな顔だ
九月の風が僕と小さなユリの背中にふく

悔恨のようなものが僕の心をくじく
人家にははや電灯がともり
魚を焼く匂いや揚物の匂いが路地に流れる
小さな小さなユリに
僕は大きな声で話しかける
新宿で御飯たべて 帰ろうね ユリ
 (詩集「小さなユリと」)