人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

3年目に入ります

ブログを始めて間もない頃から訪問しあっている人が16日に「3年目だぁ~!」という記事を載せていらした。そう言えばブログを始めたのは同じ頃のはず、というやりとりをしたことがある。その時、最初の頃のぼくの記事は「暗かったですよ(笑)」とも指摘されて苦笑したのも憶えている。だってそれまで入院するほど泥沼化した一年間の不倫恋愛をザクッと終らせて鬱に突入した真最中に始めたブログだもの。
重度の鬱の人間は文章なんか書けない。それはぼくも経験してきたからわかる。ならば文章を書けるかぎりは鬱の程度も軽いはずだ、と自分の病状の指標にするために始めたのがこのブログだった。記事なんていうものではない。症例だ。

だが始めてみたらぼくの場合はあまり症状を反映しないのがわかった。ぼくはフリーライターという職業経験上自分の関心や予備知識がなくてもテーマさえあれば書ける。そもそも雑誌ライターなんていうのは自分が書きたい題材を書く機会など皆無に等しい。
ひどい話だが雑誌一冊まるごと書いて、記名無記名・ペンネームは編集部で適当につけてもらったことも毎年のようにあった。そんなの雑誌ではなくてぼくの個人著作だが、そうならないように記事ごとに文体も発想も別人の執筆で通るように書き分けた。知りあいのライターでもそんな無茶な依頼をこなしている人はいなかった。ぼくは書きたいことなど何もなかったからそれができた。

娘たちが生れてからは成長記録が「書きたいこと」になった。保育園や小学校の連絡帳もぼくが書いた。育児はぼくがしていたし。不思議なもので、ぼくは恋愛すると日記は書けなくなるのに、娘たちのことはどんな些細なことでも書き残しておきたかった。
これまで読んだ父親による育児日記で素晴らしいな、と思ったのは津田信夫「太郎日記」とパウル・クレー「クレーの日記」だが、それは著名詩人や画家だったから死後出版されたので、どんな市井の父親でも愛情と観察眼と文章力さえあれば書ける。ぼくもそれだけは自信があった。
娘たちとはもう生き別れで会うこともないかもしれないが、父親が生前はどんな人間だったのか知りたければ遺品の携帯電話からこのブログにたどり着けるだろう。その時にはぼくは故人だから、包み隠すことも取り繕うことも何もないわけだ。これは文章を書く人間には前提といえる覚悟だろう。(5月18日・次女の誕生日に)