・金輪際わりこむ婆や迎鐘(川端茅舎)
・金輪際夜闇に根生う姿なり五重の塔は立てりけるかも(北原白秋)
以前にもこれを取り上げようと思い、まず『金輪際』の語源や、同様に本来の意味では使用されないが俗語表現としては生きている古語について前置きを何回か書いたはずだ。なのに結局本題に入らないうちに止めてしまった。たしかムーミン谷童話を書き始めるのと入れ違いに放置したので、下手に前振りで引っ張るようなことをしたから書いている本人にとって鮮度が薄れたのだと思う。以来何となく残尿感のようなモヤモヤがあったのだが、男女では同じ残尿感でもかなり異なる気もするが。
なんにせよはっきりしないのは最近記憶にムラがあることでも顕著で、都合の悪いことや良い印象がないことはブロックがかけられている。たとえば雑誌ライターだった時に関わりのあったほとんどのスタッフの名前を忘れている。顔はだいたい思い出せるしどんな嫌な目にあったかも憶えているが、思い出すと不愉快なことの方が多いので思い出すまいとしているうちに本当に忘れてしまったのだ。実は今、少しだけ思い出して、田中、佐藤、高橋、斎藤、山田という名字の人には複数名嫌な目にあわされた憶えがある。これは確率的に仕方あるまい。
そこで掲出句・掲出歌だが川端茅舎(1897~1941)は昭和八年の処女句集『川端茅舎句集』より佳作と名高い句、北原白秋(1885~1942)は昭和九年の第七歌集『白南風』より白秋の作品中ではあまり注目されない一首になる。同時期でもあり影響関係はまず考えられず、これほど異なる『金輪際』の用法もないだろう。
金輪際は仏教用語で地底の最下底にある、大地を支える巨大な輪を指す。この名詞が俗語では否定表現を強意する副詞に転用されたのだが、茅舎の句では「断固として」という意味で使われている。迎鐘とは除夜の鐘ではなく京都で八月に行われる六道詣でを指す。
白秋の一首はさすがに冴えていて、ゴシック・ロマン風に五重の塔が金輪際からそびえ立つ。それに較べて茅舎の句は面白さがわかりづらい。「金輪際」と「わりこむ婆」と「迎鐘」は一句に収めるには本来不調和なのだが、「(婆)や」の切れ字「や」の一文字で俳句が成立している。俳句に興味ない人には通じない面白さでもあるが、言語感覚を大事にする人なら素通りできない作例だと思う。