鬱より躁が危険
より正確に言えば、躁鬱混合状態というのがある。気分は鬱なのに躁的な活力には溢れているから、やけくそで狂言自殺を図ったりするのはこういう時に起こる。
躁自体が、何もできなくなるが常識的判断や理性は保たれている鬱とは大きく違って、コントロールを失ってしまうものだ。しかも躁の真っ最中にはその自覚がないから、冷静な忠告や意見を受けつけない。
サディズムとマゾヒズムは見かけに反して対立概念ではない、というのもいまだに浸透していないのは、ドSとかドMなどの軽口が通用していることでも察せられるが、サディズムやマゾヒズムについて正確な認識がなくてもたいがいの人は困らない。同様に、躁と鬱は対立語ではなく、まったく質的に異なる状態を指しているのだが、病者として躁や鬱を経験したことがない人には元気が良くてはしゃぎ出す=躁、元気がなくてふさぎこむ=鬱、と単なる活動エネルギーのパラメーター変化に見えても仕方ないだろう。
本当にその程度だったらどんなにいいことか!実際の躁、健康な人の躁的状態ではなく病者の躁は人格をも変異させるものだ。
重い躁に陥ると、まずシゾイド障害や乖離性障害が発する。双極性障害の場合は急性(一過性)のものだし、まるで他人事のように後になってみると記憶が残っている場合も多いが、病相中の程度は障害の慢性化状態に匹敵するほど悪く、躁という言葉から連想されるプラスの面など全然ない。心の中は世界に対する怒りと苛立ちに満ちている。
というのは、躁によって歪んだ思考はひたすら妄想をふくらませては現実と取り違えていき、狂っているのは自分の方なのだが躁病相中の病者には世界の方が発狂して見えるからだ。これが急性であり慢性化状態ではないのは、慢性化まで行けばもう世界にも無関心になる。
また、急性期を過ぎた後で徐々に記憶が整理されていくのも完全な慢性化ではなく、多少なりとも自分自身に客観性を持っていたということで、病後に客観的に自分に向かい合う苦しさを狂気経験のない人に理解してもらえるだろうか。絶対に死ぬのを許されない状況で死にたくなるような現実を直視しなければならない。あさましいものだ、そうまでして生き続けていかぬばならないとは。無力で無意味な人間にも無意味な人生を送る権利はある、と『戦場のドン・キホーテ』という映画でダニー・ケイが言っていた。だが、そうだろうか?