人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

真昼のあんかけ焼きそば

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 レシピというほどのものではない。食材は、中華丼の具のレトルト(100円ショップの食品コーナーにある)と3食98円の袋入り焼きそば生麺を買っておく。レトルトを温めている間に生麺1袋をフライパンで炒めながら蒸らす。皿に盛った麺にレトルトのあんかけの具をかけて、後は練りからしと酢を好みで加える。酢はかなり多めでも感心するほど麺が吸収する。50ccくらいであればあっけないくらい吸ってしまうのではないだろうか。もっといけるか?
 あんかけの具材を揃えて調理する手間を考えると、1家族分調理するならともかく、1人前のために各種の野菜を用意するのは無駄がありすぎる。とにかくこれであんかけ焼きそばには違いないものができる。瞬間油熱乾燥法、またはフリーズドライもののインスタントラーメンよりも食事らしい献立にはなっているし、焼きそば用生麺を炒める、あんかけレトルトを温める程度の手順でまず失敗するはずはなく、どう作っても一定以上の味にはならない替わりに一定以下の味にもならない。早い話、出来上がりのあんかけ焼きそば弁当を電子レンジで温めるのと大差ないのだから、本来なら料理などとは言えたものではないかもしれない。

 取り柄があるとすれば、コストは出来上がりの焼きそば弁当を買ってくるより断然安い。それから、この程度に手をかけただけでもそれなりに自分で作ってみた気分にはなる。レトルトにだって茹で加減があり、焼きそばにだって蒸し加減があるのだから、手順が温度や食感に反映する。基の味自体は変わらないかもしれないが、料理は温度と食感で大きく味覚が異なるものではないか。それは気候、具体的には室温にも関係するだろうし、焼きそばを盛る皿を電子レンジかお湯で温めておくかでも冬場はずいぶん違ってくる。お皿が冷え切っていては麺の温度も急激に下がってしまうのだ。
 味覚の働きは食欲次第とも言えるが、食欲がそそられるかどうかも食感に左右されるところが大きいだろう。具材の大小はレトルト調理品の場合手の加えようがないが、焼きそばならば水分量、つまり蒸らし方で食感は劇的に変わる。パサパサにもできるしベトベトにもできる、またサラダ油を絡める分量でも食感は変わる。食感の面でも温度が味覚を左右する重要な要素なのは強調するまでもないだろう。

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 と、ここまで書いていると「調理」とか「献立」、「味覚」や「食感」などはすべて性欲、もっと普遍的に言えばセックスに置き換えられることに気づかないではいられない。美食家は例外なく色魔的傾向があるのはよく指摘されるような気がするが、湿度や温度、食感など分析的に食欲を見直してみると、ことごとく性欲に置き換えることができるではないか。「何だか性欲的になっているんだ」と映画『日本春歌考』(大島渚、1967)で荒木一郎も言っている。人間の3大欲求だから原理としては同じかもしれないが、睡眠は自然な現象として仕方ないだろう。食欲、性欲というと嗜好の問題が入ってくるからややこしい。それは語呂あわせではないが、志向=指向の問題でもある。
 ロキシー・ミュージックは才気あふれる色男ブライアン・フェリー率いる面白い70年代バンドだが、1974年の傑作アルバム『Country Life』(ジャケット画像掲載)で「Casanova」という攻撃的なミディアム・テンポのファンク・ナンバーをやっている。カサノヴァという存在は最低だ、今こそその本質を暴き出して槍玉に上げてやる、という辛辣な歌詞で、サウンドともども後のJAPANが影響を受けたのはこうした怒りに満ちた曲のロキシーだと思うが、では色男のフェリーさんはなぜカサノヴァを憎悪し、存在もろとも抹殺してやると歌ったのか。それは、一般的には混同されやすいが、カサノヴァに対してドン・ファン(ドン・ジュアン)という、一見似ているようでいて、その実まるで本質の異なる漁色家のタイプがあるからだ。

 カサノヴァは人数や種類を消費して次々と経験値を増やしていくことが自己目的化した女蕩しであり、要するに一種のギャンブラー的な放蕩依存症によるプレイボーイにすぎない。一方ドン・ファンも次々と愛人遍歴を重ねていくのだが、ドン・ファンの欲望はマニアックであり、究極の充足を与えてくれる女性を求めてしまうので、当然ドン・ファンの理想に完璧に叶う女性はいないからたまたまプレイボーイになってしまう。カサノヴァであれば女は消費していくものだからプレイボーイであることはむしろ本意なのだが、ドン・ファンにとってプレイボーイであることは絶望的な敗北を累積することになる。つまりいわゆるサディストとマゾヒストの違いがあるのだが、サディズムマゾヒズムは対概念ではなくまったく質的に異なることを暗示した嚆矢がモーリス・ブランショの『ロートレアモンとサド』1949であり、決定的な結論を出したのはジル・ドゥルーズの『マゾッホとサド』1967だった。日本語訳も1973年に出ているから英訳はもっと早く、フェリーさんに着想を与えたかもしれない。
 つまりフェリーさんは自分ははっきりドン・ファン的愛の探求者であると宣言し、ドン・ファンを擁護する目論見からカサノヴァ批判の曲を歌ったのだと思うが、だったら最初からドン・ファン的存在を是認する曲を歌っても良かった。1973年のアルバム『For Your Pleasure』では理想の女性を求めてダッチワイフに行き着いた男が興奮のあまりダッチワイフを破裂させてしまいさめざめと泣く、という曲もある(「In Every Dream Home a Heartache」)。誰しも女に首を締められたり、散々寝首を掻かれた経験があればそういう曲にもしみじみしてしまう。ロキシー・ミュージックドン・ファン的男性像を堂々と歌ったのは、ついに理想の女性を見つけたことを歌い上げた『Avalon』1982で、テーマの結論に到達したバンドはそのアルバムで解散することになる。フェリーさんにはめでたいが、これはフェリーさん自身の個人的解決でしかないのは言うまでもない。

 食が性といかに近いかというと、料理写真とはほとんどヌード写真と同様の牽引力を持つ、ということからも知れる。旧ソヴィエトの映画作家レフ・クレショフが映画独自の効果として1920年代初頭に理論化したものだが、クレショフはすでに全盛を極めていたサイレント時代の映画を分析してモンタージュ効果という手法に気づき、具体的内容には諸説あるがこういう実験をした。3パターンある。
 まず特に演技はしていない男性俳優の顔のアップ映像が映る。続けて食卓に料理が並んだ映像。被験者(視聴者)が受ける印象は、食事したいんだな、というもの。
 次に同じ俳優の顔のアップ。続けて棺の映像が映る。悲しそうだな、と感じる。これは死というものが人の感情に与える動揺を表したもので、前後の例とは少し違うだろう。
 最後に俳優の顔のアップ映像に続いてソファに横たわる女性の映像が映る。こいつ、ムラムラしてやがんな、と視聴者は感じる。棺はともかく、料理と異性はそれだけピックアップされると、ともに映像が接続されるだけで欲望の対象に映るということになる。

 そこで再び性の領域から食へと話を戻してみたいが、性と食がパラレルであるなら食に関してもカサノヴァ的か、ドン・ファン的かという態度の違いがあるだろうと考えられる。さらに性については男女という性差はやはりついてまわることで、文化国家ですら男はほどほどにカサノヴァ的であることを許され、女は充足もペアリング解消もできないままドン・ファンにすらなりきれない、というような面があっただろう。ところが食となると、性差が適用されないアナーキーな選択が許されてしまい、それを抑制するのは経済的条件しかない、とまで肥大しかねない。年中菓子ばかり喰っている人などは食の本能が壊れて欲望に呑まれているので、それが逆方向、すなわちグルメ方向に走ると『美味しんぼ』的なおよそ根拠薄弱で非現実的・反栄養学的な天然素材・無添加食などへの盲信方向に向かってしまうのだ。
 だがこのお手軽あんかけ焼きそばはどうだろう。これほどありがたくもないが退けるほどでもない代物はあろうか。1度食べれば十分かもしれないがまた出されたら断る理由もない。何ら経験値にもならない点ではカサノヴァ的暴飲暴食者には面白くも何ともない献立だろうが特に文句をつける点もない、と不完全燃焼もきわまりない代物に違いない。では食のドン・ファン的求道者にとってはどうかというと、こんな駄菓子屋の店先で火鉢に鉄板を乗せて子どもが自分で焼いている亀戸のもんじゃ焼きみたいなものは献立でも何でもあるまい。だからといって人間の食べ物であるからには案外ヒューマニズムを根底とするドン・ファン型性格の美食家にはスルーはできないが、当然ドン・ファン的理想からはほど遠い献立なのにやはりケチがつけられるようなものでもない。そんな具合に、あんかけ焼きそばとは美食家にすら不可侵の孤塁を守っているのだ。人間として見習いたいとすら思えてくるではないか。