人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

麻婆丼の初日・2日目

イメージ 1

 何か以前も似たようなどころかまったくおなじ趣向の作文を載せた気がうっすらするが、麻婆豆腐に前回も今回もない。イタリア近世の歴史哲学者ジャンバティスタヴィーコ(Giambattista Vico, 1668-1744)は歴史の直線的発展というそれまでの西洋歴史学の常識(もちろんインドや中国ではとっくに喝破されていた)を覆した人だが、ヴィーコ学説には閉鎖環境下における歴史の周期性も示唆されており、これを卑近に置き換えると昨日も今日も明日も朝食と昼食はお茶漬けや納豆だったり、あと先月の食生活だが10日連続夕飯の主菜を焼売で過ごした記憶も新しい。焼売と餃子は大好物だし、スーパーで焼売が特売だったからだが、いくら好物でも10日も続くとこんなに安い永劫回帰には飽きてくる。市販の焼売や餃子は蒸したり焼いたり揚げたりするだけだが(餃子には中国では主流の水餃子という手もある。中華だしを入れてかき玉スープにするとなお美味しく、老後はこれだなという気になる)、麻婆豆腐の素となると少しは料理らしくなってきて、挽き肉入りの濃縮スープのレトルトに豆腐を加えて添付の片栗粉を水で溶き、流しこんでとろみをつけるだけだが、第1の難関は豆腐の賽の目切り、これは不揃いでもいいとしても、第2で最大の難関は弱火または火を止めてダマにならないように均等にとろみをつける。理想を言えば糸のように細く鍋に円周状に流し入れながらかき混ぜるのだが、ドボッとついついこぼしてしまうと片栗粉の茹でたダマができてしまうのだ。確実に失敗しない方法としては火を止めて水溶き片栗粉がすぐ固まらない程度に熱が冷めてからそこそこ均等に回し入れて、とろみの素を鍋全体によく混ぜてから弱火で再加熱して、とろみがつくまで煮直す。これならダマができるという失敗はない。その代わり全体的に濁った色で、風味にキレがない麻婆豆腐になる。だが他人に出すわけではなし、ダマができるよりはよほど良い。

イメージ 2

 ご飯少なめにすれば3食分にはなるのだがもう季節も梅雨、麻婆丼にして食べた初日の残りは土鍋ごと冷蔵庫に納め、2日目で食べきることにする。どうせ食べきるのなら土鍋のままでご飯を投入するが、これしも麻婆丼と呼べるのだろうか。むしろ麻婆リゾットと呼ぶべきではないか。しかし日本人の食習慣には鍋物の最後には残りご飯をぶち込んで汁の一滴まで余さずいただく(麺類の場合もあるが)、という美徳があるのだからカレーやシチューの最後の1食は鍋にご飯、という食べ方はむしろ庶民食の伝統なのではないか。中華風リゾットとしては大いにあり得る。例えば先に例を出した水餃子だが、日本では餃子は点心ではなくほぼ副菜という位置づけだから水餃子にそのままご飯をぶち込む、という食べ方も不自然ではないだろう。餃子に対して礼を欠いていないかと気の弱くなる人もいるかもしれないが、日本人はカレーをご飯にかけ、餃子だって蒸し焼きにしてご飯のおかずにしてきたりしているの、だ。土着とはそういうものだろう。郷に入らば郷に従え、とは食の世界にも通じるはずであり、某有名料理マンガのように「明太子は日本の恥」などと何様な主張はとかくものごとに上下をつけたがる成金趣味というもので、崎陽軒の焼売は日本一美味いと思うがいや吉野家の牛丼だという人がいてもいい。そして焼売や牛丼や麻婆豆腐に直線的発展などなくてもいい、また好きなときに食べられればそれでいいではないか。