人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

2017年映画日記4月1日~5日/フェデリコ・フェリーニ(1920-1993)10連発(その1)

 歿後どうなったかはわかりませんが、フェデリコ・フェリーニ(1920-1993)の生前の名声は格別なものがありました。フランシス・フォード・コッポラが『地獄の黙示録』1979公開前のプロモーションで来日した際、『影武者』1980製作中の黒澤明との対談でスティーヴン・スピルバーグとの共同プロダクション社内の内装にグリフィス、チャップリンエイゼンシュテインフェリーニ、黒澤の肖像写真を掲げている、と発言していましたが、フェリーニは1970年代初頭には『フェリーニサテリコン Fellini-Satyricon』1969、『フェリーニの道化師 Fellini-I Clown』 1970、『フェリーニのローマ Fellini-Roma』1972、『フェリーニのアマルコルド Fellini-Amarcord』1973と作品に監督名の冠のつく監督になっていました。監督名がブランドになったのは同時代にはフェリーニに遅れてベルイマントリュフォーゴダールくらいであり、さかのぼればチャップリンキートン、ロイドら喜劇人の監督兼俳優がいますが喜劇俳優としての人気を措いては考えられないので、主演俳優やシリーズ名でもなく監督フェリーニの名前が一人歩きしたのは今にしてみれば不思議な現象です。監督名を添えでもしなければ原題がそっけないからということも言えますが少なくともフェリーニと同等の映画監督は他にも大勢いるわけで、フェリーニは名前が良かったのではないかという気もしてきます。同じイタリア人名でも『アントニオーニの欲望』『アントニオーニの砂丘』ではどこかいやらしく、『パゾリーニのテオレマ』『パゾリーニデカメロン』では四十八手の解説映画のようです。冗談はさておき、フェリーニは1950年の初監督作から1990年の遺作『ボイス・オブ・ムーン』まで長編映画は20作という寡作の人気でした。1985年の劇映画『ジンジャーとフレッド』、1987年のドキュメンタリー映画インテルビスタ』は「老い」を描いた佳作として好評でしたが『ボイス・オブ~』はついに「フェリーニは終わった」とほとんどのメディアから不評を買い、挽回の機会もないまま1993年に逝去したので生前の名声を知る世代には老残の印象が強いのです。今回観直したフェリーニの長編作品は10作、中短編を除けばちょうど半数になります。必ずしも代表作ばかりとは言えませんが初期~晩年まで偏りなく観直しましたので、率直に感想文をしたためたいと思います。

4月1日(土)
『青春群像』(イタリア/フランス'53)*102mins, B/W
・初監督作『寄席の脚光』1950(共同監督=アルベルト・ラットゥアーダ)、初単独監督作『白い酋長』1952に続く第3作にして一般公開前にヴェネツィア国際映画祭に出品、銀獅子賞受賞の出世作。一言で言って敗戦後北イタリアの湾岸地方都市リミニを舞台にした家離れができない30歳前後のニートたちを描いた映画で、そうなったのもちょうどこの時代の30男が10代後半~20代前半に第二次大戦に重なった世代だからなのがわかる。また戦中~戦後の就職難にもかかわらず地方ブルジョワには息子たちを遊ばせておくだけの資産があったこともわかる。女中に手を出す劇作家志望の軽薄インテリ青年レオポルド、不倫に悩む姉の気も知らず小遣いをせびって遊び暮らすお調子者アルベルト(のち戦後イタリア最高の人気コメディアンになるアルベルト・コルディ)、町一番の歌上手だけが自慢のお祭り男リッカルド、ミスコンに優勝した仲間うち最年少の友人モラルドの妹サンドラを妊娠させてしまい結婚するが妻の家族と不仲で女遊びを止めず就職先の夫人に手を出そうとしてクビになる女好きの兄貴分ファウストなどなど、イタリア人は名前だけでも音楽的でキャラクターが浮かんでくるのがいい。仲間たちの関連性稀薄なエピソードの羅列と平行進行は後の『甘い生活』1960に継承されるが、寂寥感や抒情性では若書きの本作の甘美さが勝る。リミニはフェリーニの出身地らしいから、33歳でふるさと映画を作ってしまった感傷性はちょっと何だが(それでも『ニュー・シネマ・パラダイス』ほどあからさまではないが)、ひとりモラルドがある日突然早朝に行き先未定の片道切符で駅夫の少年だけに別れを告げて汽車で旅立つラストシーンなんか泣けてくる。ワイルダーキューブリックらが一番好きなフェリーニ映画に上げるのももっとも抒情性に作為のないフェリーニ作品だからだろう。

4月2日(日)
『道』(イタリア'54)*104mins, B/W
出世作『青春群像』に続いてフェリーニを一気に世界的人気映画監督に押し上げたのはまたもやヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞に加えてアカデミー賞外国語映画、NY批評家協会賞、ブルーリボン賞外国作品賞、キネマ旬報ベストテン外国映画年間1位に輝いた本作だった。怪力芸の旅芸人ザンパノ(アンソニー・クイン)は女房にしていた女が死んでしまったのでその知恵遅れ気味の姉ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を買う。覚えの遅く家事や仕事の役に立たないジェルソミーナをザンパノは虐げるがジェルソミーナは少しずつ芸を覚え、旅暮らしにも慣れてザンパノとの芸人生活に幸福感を抱くようになる。だがサーカス巡業でジェルソミーナと親しくなった旧知の綱渡り芸人イルマット(リチャード・ベイスハート)をザンパノは嫌い、再び旅暮らしに戻った途中の田舎道で綱渡り芸人と再会したザンパノは軽い諍いから綱渡り芸人を突き飛ばし、運悪く芸人は頭を打って即死してしまう。ショックを受けたジェルソミーナは言動がおかしくなり芸や家事、旅支度もできなくなる。ザンパノはジェルソミーナが眠っているうちに荷物をまとめジェルソミーナを捨てて旅立つ。数年後にその土地を訪れたザンパノは地元の少女からジェルソミーナの死と晩年を知り、一人になって号泣する。ジェルソミーナが口づさみ、トランペットで吹くテーマ曲(ニーノ・ロータ作曲)がエピソードをつなげるモチーフになっている。フェリーニと共作ライターとのオリジナル・シナリオだがほとんどフォークロア(民間伝承)の域に達した普遍的な神話性があり、ハリウッド映画でインディアンやモンゴル人、エスキモーら有色人種役のバイプレーヤーだった巨漢クインが一世一代の名演技を見せる。マシーナはフェリーニ夫人で阿吽の呼吸で演出に応えているから、シナリオとキャスティングだけで勝ったも同然の映画に見えるのが唯一の贅沢な不満だろう。1971年放映されたというNHKの吹き替え音声(ザンパノ=小松方正、ジェルソミーナ=市原悦子、綱渡り芸人=愛川欽也!)は残っていないのだろうか。50年代後半のフェリーニは本作の圧倒的な国内外の成功からならず者たちの世界にヒロインを配した次作『岸』1955、純真無垢な娼婦を描いた次々作『カビリアの夜』1957は『道』から続くマシーナ三部作というべきものになる。この時期から'60年代にかけてはフェリーニにとって最大のライヴァルはミケランジェロ・アントニオーニ(1912-2007)だった時期で、アントニオーニは『女ともだち』1955、『さすらい』1957でフェリーニと並んでイタリア映画の最前線に立っていた。そして1960年はアントニオーニとフェリーニの新作の一騎打ちの年になる。
(以下次回)