人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年6月24日~6月26日/ スタンリー・キューブリック(1928-1999)監督作品全長編(3)

 特に熱心なキューブリック映画のファンでもなければ熱心な映画観客でもないので、今回ご紹介する3作がキューブリックのSF3部作と言われているとは最近初めて知りました。確かに年代的にも連続して製作され、設定は大なり小なり空想的なものですが、作品のカラーはまったく異なります。これら3作はいずれも原案・原作小説から起こされたものですが、『博士の異常な愛情』は近未来に仮想したシリアスな軍事サスペンス小説をシリアスを通り越してブラック・コメディに仕立てた全人類破滅映画、『2001年宇宙の旅』は純SF短編小説を発端部分の原案にキューブリックが作者と長編規模にシナリオ化したもの、『時計じかけのオレンジ』は純文学ジャンルの前衛的近未来ディストピア小説の忠実な映画化、と題材、アプローチ、手法と作風のいずれもが三者三様に異なります。いずれにせよ『スパルタカス』で一流監督の地位に足をかけ、『ロリータ』で前途が危ぶまれたものの『博士の異常な愛情』と『2001年宇宙の旅』はカルト作家にしてヒットメーカーとしてのキューブリックの名声を確立した2作と言ってよく、原作の性格やアプローチに違いはあっても『博士の~』と『時計じかけの~』はきついジョークの効いたブラック・ユーモア作品と括ることができ、『時計じかけ~』以後のキューブリック映画はすべてブラック・ユーモアが基本になっているとも言えるでしょう。あのホラー映画『シャイニング』や『アイズ ワイド シャット』ですら笑いとぎりぎりの線で恐怖が成立しているのです。
(なお例によってデータはダゲレオ出版『キューブリック』'88に拠りました。)

●6月24日(土)
博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb (英/米コロンビア'64)*95min, B/W, Widescreen

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・昭和39年(1964年)10月6日日本公開、配給・コロムビア。上映日数18日、観客動員数6,000人、興行収入190万円(惨敗)。コピー「アメリカ空軍水爆大編隊ソ連を急襲!ついに人類みな殺し戦争勃発!」。冷戦の続く近未来、突然アメリカの戦略空軍基地司令官リッパー将軍(スターリング・ヘイドン)が独断でソ連への水爆攻撃を命じて外部からの一切の通信を遮断する。リッパー将軍は冷戦の脅威と責務から完全に発狂していた。米ソ首脳陣は緊急会議を開きアメリカ大統領(ピーター・セラーズ)はソ連首相から外部からの水爆攻撃時に全世界無差別攻撃自爆装置が自動で働くのを知り、米軍機迎撃を託す。一方戦略空軍基地では来襲者はソ連からの妨害として陸軍の潜入部隊とのアメリカ兵同士の戦闘の中、イギリス人副官マンドレイク大佐(セラーズ2役)がようやく追い詰められて自殺したリッパー将軍のメモから水爆編隊への通信ロック番号を解析して緊急報告し部隊は大統領命令で攻撃を撤回、帰還するが、コング少佐(スリム・ピケンズ)が機長を務める1機だけが迎撃ミサイルによる通信機の故障で撤回命令を知らず、ついにソ連本土への水爆投下が実行される。ホワイトハウスの緊急対策会議ではドイツ亡命者の元ナチス科学者ストレンジラヴ博士(セラーズ3役)が炭坑を利用した放射能半減期100年間の地下シェルターを提言し、ヴェラ・リンのオールディーズ・ヒット曲「また会う日まで」We'll Meet Againが原水爆実験映像の数々が映し出される中流れて映画は終わる。ザ・バーズは1965年12月発売のアルバム『Turn! Turn! Turn!』のB面最終曲で同曲をカヴァー、明らかに本作へのオマージュ。いわゆる「SF3部作」は梗概を書くと長くなるが設定が込み入っているからで、単純なプロットを紆余曲折したストーリーで引き伸ばしている、と言えないでもない。本作はピーター・セラーズの怪演が話題になるが一人三役に特に必然性はないので、セラーズの事情がなければコング少佐も入れて四役を予定されていたそうだがピケンズがやったからコング少佐のキャラクターは大成功した印象が強い。さらにスターリング・ヘイドンのガチでシリアスな発狂将軍の存在感が圧倒的。なぜ水爆投下の決行を独断専行したか、と副官に訊かれて水道水にフッ素が混入されたのは共産主義者の陰謀だ、それで体液が汚染された、自分がインポになったのはそのせいだと気づいた、このままではウォッカしか飲まないロシア人を除いて人類は生殖能力を失って破滅する、「それで水爆投下を?」「そうだ」とセラーズと問答する辺りはヘイドンが演じるからこそ味がある。タフガイ役者でもヒューストンが『悪魔をやっつけろ』でボギーに中途半端な悪役コメディ演出をして外してしまったのと対照的に感じる。日本で本作が大コケしたのは昭和39年に日本の娯楽産業を壊滅させた東京オリンピックの余波とも言われるし、世界唯一の被爆国だからでもあるだろう。当時敗戦後20年未満では致し方ない。本作当時キューブリックはほとんどイギリスに帰化していたとはいえ、英米人特有の視野の狭くエゴイスティックな鈍重さがないとは言えず、本作のアメリカ喜劇映画への影響は悪名高いメル・ブルックスあたりに受け継がれたと言えなくもない。そう思うと本作を高く買う評者はメル・ブルックスをとやかく言えないわけで、才能の大小の違いはあっても両者は質的には似たり寄ったりという気がする。

●6月25日(日)
2001年宇宙の旅』2001:A Space Odyssey (米MGM'68)*148min, Technicolor & Metrocolor, Cinerama (Super Panavision 70)

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・昭和43年(1968年)4月11日日本公開、配給・MGM。上映日数163日、観客動員数25万1,000人、興行収入1億4478万円(大ヒット・'68年度洋画配給収入第4位)。コピー「未知の世界へ冒険旅行アッ危い!命綱が切れた!この楽しさ!美しさ!スリルとサスペンス溢れる奇抜な物語!! 冒険と探検の雄大なドラマ。明日のあなたは21世紀に住む人です。これこそ映画の新しい楽しさを創った驚異の超大作だ!」。原作者とされるSF作家アーサー・C・クラークにも同名小説があるが小説はクラークとキューブリックの共同脚本から起こされたクラーク独自の解釈で、映画は共同脚本からさらにキューブリックの単独脚本に直されて製作された。クラークの原案短編小説「前哨」'48は映画の第1部「人類の夜明け」の後半部分の原案になったもの。第1部前半は類人猿が黒い石板との接触から動物の骨を武器として使い狩猟や戦闘に使うことを覚え、空へ放り投げた骨が宇宙ステーションにモンタージュされる有名なカットから後半、月面の地下に400万年前の黒い石板が発見され科学者の調査中に強烈な信号を発して第2部「18か月後、木星への旅」へと続く。木星へ向かう宇宙船ディスカヴァリー号ではボーマン船長(キュア・デュリア)とプール隊員の2人以外の科学者3人は目的地到着まで人工冬眠装置で眠りに就いていた。船内活動の管理はコンピューターのHAL9000が行っていたが、HALの通信装置故障の誤診からボーマンとプールはHALによる自動航行を懸念、マニュアル操作への切り替えを決める。だがHALはモニターによる読唇術からボーマンたちの計画を知る。「INTERMISSION」を挟んで故障の再確認に船外に出たプール隊員はHALが操作した宇宙ポッドの激突で弾き飛ばされ、酸素ホースも切れてしまう。ボーマンは別の宇宙ポッドで救出に向かうがHALはボーマンの船内帰還を拒否、また人工冬眠中の3人の生命維持装置も停止させる。プールの遺体回収を諦め手動非常口にポッドを激突させて辛くも船内帰還に成功したボーマンはHALの懇願を無視してコンピューターの知能機能を切断、すると同時に木星圏到達時の映像メッセージが流れる。月面地下の黒い石板は木星へ向かって信号を発していた。木星に太古の知性体の存在を確認するのがディスカヴァリー号の任務だった。映画は第3部「木星。そして無限の彼方」でボーマン船長を待ち受ける運命を描いて終わる。どこが現在まで続く人気の秘訣だったかというとこの第3部のサイケデリック映像がヒッピーに絶大な支持を受け、今でも大学生のアシッド・パーティーにはピンク・フロイドタンジェリン・ドリームの音楽同様欠かせない。なるほどトリップ状態の疑似体験なのが冷静に観るとけっこうチープな特殊効果映像からも伝わってくる。これを初めて劇場で観たのは情報誌「ぴあ」リクエストNo.1映画に選ばれリヴァイヴァル上映された昭和53年10月で、小説版もリヴァイヴァル上映直前に文庫化されていたので先に読んで内容は把握していたので覚悟はできていた分楽しめたが、観客の大半は噂に聞く(まだ日本公開が遅れていた)宇宙冒険活劇『スター・ウォーズ』のようなものと詰めかけた男子中高生ばかりで(実際『スター・ウォーズ』を引き合いに出した宣伝がされていた)冒頭の類人猿の登場にブーイングが起こり、上映終了後は静まり返る中「訳わかんねーよ」「何だよこれ」とブツブツ文句の飛び交う秋の横浜なのだった。映画評サイトなどを見るといまだに「HAL9000の反抗の動機がわからない」などとぼやいている人がいるが、梗概からもわかる通り本作は秘境の秘宝探しものの典型的プロットで、「謎の宝の地図が見つかる」「ガイドのナビで探検に出るが、祟りを恐れたガイドに仲間たちが殺され、ガイドと対決して主人公だけが目的地に向かう」「目的地に着いた主人公、しかしミイラ取りがミイラになる結末が待ち受ける」と、サイレント映画にでもありそうな話を宇宙に持ってきた。実際サイレント時代のフリッツ・ラングが撮っていてもおかしくないような話で『キング・ソロモン(ソロモンの秘宝)』や『レイダース・失われた<聖櫃>』とプロットは同じ。映画の約束事にガイドが裏切りを起こすのに動機の説明など必要だろうか。本作の魅力は宇宙空間の映像と宇宙船内部の映像で、長回しの計算されたカメラワークと美術設計は『月世界の女』'29のラングに観せたかった(本作公開時にはラング78歳で、ほとんど失明していたはず)。『月世界の女』から40年経った宇宙旅行映画と思うと『2001年~』から50年あまり経ってこの50年の宇宙旅行映画にはCGが発達しようと本質的に劇的な進展はないなあ、とため息が出る。他の作品ではナレーションや台詞過多だが、本作では音楽以外は極力ナレーションや台詞を排除し、現実音に最大の効果を求めたのも成功している。2時間半が短い短い。クラークの小説版もそれなりに感動的だがあっけらかんと映像で見せた本作は映画ならではの魅力が横溢している。秘宝探検映画です、あくまでもこれは(倒置法)。

●6月26日(月)
時計じかけのオレンジ』A Clockwork Orange (英ワーナー・ブラザース'71)*137min, Color, Widescreen (European Vista)

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・昭和47年(1972年)4月29日日本公開、配給・ユニバーサル。上映日数35日、観客動員数6万5,000人、興行収入3千746万円(ヒット)。コピー「レープとウルトラ暴力とベートーベンだけが生きがいの若者のアドベンチャー!」。近未来の荒廃したロンドン。アレックス(マルカム・マクドウェル)をリーダーとする不良少年4人はホームレスをリンチし、敵対するチームを半殺しにし、車を盗んで郊外へ向かい初老の作家の家に押し入って作家の妻を輪姦する。満足して帰宅したアレックスは帰宅しベートーヴェンを聴きながら満足して眠る。翌日も不登校のアレックスは民生委員の訪問を受け、ヴァーティゴのレーベル照明のされたレコード店で二人の女の子をナンパし自宅で3Pに興じる。チームの仲間3人はアレックスのリーダー面に不満をつのらせるがアレックスは仲間たちを制裁して従わせる。その夜、女性ヨガ教師の家に強盗に入り撲殺したアレックスは仲間の裏切りから警察に逮捕される。懲役14年のアレックスは模範囚を装うが内務大臣の進めていた更正療法の実験台に選出され、実験ののちは釈放と聞き進んで引き受ける。嘔吐感を誘発する薬物投与の後あらゆる残虐犯罪行為の映像を拘束状態で強制的にくり返し観せられる、という刷り込み効果から犯罪や性行為に無意識に激しい嘔吐を催す体質にされたアレックスは、映画のBGMに使われていたベートーヴェンの音楽にも吐気を催す体質になり、公聴会で嘔吐反応を確認された上釈放されるが、実家ではアレックスの留守間を下宿にして下宿学生を実子以上に可愛がっていた。放浪したアレックスは以前リンチしたホームレスたちにリンチにされ、駆けつけた警官は元のチーム仲間で森の奥で半殺しにされる。瀕死のアレックスが助けを求めた家は以前強盗と輪姦に押し入った作家の家で、輪姦された妻はその後自殺し作家は車椅子生活になっていた。作家はアレックスを2階に監禁しベートーヴェンを大音量で聞かせ、アレックスは苦痛のあまり投身自殺を図る。作家の策謀でアレックスの自殺未遂は政府の非人道的実験として大ニュースになる。入院したアレックスからは投身自殺未遂のショックで条件反射効果は消えていた。かつてアレックスに実験の白羽の矢を立てた内務大臣がまた訪ねてきてアレックスへの厚遇を取材カメラマンに囲まれ約束し、アレックスは公聴会の会場でレイプを行う妄想にふける。また梗概が長くなってしまったが、要は札付きの不良少年が刑務所でしごかれ大人しくなって出てくるがシャバの連中に仕返しされて我慢しているうちに不良の本性がもどった、というだけの話。原作者がとびきりの才人なので風刺のきつい原作小説で、近未来ロンドンのヤンキー言葉の一人称、という言語実験作品のテイストも残しつつナレーションも適材適所で本作では単独執筆のキューブリックの脚本のうまさが光る。つまり原作がよく読めているので映画に無駄がない。マクドウェル演じるアレックスは映画史上最悪の主人公だがアクションや表情はミック・ジャガー(ニコラス・ローグの『パフォーマンス/青春の罠』'70に主演)からいただいてはいないか。映画の終盤では愛嬌すら漂わせていて、絶対に共感したくないキャラクターなのにウンコに吸い寄せられるハエのようにその悪臭に魅了されてしまうのだ。こういうすごい名人芸には舌を巻くしかない。嫌な映画ですごく良い、と思わせてしまえばキューブリックの勝ち、嫌な映画ですごく嫌でもキューブリックの勝ち。そこも原作のテイストを読み込んでのことだが、さすがにここまでのセンスはメル・ブルックスごときにはお呼びでない域に達している。絶対最高傑作とは言いたくない悪魔的傑作とはこういう作品のことを言う。次作『バリー・リンドン』が本作の時代劇版になったのも本作の手ごたえがキューブリック本人にとっても会心作だったからに違いない。