人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

現代詩の起源(16); 萩原朔太郎詩集『氷島』(iii)

萩原朔太郎(1886-1942)、詩集『氷島』刊行1年前、個人出版誌「生理」(昭和8年6月~昭和10年2月、全5号)創刊の頃、48歳。

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 萩原朔太郎というとまず第一に詩人としての業績が思い出されるのは何といっても名誉なことで、萩原と同年生まれの石川啄木を始め明治・大正・昭和の著名詩人の大半が詩作品そのものより伝記的な伝説から興味を持たれ広く読まれるきっかけになっているのに較べ、萩原にはそうした神話化が働いていないのです。つまり萩原は夭逝もしなければ軽井沢にも遊ばず、小林秀雄と女を取りあいもしなければ「雨ニモ負ケズ」や「レモン哀歌」も詠わず、作品そのものの魅力で長く読み継がれている詩人です。詩集そのものはそれほど多くはなく、生前の萩原自身によるオリジナル単行詩集は22年間に8冊しかありません。第1詩集『月に吠える』は数え年32歳のデビュー作、第8詩集『宿命』は数え年54歳の最終詩集で、萩原はその3年後に亡くなりました。数え年で享年57歳でした。

[ 詩集 ] - 8冊
・月に吠える (大正6年=1917年2時白日社出版部・感情詩社刊) 32歳(数え年・以下同)
・青猫 (大正12年=1923年1月新潮社刊) 38歳
・蝶を夢む (大正12年=1923年7日新潮社刊、「蝶を夢む (青猫拾遺)」「松葉に光る (月に吠える拾遺)」収録)
・純情小曲集 (大正14年=1925年8月新潮社刊、「愛憐詩編 (初期文語詩集)」「郷土望景詩 (新作文語詩集)」収録) 40歳
萩原朔太郎詩集 (昭和3年=1928年3月第一書房刊、「愛憐詩編」『月に吠える』「松葉に光る」『青猫』「蝶を夢む」「郷土望景詩」「青猫以後 (新作詩集)」収録) 43歳
氷島 (昭和9年=1934年6月第一書房刊) 49歳
・定本青猫 (昭和11年=1936年3月版画荘刊、『青猫』「蝶を夢む」「青猫以後」「青猫以後拾遺」収録) 51歳
・運命 (昭和14年=1939年9月創元社刊、エッセイ=散文詩・抒情詩選集) 54歳

 以上8冊の他に生前刊行の詩集は『月に吠える』再版(大正11年=1922年3月アルス刊)と文庫『萩原朔太郎詩集』(昭和11年=1936年4月新潮社刊/昭和4年=1929年10月新潮社刊『現代詩人全集第9巻・高村光太郎室生犀星萩原朔太郎集』の萩原朔太郎集を独立文庫化したもの)があり計10冊になりますが、再版と文庫、『定本青猫』と『宿命』は既刊詩集からの再編集詩集ですから実質は『月に吠える』から『氷島』までの6冊の詩集に尽きると言えるでしょう。ですが萩原にはまだ多くの著作があります。数や分量の上では萩原には詩作品以外の著作の方が多いのです。

[ 情調哲学(アフォリズム=警句)集 ] - 4冊
・新しき欲情 (大正11年=1922年4月アルス刊・書き下ろし情調哲学) 37歳(数え年・以下同)
・虚妄の正義 (昭和4年=1929年10月第一書房刊) 44歳
・絶望の逃走 (昭和10年=1935年10月第一書房刊) 50歳
・港にて (昭和15年=1940年7月創元社刊) 歳

[ 詩論集 ] - 4冊
・詩論と感想 (昭和3年=1928年2月素人社刊) 43歳
・詩の原理 (昭和3年=1928年12月第一書房刊・書き下ろし長編詩論) 43歳
・純正詩論 (昭和10年=1935年4月第一書房刊) 50歳
・詩人の使命 (昭和12年=1937年3月第一書房刊) 52歳

[ 古典評釈集 ] - 2冊
・恋愛名歌集 (昭和6年=1931年5月第一書房刊・書き下ろし古典評釈) 46歳
・郷愁の詩人与謝蕪村 (昭和11年=1936年3月第一書房刊) 51歳

[ 小説 ] - 1冊
猫町 (昭和10年=1935年11月版画荘刊・短編小説/初出「セルパン」昭和10年8月) 50歳

[ 随筆(随想)集 ] - 2冊
・廊下と室房 (昭和11年=1936年5月第一書房刊) 51歳
・阿帯 (昭和15年=1940年10月河出書房刊) 55歳

[ 文学文化論集 ] - 3冊
・無からの抗争 (昭和12年=1937年8月白水社刊) 52歳
・日本への回帰 (昭和13年=1938年3月白水社刊) 53歳
・帰郷者 (昭和15年=1940年7月白水社刊・北村透谷賞受賞) 55歳

[ 編著 ] - 3冊(うち1冊他選)
室生犀星詩集 (昭和4年=1929年11月第一書房刊・室生犀星編『萩原朔太郎詩集』と同時刊行) 46歳
萩原朔太郎人生讀本 (昭和11年=1936年10月第一書房刊・詩と散文選集/辻野久憲編) 51歳
・昭和詩鈔 (昭和15年=1940年3月冨山房刊・冨山房百科文庫) 55歳

 つまり萩原には自選単行詩集以外に編著3冊を除いても16冊の散文作品集があり、もっとも早い『新しき欲情』が詩集『青猫』の前年で、『氷島』に先立って『詩論と感想』(全詩集『萩原朔太郎詩集』の前月刊)、書き下ろし長編詩論『詩の原理』、情調哲学第2集『虚妄の正義』、書き下ろし古典評釈『恋愛名歌集』があり、昭和10年の『純正詩論』から昭和15年の『阿帯』までの10冊は『氷島』以後の著作になります。最初の散文著作『新しき欲情』は出版まで書き下ろしの時間が十分あったとしても昭和3年の『詩の原理』、昭和6年の『恋愛名歌集』は優に長編小説ほどの長さがあり、『純正詩論』から『阿帯』までの10冊は5年間に10冊(その間に『定本青猫』と『宿命』、他選ながら『萩原朔太郎人生讀本』と萩原本人による編集・解説の『昭和詩鈔』の4冊もあります)短編小説1編のみを限定出版の豪華本にした『猫町』以外はほとんどが大冊と言ってよく、全詩集『萩原朔太郎詩集』以後の萩原には完全な新作単行詩集は『氷島』しかないと見なせば、昭和3年以降の萩原は1冊の全詩集と1冊の新作詩集に対して15冊の新刊エッセイ・批評・小説作品の著者になったわけです。萩原は昭和16年夏以降体調を崩し昭和17年5月に亡くなるので随筆集『阿帯』が遺著になりましたが、しかしそれらの散文著作は特殊な興味を持つ読者にしか読まれていないのが実情でしょう。

 また昭和3年の全詩集『萩原朔太郎詩集』に収められた詩作は『定本青猫』で追加収録された2編と同じく「青猫以後」の末尾3編を除いてすべて大正末年までに書かれたものであり(この5編だけは「郷土望景詩」で文語詩に回帰した後にわずかに書かれた口語自由詩です)、昭和期に入ってから創作された唯一の新作詩集が文語詩集の『氷島』で、萩原の詩集では『純情小曲集』の「郷土望景詩」を継ぐ詩歴自体のエピローグをなすとするなら、萩原朔太郎は大正期は詩人であり、昭和期にはエッセイスト・批評家だったとも言えるでしょう。全詩集『萩原朔太郎詩集』は大正2~3年創作の初期作品「愛憐詩篇」(初収録詩集は『純情小曲集』)に始まり、昭和2年に締め括られる「郷土望景詩」(初収録詩集は『純情小曲集』)と『萩原朔太郎詩集』初収録の「青猫以後」で終わりますので、昭和3年の『詩論と感想』『詩の原理』から昭和15年まで多産されたエッセイ(萩原自身の呼称では「情調哲学」とされるアフォリズム警句集)、詩論、古典評釈、文学文化論、随想と多岐に渡る著作は大正期の全詩集に匹敵する比重を占めています。大正期に例外的に情調哲学(アフォリズム集)『新しき欲情』があり、昭和期に唯一の新作詩集として『氷島』があることまで対照をなしています。

 さらに昭和3年3月の『萩原朔太郎詩集』から昭和12年3月の『詩人の使命』までの著作がほとんど第一書房から刊行されているのも注目され、第一書房は詩書専門の個人経営による小出版社で基本的には自費出版専門、萩原の場合ですら出版費用は第一書房と萩原の折半でした。萩原は医家の長男で家督相続したので遺産で生計を立てており(医業は長女である妹の婿が継ぎました)、著作は完売して利益が少々という程度でした。また萩原は依頼されて執筆する、ということをほとんどせず、たまに依頼があれば引き受けるか断り、日本で初めて国勢調査が行われた時にも「無職」と答えて「文筆家」と訂正されてしまったそうなので、第一書房からの著作もすべて萩原自身による持ち込み原稿でした。それが変わったのが語学・演劇出版社白水社からの文学文化論三部作『無からの抗争』(昭和12年=1937年8月刊)、『日本への回帰(昭和13年=1938年3月刊)、『帰郷者(昭和15年=1940年7月刊・北村透谷賞受賞)です。この三部作は収録作の雑誌時から「萩原朔太郎の日本主義者への転向」と揶揄され、萩原自身もその回答として単行本表題作から「日本への回帰」と宣言してナショナリズムとは異なる文化伝統の継承の真意を強調しました。これには伊東静雄詩集『わがひとに與ふる哀歌』(昭和10年)への絶讃と前後して保田與重郎をリーダーとする京都の詩人・批評家グループ「日本浪漫派」との交流が明らかに主張の裏に働いていることで今なお問題視されています。

 ただし萩原には2冊の長編古典評釈『恋愛名歌集』(昭和6年=1931年5月第一書房刊・書き下ろし)、『郷愁の詩人与謝蕪村』(昭和11年=1936年3月第一書房刊・個人誌「生理」連載)があり、これらは日本浪漫派との親交とは関係なく成立したものです。そして萩原の散文著作の中でもっとも優れたものとして読まれている数少ない作品もこの2冊で、次いで非常に内容に偏向があり評価の定まらない渾身の書き下ろし長編詩論『詩の原理』が現在でも専門的な現代詩読者にとっては論議の的になり、短編小説ながら瑞々しい幻想小説猫町」が好ましい佳作として比較的広く愛読されている、といったところでしょうか。萩原の詩作以外の創作はもっと早く、北村透谷の『蓬莱曲』を思わせる思想小説の大正5年の「虹を追ふ人」とその改作で中編小説の長さに及ぶ昭和2年の「天に怒る」、昭和4年の異常心理小説「ウォーソン夫人の黒猫」、昭和10年反戦小説「日清戦争異聞<原田重吉の夢>」などがあり(「天に怒る」以外は「猫町」も含めすべて短編)、アフォリズム集に洩れた散文詩中にも独立した創作と読める作品がありますが、萩原自身によって単行本化された創作小説は「猫町」1編しかないのです。それほど作者が自信と愛着を示すだけあって「猫町」は『月に吠える』『青猫』の詩人ならではの短編小説といえる優美な出来映えのファンタジー作品です。しかし2冊の古典評釈、『詩の原理』、単行本『猫町』は萩原の散文著作の全貌からはごく一部でしかありません。アフォリズム集四部作と文学文化論三部作を両極に置き、さらに混乱のはなはだしい詩論集四部作を上下に置くと、混沌とした萩原の散文著作の中で例外的に古典評釈と「猫町」は対象の単純化によって偶然に生まれた純度の高い作品でしかないように思われます。

 全詩集に含まれる『月に吠える』『青猫』『蝶を夢む』『純情小曲集』「青猫以後」が大正2年(1913年)~昭和2年(1927年)の足かけ15年に一気に書かれ、以降は昭和9年(1934年)にまとめられた『氷島』の新作20編(全25編中5編は全詩集から再録)しかないとなると、大正期の萩原朔太郎の詩作には一種の惰性が働いていたようにも思えます。惰性というと誤解を招きかねませんが、この場合は純粋に力学的運動の意味での惰性です。つまり大正期の萩原は次から次へと作品ができてくる、という状態で、『月に吠える』よりも『青猫』はさらに大部の詩集で刊行後も「青猫以後」にまとめられる『青猫』の作風の詩作が続き、この惰性がそろそろ終わりかけてきた時に文語詩時代の初期作品集「愛憐詩篇」と対をなすように「青猫以後」後期と平行して文語詩の新作「郷土望景詩」連作が始まり、「郷土望景詩」と「青猫以後」がほぼ同時に終わるとともに運動は停止します。第1詩集『月に吠える』は2年半に書かれた56編からなり、拾遺詩集『蝶を夢む』の「松葉に光る (月に吠える拾遺)」には20編と76編に上り、さらに第2詩集『青猫』までは6年間に55編、拾遺詩集『蝶を夢む』の「蝶を夢む (青猫拾遺)」には24編と79編もの新作があって作風の変化から1編あたりの長さは『月に吠える』時代の倍になっており、また『青猫』収録作の創作は情調哲学『新しき欲情』と平行しているのを思えば創作の勢いは『月に吠える』『青猫』の両時代がピークだったでしょう。『青猫』から2年後の『純情小曲集』は『月に吠える』以前の1年半に書かれた初期文語詩集「愛憐詩篇」18編と最新作の文語詩連作「郷土望景詩」10編を収録し、『青猫』から5年後の全詩集『萩原朔太郎詩集』では「郷土望景詩」に1編増補、新作集「青猫以後」が20編(後の『定本青猫』で2編増補)、というのが全詩集『萩原朔太郎詩集』までの創作ペースです。

 昭和3年の『萩原朔太郎詩集』から6年後の『氷島』が収録詩編全編が文語詩で1編あたりの長さも短く、新作も20編にとどまるのは大正期の詩作ペースからは異なる位相に移ったことを示して余りあるものです。『萩原朔太郎詩集』は収録詩編203編、これに『氷島』と『定本青猫』を足すと著者認定の詩編は225編になり、『宿命』収録の散文詩73編(うち67編はアフォリズム集からの再録で新作は6編)を足せば298編になります。萩原は自作の評価は的確で雑誌発表のまま詩集未収録になった作品は未収録に納得のいく未熟な作品と言ってよく、歿後発見された未発表作品が約330編あり、作品総数は約660編に上ります。そのうちの298編ないし散文詩を除く225編が詩集収録作品ですから打率はかなり良いのですが、詩集未収録詩編・未発表詩編ともに「愛憐詩篇」『月に吠える』『青猫』「青猫以後」時代に集中しており、名実ともに『氷島』は寡作の時代に入ってからの詩集と言えます。そしてその後萩原は詩作について言えばかつての創作力を取り戻さなかった、というのが詩論集やアフォリズム集、随筆集、文学文化論集の多作の背景にあります。

 一般的に創作家が創作から手を引いた時は内発的なテーマをすべてやり尽くしたか、抱えたテーマをそれ以上展開できずに行き詰まったか、いつの間にか不本意なテーマに向かいあうことになり意欲を喪失したか、あるいは一種の金属疲労のような状態で力尽きたかという事態のいずれもが同時に襲いかかってきた状態が考えられますし、単純にそれを才能の枯渇の一言では片づけられないでしょう。萩原のように大正年間だけ爆発的な創作力で有無を言わせない業績を残した詩人ならばなおさらのことで、惰性が本当に悪い意味の惰性、自己模倣による劣化再生産によってだらだらと新作を書き続けることもできたでしょう。別にそれは悪いことではなく文学ジャンルの作家が生涯に10冊にも満たない著作しか残さないのが珍しくないように、エンタテインメントのジャンルの作家が年間数冊・生涯で100冊あまりの著作を手がけるのはそもそも創作意識のポテンシャルが異なるからです。右から左へ書き流されたような多産なエンタテインメント作家の作品にはかえって彫心鏤骨の文学者の作品にはない軽やかな流露感があり、それが高踏的な文学作品にはない広い大衆性を誇るのは文学ジャンルに限らず他の創作ジャンルでも普通に見られる現象です。

 萩原の場合は現代詩史上のビッグバンとでも言うべき旺盛な創作時期が15年あまり続きましたが、それはある時期まで着けば停滞し、停止してしまうような期間限定の運命が当初から予想されていたとも言えます。第2詩集『青猫』の前年に『新しき欲情』を刊行していたのは抒情詩の限界に達した時にそれに取って代わる表現形式の模索がすでに始まっていたのと解するべきでしょう。この「情調哲学」と萩原自身が呼ぶアフォリズム=警句形式のエッセイ断章集は煮ても焼いても喰えない独断的な厭世観が羅列された力作で、長編小説1編ほどある同書(後続の『虚妄の正義』『絶望の逃走』『港にて』も同様の大冊です)を読み通せる現代の読者はほとんどいないでしょう。

 また萩原特有の気まぐれで当初「情調哲学」とされたこの形式は後に「アフォリズム」「新散文詩」と点々と呼称が変わりましたが、大正11年=1922年の『新しき欲情』から昭和15年=1940年の『港にて』の18年間(逝去2年前まで)という持続は『月に吠える』から『氷島』までの17年間より長い上に最晩年近くまで続いた強みがあり、詩作品同様単行本未収録作品、未発表作品もありますが、『新しき欲情』(大正11年=1922年)255編、『虚妄の正義』(昭和4年=1929年)295編、『絶望の逃走』(昭和10年=1935年)204編、『港にて』(昭和15年=1940年)254編と1008編にも及びます。未収録詩編、未発表草稿を含めた全詩作品よりも公刊したアフォリズムの方が多いわけです。現在ほとんど読まれないこれらアフォリズム集シャルル・ボードレール(1821-1867)の死後出版されたアフォリズム集『内面の日記』1887(「火箭」1855~1862、「赤裸の心」1859~1866)に相当するもので、萩原は『月に吠える』を日本の『悪の華』1857たらんと自負してボードレールを崇拝していましたが、『新しき欲情』の頃はまだ『内面の日記』の翻訳も紹介もされていなかったのでアフォリズム形式の文明批判は偶然の一致です。違いと言えばボードレールの『内面の日記』は19世紀文学の必読書ですが萩原のアフォリズム集は誰も読まない浅薄で陳腐な内容になり果てており、作品自体に今日の読者に顧みられないのもやむを得ない要因があります。それは萩原の諷した当時の文化状況への感覚的な縁遠さゆえですが、ならば現代日本の読者にとってボードレールの方がよほど懸隔は大きいはずです。この逆転は萩原が1世紀前(今年は『月に吠える』刊行100周年です)の同国人の詩人のために中途半端に先入観が無心な読書の妨げになるからだと思われます。

 今回も詩集『氷島』自体には立ち入らず、萩原のキャリアを詩人時代(大正年間)とエッセイスト・批評家時代(昭和年間)に二分して『氷島』が昭和年間の例外的詩集であることを指摘するに止まりましたが、詩集『氷島』収録作品年譜を詩集収録順と比較して載せていかに『氷島』収録詩編の発表が訥々としたものだったかを確認したいと思います。『月に吠える』『青猫』時代なら『氷島』収録詩編の編数ならば1年もかからなかったはずです。萩原に変化が起こったのは『氷島』の成立過程からも明らかで、これほど薄い詩集にこれだけの執筆期間を要したのも大正期の萩原には考えられないことでした。内訳は大正12年=1編、大正14年=3編、大正15年(昭和元年)=1編、昭和2年=2編(同時掲載)、昭和5年=5編(うち3編同時掲載)、昭和6年=10編(うち7編同時掲載)、昭和7年=1編、昭和年8=2編(同時掲載)となっています。大正期の5編は『純情小曲集』『萩原朔太郎詩集』既出分からの再録ですから詩集初収録の新作は昭和2年昭和8年の20編ですが、昭和3年・4年には作品がなく、また昭和2年=2編(同時掲載)、昭和5年=5編(うち3編同時掲載)、昭和6年=10編(うち7編同時掲載)、昭和年8=2編(同時掲載)と発表に非常にムラがあるのがわかります。雑誌発表の原題から改題されたものは改題後のタイトルの方が良く、また発表順に拠らない収録配置の効果はさすがですが、発表誌のうち商業誌と言えるのは「改造」と「文藝春秋」くらいで、「日本歌人」「若草」「蝋人形」はアマチュア歌人のための投稿誌、「薔薇」「古東多萬」は不詳ですが同人規模の趣味的なリトル・マガジンでしょう。「詩・現實」は北川冬彦三好達治主宰の同人誌、「ニヒル」は辻潤と萩原主宰の同人誌、「生理」は萩原個人編集の自費出版個人誌です。原稿料の支払いがあったのは「改造」「文藝春秋」くらいで投稿誌からは謝礼程度、他は原稿料どころか同人費まで支払っていたと思われ、高村光太郎の詩作発表も萩原同様に同人費を払っていたといいますから当時の日本最高の詩人が二人ともまったく経済的な対価もなく詩作を続けていたのです。話題が逸れましたが、このおぼつかないペースで詩集『氷島』が書かれたこと自体がこの詩集の性格を語っているようです。

萩原朔太郎詩集『氷島昭和9年(1934年)6月1日・第一書房刊(外函)

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 詩集『氷島』本体表紙

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[ 雑誌・既刊詩集発表順 ]
・中學の校庭 (大正12年/1923年1月「薔薇」・大正14年8月刊『純情小曲集』収録)
・小出新道 (大正14年6月「日本詩人」・大正14年8月刊『純情小曲集』収録)
・波宜亭 (大正14年/1925年8月刊『純情小曲集』収録・初出未詳)
・廣瀬川 (大正14年8月刊『純情小曲集』収録・初出未詳)
・監獄裏の林 (大正15年/1926年4月「日本詩人」・昭和3年/1928年3月刊『萩原朔太郎詩集』収録)
・虚無の鴉 (昭和2年/1927年3月「文藝春秋」) 原題「否定せよ」
・我れの持たざるものは一切なり (「文藝春秋」同上)
・無用の書物 (昭和5年/1930年年1月「文藝春秋」) 原題副題「虚妄の正義の序詩として」
・火 (昭和5年2月「ニヒル」)
・告別 (「ニヒル」同上)
・動物園にて (「ニヒル」/同上)
・地下鐵道(さぶうえい)にて (初出未詳)
・乃木坂倶樂部 (昭和6年3月「詩・現實」) 原題「乃木坂アパートメント」
・歸郷 (「詩・現實」同上)
・家庭 (「詩・現實」同上)
珈琲店 醉月 (「詩・現實」同上)
・新年 (「詩・現實」同上)
・晩秋 (「詩・現實」同上) 原題「短唱」
・品川沖觀艦式 (「詩・現實」同上)
・漂泊者の歌 (昭和6年/1931年6月「改造」) 末尾に「一九三一・二月」と付記。
・遊園地 (るなぱあく)にて(昭和6年7月「若草」)
・殺せかし! 殺せかし! (昭和6年12月「蝋人形」)
・昨日にまさる戀しさの (昭和7年/1932年1月「古東多萬」)
・國定忠治の墓 (昭和8年/1933年6月「生理」) 末尾に「一九三三・一」と付記。
・虎 (「生理」同上)

[ 詩集収録順 ]
・漂泊者の歌 (昭和6年/1931年6月「改造」)
・遊園地 (るなぱあく)にて(昭和6年7月「若草」)
・乃木坂倶樂部 (昭和6年3月「詩・現實」)
・殺せかし! 殺せかし! (昭和6年12月「蝋人形」)
・歸郷 (昭和6年3月「詩・現實」)
・波宜亭 (大正14年/1925年8月刊『純情小曲集』収録・初出未詳)
・家庭 (昭和6年3月「詩・現實」)
珈琲店 醉月 (昭和6年3月「詩・現實」)
・新年 (昭和6年3月「詩・現實」)
・晩秋 (昭和6年3月「詩・現實」)
・品川沖觀艦式 (昭和6年3月「詩・現實」)
・火 (昭和5年/1930年2月「ニヒル」)
・地下鐵道(さぶうえい)にて (初出未詳)
・小出新道 (大正14年8月刊『純情小曲集』収録・大正14年6月「日本詩人」)
・告別 (昭和5年2月「ニヒル」)
・動物園にて (昭和5年2月「ニヒル」)
・中學の校庭 (大正14年8月刊『純情小曲集』収録・大正12年/1923年1月「薔薇」)
・國定忠治の墓 (昭和8年/1933年6月「生理」)
・廣瀬川 (大正14年8月刊『純情小曲集』収録・初出未詳)
・虎 (昭和8年6月「生理」)
・無用の書物 (昭和5年1月「文藝春秋」)
・虚無の鴉 (昭和2年/1927年3月「文藝春秋」)
・我れの持たざるものは一切なり (昭和2年3月「文藝春秋」)
・監獄裏の林 (昭和3年/1928年3月刊『萩原朔太郎詩集』収録・大正15年/1926年4月「日本詩人」)
・昨日にまさる戀しさの (昭和7年/1932年1月「古東多萬」)

(※以下次回)