英語版ウィキペディアではラオール・ウォルシュの項目に「アメリカの映画監督・俳優でアメリカ映画芸術科学協会(Academy of Motion Picture Arts and Sciences)創設者の一人、サイレント時代の映画俳優ジョージ・ウォルシュ(1889-1980)の兄。俳優としてはサイレント映画の古典『国民の創生』'15のリンカーン暗殺犯ジョン・ウィルクス・ブース役で知られ、監督作品ではジョン・ウェイン主演の『ビッグ・トレイル』'30、アイダ・ルピノとハンフリー・ボガート主演の『ハイ・シェラ』'41、そしてジェームズ・キャグニーとエドマンド・オブライエン主演の『白熱』'49で知られる。1964年の監督作品をもって引退した」とあります。1989年より施行された映画フィルム保存法によるアメリカ国立フィルム登録簿に現時点では『リゼネレーション(更生)』'15(2000年度登録)、『バグダッドの盗賊』'24(1996年度登録)、『ビッグ・トレイル』(2006年度登録)、『白熱』'49(2003年度登録)の4作が永久保存文化財作品として選出されており、ウォルシュより後輩になるジョン・フォード、ハワード・ホークスより少ないのは評価の立ち後れを感じますが、上記4作を取ってみても35年あまりの開きを置いて里程標的作品と認められた作品があるのは、移り変わりの激しかった当時の映画界でも稀有なことになります。特に『白熱』は初公開時にヒットしたのみならず映画界と観客が世代交替するにつれ評価が高まり、製作から70年近く経った現在では数あるウォルシュの中でも突出した人気を誇る作品です。138本、うち長編映画だけでも100本以上あり、1913年の監督デビューから1964年の引退作品まで50年を越えるキャリアも歴代の映画監督ではトップクラスの業績ですが、ウォルシュ作品の全容はまだ評価の途上にあり、上記の著名作以外にも今後代表作に上がってくる作品もあると思われます(『リゼネレーション』は'70年代後半にプリントが発見されるまで散佚作品とされていましたし、サイレント期や'30年代にはプリントの所在不明、または部分欠損している作品が多数あります)が、1949年の『白熱』『死の谷』の2作はウォルシュの全作品中でも1941年の4作『ハイ・シェラ』『いちごブロンド』『壮烈第七騎兵隊』『大雷雨』と並ぶ高峰と言えるでしょう。この時点で監督歴が35年を越えた大ヴェテランの作品とは思えないほど、第二次世界大戦後のアメリカ映画でも戦後世代の新進監督に互して若々しい作風を示したのが『白熱』『死の谷』です。今回この2作のリンクを引いたYou Tubeは無料視聴の上に英語字幕自動生成機能もありますので、ヒアリングが困難な場合でも大体の会話は追えますからぜひご利用下さい。
●11月16日(木)
『白熱』White Heat (ワーナー'49)*113min, B/W; 日本公開1952年(昭和27年)12月/アメリカ国立フィルム登録簿登録作品(2003年度) : https://youtu.be/VNJQldHBntE (Full Movie)
(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] ヴァージニア・ケロッグのストーリーから「艦長ホレーショ」のアイヴァン・ゴッフとベン・ロバーツが共同で脚色したギャング映画1949年作品で製作ルイス・エデルマン、監督は「艦長ホレーショ」のラウール・ウォルシュである。撮影は「死の谷」のシド・ヒコックス、音楽は「風と共に去りぬ」のマクス・スタイナーの担当。主演は「キャグニーの新聞記者」のジェームズ・キャグニーと「艦長ホレーショ」のヴァージニア・メイヨ、「拳銃無情」のエドモンド・オブライエンで、以下「明日なき男」のスティーヴ・コクラン、「月世界征服(1950)」のジョン・アーチャーらが助演する。
[ あらすじ ] 凶悪殺人ギャングのコディ・ジャレツ(ジェームズ・キャグニー)は、一味と共に財務省の郵便馬車を襲って現金30万ドルを強奪した後、母(マーガレット・ウィチャリー)と妻ヴェルナ(ヴァージニア・メイヨ)の待つ山のかくれ家に逃げ、官憲迫ると見て、瀕死の部下だけを残して逃亡した。Tメン(財務省防犯課)はこの事件をコディ一味の仕業と推定、ひそかに内定を進めた末、課長エヴァンス(ジョン・アーチャー)はロサンゼルスのホテルにひそむ一味を発見したが逃げられてしまった。コディは捜査を免れるためイリノイのホテルを強盗して自首して出た。官憲はその裏を察して望み通り投獄した上、課員のハンク・ファロン(エドモンド・オブライエン)を同じ監房に潜入させた。一方ヴェルナは、夫が獄入りしたのを待ちかねて一味のビッグ・エド(スティーヴ・コクラン)と通じ、エドは獄中の手下に連絡してコディをひそかに亡き者にしようと図った。この計画はハンクの機敏な働きで未遂に終わったが、そのためコディはすっかりハンクを信頼するようになった。ハンクはコディに脱獄をそそのかし、一味の本拠を突き止める計略をたてた。ところがコディは新来の受刑者から母が死んだことを聞いた途端、持病の神経性発作に襲われて病室行きの身となったので、ハンクから連絡を受けたTメンは全員引き揚げてしまった。一方病室へ入ったコディは医者を脅迫しつつ信頼するハンクらを引き連れてみごと脱獄してのけた。一行はエドとヴェルナのひそむ山小屋に辿りつき、コディは母の仇とばかりエドを殺害した。ハンクは一味の重要人物になり上がっていったが、官憲に通報する暇もないまま、コディと共にロング・ビーチの大化学工場を襲うことになった。彼はラジオ部品をトラックに装置し、警官を誘導して工場に入った。金庫焼き切りの現場でハンクは財務省のイヌであることを見破られてしまったが、やっと警官の元へ逃れ、唯一人石油の大タンクに逃げ昇ったコディは、大爆発と共に散っていった。
邦題『白熱』は今日のセンスならば原題のまま『ホワイト・ヒート』、未公開映画のまま'70年代にテレビの深夜放映になればさらに副題に「~壮絶!マザコンギャングの逆襲~」とでも付けられたかもしれませんが(当時のテレビ放映の外国映画の邦題は滅茶苦茶でした)、『White Heat』というと同時代のニューヨークの画家、ジャクソン・ポロックの『The White Light』(オーネット・コールマンのアルバム『Free Jazz』'60のジャケット・アートに転用された例の絵です)と対になってヴェルヴェット・アンダーグラウンドのセカンド・アルバム『White Light / White Heat』'68が連想されますし、フィルム・ノワール作品からアルバム・タイトル、バンド名を採るのは同作以降ニューヨークのアンダーグラウンド・シーンのロックバンドの慣習になりました。そうした余波は抜きにしても、細部には製作年代の事情を反映していますが(犯人の逃走する車に付けた発信機からの位置特定が、通信衛星のない時代なので地上から2台のパトカーによる2点からの電波捜索で行われる、など)それも時代相の描写としてスリリングに描かれているので、現在1949年を舞台にしたギャング映画を企画しても本作に迫る作品は容易に作れないでしょう。当時新進監督だったジョセフ・ロージー、ロバート・ロッセン、ニコラス・レイ、サミュエル・フラー、バッド・ベティカーらの作品は様式性を壊した激しい感情の発露でハリウッド映画の変質を告げるものでしたが、本作『白熱』はそれら新しいアメリカ映画の傾向にあってももっとも鋭く斬新な爆発的ムードに満ちており、名前を伏せられれば新進気鋭の監督のものした画期的傑作と騒然となるような作品でした。ワーナーのスター俳優ジェームズ・キャグニー(1899-1986)はハンフリー・ボガートと同年生まれですが、舞台俳優やヴォードヴィリアンを経てトーキー化の進んだ1930年にワーナーと契約、トーキー初期・ギャング映画ブームの3大傑作の一つと言われたウィリアム・ウェルマン作品『民衆の敵』'31(後の2作はE・G・ロビンソン主演のマーヴィン・ルロイ監督作品『犯罪王リコ』'30、ポール・ムニ主演のハワード・ホークス監督作品『暗黒街の顔役』'32)で一躍スターになります。キャグニー、ロビンソン、ムニといい当時の悪役スターはみんな小柄でした。キャグニーは多芸多才な俳優だったのでシェークスピア劇の映画化作品『真夏の夜の夢』'35、西部劇『オクラホマ・キッド』'39、人情歌謡映画『いちごブロンド』'41、アカデミー賞主演男優賞を受賞した伝記ミュージカル『ヤンキー・ドゥードゥル・ダンディ』'42などで人気を博す一方、ギャング映画の主演でもマイケル・カーティス作品『汚れた顔の天使』'38、ウォルシュの『彼奴は顔役だ!』'39(ロバート・ロッセン脚本)でも助演時代のハンフリー・ボガートと共演しています。'40年代のキャグニーは主演俳優に昇格したボガートの人気に水を開けられていきますが、ひさしぶりにギャング映画でウォルシュと組んだ『白熱』はキャグニーみずから脚本の改稿にアイディアを出した力作になりました。マザーコンプレックスで精神障害者の遺伝を持った凶悪なギャングが母親を仲間に殺され、復讐のために脱獄し、ついには石油タンクに火を放って爆死する壮絶なキャラクター設定はキャグニー自身によるもので、刑務所の大食堂で食事中に母親の死の報を知り狂乱状態に陥るシーンなどは服役囚役の数百人のエキストラには事前に何も知らされていなかったため、本当にキャグニーが発狂したと思ったエキストラの大群が凍りついた、というエピソードを残した凄まじい場面になっています。全編の緊張感と冷たい残虐描写で本作は、旧来のギャング映画やフィルム・ノワール作品を超えたニューロティックな陰惨さで'60年代~'90年代のアメリカのヴァイオレンス映画を先取りした面があり、時代が下るに連れた評価の高まりはその先駆性と、革新性に由来した実験的ですらある生々しさがかもし出す現代性によると言えるでしょう。ウォルシュの前作『特攻戦闘機中隊』'48で第二次世界大戦中のエース・パイロットを主演し、映画ともどもぱっとしなかったエドマンド・オブライエンも敏腕潜入捜査官役で見違えるような好演を見せており、キャグニーの妻を演じるヴァージニア・メイヨと通じて服役中のボスの座を奪い、脱獄したキャグニーに惨殺されるギャング団No.2のスティーヴ・コクランは、後にイタリアでアントニオーニの突然変異的な衝撃的作品『さすらい』'57の主役の孤独な放浪者に起用されます。10年前だったらコクランの役はハンフリー・ボガートの役どころだったでしょう。キャグニー服役中にコクランとの仲を感づかれメイヨに殺される(キャグニーはコクランの仕業と思い込む)キャグニーのママ役のマーガレット・ウィチャリーの口癖は「お前は世界一におなり」で、映画のラストで追い詰められたキャグニーは「ママ、おれは世界一だ!」と叫んで石油タンクに放火し自爆しますが、その光景にオブライエンと防犯警察上司が「本当に世界一派手に死にやがった」と交わす会話がいかしています。類似した先例がないでもありませんが、多くの後続の犯罪映画が悪党の自爆で終わるのは本作の直接・間接の影響が大きいでしょう。残念ながらこの自爆シーンはカット割りがいまいちアイディアを生かしきっておらず、ゴダール1965年の例の傑作を知る後世の観客には惜しい、と思わずにはいられませんが、ウォルシュの映像技法は師のグリフィスから学んでフォード、ホークスらアメリカの主流映画の基本的な客観的視点の遠近法と切り返しでカットを構成する文体が基本なので、ヒッチコックやオーソン・ウェルズが開発したような視点人物の主観ショットと客観的ショットの交錯で距離感を自在に操作し強い臨場感を高める手法は使わない監督です。前記の戦後監督たちはヒッチコック、ウェルズらの文体革新を踏襲しており、それが古典的映画文法を固持したウォルシュとの違いですが、本作ほどの強烈な内容であれば『白熱』を技法をもって古いタイプの映画とするとは言えず、一触即発の迫力を充満させた総合的な成功を達成しているからには紛れもなく戦後映画の傑作と呼ぶに足る出来ばえです。思い残すところがあるとすればこれもウォルシュの大傑作である『壮烈第七騎兵隊』'41のようにユーモアと壮絶さが同居して渾然一体となった味わいが、本作と『死の谷』ではニヒリズムと紙一重のブラック・ユーモアこそあれウォルシュの一面の魅力である大らかなユーモアが見られない点ですが(キャグニー主演のウォルシュのギャング映画でも『彼奴は顔役だ!』にはそれがありました)、これはそれぞれの作品のカラーであり無い物ねだりというものでしょう。また本作でウォルシュ=キャグニーが作り上げた狂気の犯罪者像は後にあまりにも多くの類似作を生んだので損をしている面もあります。その意味では、本作をより新鮮に観ることのできた当時の観客が羨ましくなるような作品でもあるともいえるでしょう。
●11月17日(金)
『死の谷』Colorado Territory (ワーナー'49)*94min, B/W; 日本公開1950年(昭和25年)5月 : https://youtu.be/owHzelPbnX8 (Full Movie)
(キネマ旬報近着映画紹介より、一部加筆訂正)
[ 解説 ] お尋ね者とあばずれ女の悲恋を描く西部劇。ジョン・トゥイストとエドモンド・H・ノースの原作の映画化で、脚本はトゥイストとノースが執筆。製作はアンソニー・ヴェイラー、監督はラウール・ウォルシュ撮影はシド・ヒコックス、音楽はデイヴィッド・バトルフ、編集はオウエン・マークスが担当。出演はジョエル・マクリー、ヴァージニア・メイヨ、ドロシー・マローン、ヘンリー・ハル、ジョン・アーチャーなど。
[ あらすじ ] 1870年代、中西部のコロラド。ともに裏街道を生きる牢破りのお尋ね者ウェス(ジョエル・マクリー)とあばずれ女コロラド(ヴァージニア・メイヨ)が不幸な絆ゆえに結ばれた。2人は誰ひとり祝福してくれる者もない荒野の結婚式に束の間の幸せを感じ、絶望の中にも一筋の希望を見出すが、万策尽きて抱き合いながらシェリフの銃弾に倒れるのだった。
(英語版ウィキペディアによる)
本作は同じウォルシュの監督によるハンフリー・ボガート主演の1941年の犯罪映画『ハイ・シェラ』のリメイクであり、同じ原作小説に拠りながら銀行強盗を西部劇の列車強盗に置き換えたもので、同作にはまた3度目のリメイクでジャック・パランス、シェリー・ウィンタース主演の1955年度作品『俺が犯人(ホシ)だ!』(監督=スチュアート・ヘイスラー)がある。
○あらすじ 悪名高い無法者ウェス・マックイーン(ジョエル・マクリー)は、脱獄の手引きをしてくれた旧友でボスのデイヴ・リッカード(ベイジル・ルイスダール)の住むコロラド州へ向かう途中、乗った馬車が強盗団に襲撃される。運転手と警備員は殺されたが、マックイーンは強盗団を撃退して同乗していた移住者フレッド・ウィンスロー(ヘンリー・ハル)と娘ジュリー・アン(ドロシー・マローン)に感謝される。ウィンスローはまだ見ぬ牧場を買っており、新しい生活を楽しみにしていた。マックイーンはゴースト・タウンのトードス・サントスに着き、次の仕事仲間リノ・ブレイク(ジョン・アーチャー)とデューク・ハリス(ジェームズ・ミッチェル)、そしてリノが拾ってきたインディアンの混血の女、コロラド・カーソン(ヴァージニア・メイヨ)と合流する。マックイーンは彼らを気に食わず、近くに住む病床のリッカードに会い、最後の大きな列車強盗が済んだら足を洗いたいと頼む。リッカードはリノとデューク、元私立探偵で情報提供者のプルースナー(ハリー・ウッズ)、鉄道車掌のウォレス(イアン・ウルフ)を列車強盗のチームにするが、マックイーンは不信感を抱きながらも協力的に加わることに同意する。計画実行までの間、レノとデュークの争いの種にならないようにマックイーンはコロラドに常時つき添うことにした。コロラドはマックイーンを愛するようになったが、マックイーンはジュリー・アンと結婚して落ち着く希望を抱いていた。マックイーンはウィンスローの牧場を訪ねて、乾いて土の痩せたひどい土地なのを知る。ウィンスロー父娘はマックイーンとの再会を喜んだがジュリー・アンは貧困な生活を嘆き、娘が席を外した間にウィンスローはマックイーンにジュリー・アンが東部に住む裕福な男、ランドルフとの結婚を夢見ていると知らせる。ウィンスローが娘をランドルフから引き離したのはランドルフが地元の同じ階級の女としか結婚するつもりのない男だったからだった。マックイーンは父親の話を聞いてもジュリー・アンとの結婚の意志を変えなかった。 ――そして強盗計画当日、疑いの消えないマックイーンはウォレスの妻に噂話をするふりをして、ウォレスが報酬金のために裏切ったことを知る。汽車は出発し、マックイーンは走行中の列車から保安官とウォレスの乗った後部車両を切り離す。リノとデュークもプルースナーの企みでマックイーンを裏切る予定だったが、マックイーンは先回りして二人を手錠で縛り上げ、列車を脱出してリッカードの家に着くが、死んだリッカードの傍らにプルースナーが待っていた。プルースナーからの折半しようという要求をマックイーンは断り、すかさず銃撃してきたプルースナーをマックイーンは倒すが肩に銃弾を受ける。負傷したマックイーンはコロラドとともにウィンスロー牧場に向かい、マックイーンは自分の正体を明かすが、ウィンスローの親愛の情は変わらずコロラドがマックイーンの肩から銃弾を摘出する手助けをする。やがて保安官がお尋ね者のマックイーンを訊いて回りに立ち寄り、ウィンスローはとぼけてやりすごしたが、隠れているマックイーンの耳にジュリー・アンが懸賞金の2万ドルのために保安官を呼び戻そうとして、父ウィンスローが娘を叱る声が聞こえる。マックイーンはコロラドとともにウィンスローに別れを告げ、本当に愛する相手はコロラドと気づいて結婚を申し込む。トードス・サントスの教会でメキシコでの挙式を勧められた二人は別々にメキシコに逃れて落ち合い結婚する約束をし、コロラドに強奪金を託したマックイーンは一人で荒れ地の彼方の国境へと向かう。教会の献金箱に金を隠したコロラドは後から向かうが、マックイーンは保安官の一行の追跡でインディアン居住区跡地に追い詰められていた。コロラドもその後を追って、ついにマックイーンが追い込まれた死の谷に到着するが、保安官はコロラドを利用して、断崖の上に回った狙撃手が狙えるようにマックイーンをおびき出す計略を立てる。わざと隙を見せてコロラドに銃と馬を奪わせ、コロラドは2丁の拳銃と2頭の馬を連れてマックイーンに向かって歩き出す。岩壁に「コロラドは無実だ」と文字を刻んでいたマックイーンはコロラドの呼び声に気づき、洞から出て走り寄ろうとして断崖の上から狙撃され、コロラドの反撃も空しく、駆け寄った二人に容赦なく保安官たちの銃撃が浴びせられ、マックイーンとコロラドは手を握りあったまま斃れた。その頃、トードス・サントスの教会ではメキシコに旅立った幸福な若夫婦を祝福する信徒たちの姿があった。
本作はなぜかキネマ旬報の記録が極端に簡略なので英語版ウィキペディアの解説文から抄訳を併載しました。映画のクレジットには原作者の名前がなくオリジナル脚本扱いのクレジットロールになっていますが、原作はそのまま『ハイ・シェラ』としてワーナーが映画化していますから、同じ原作小説で西部劇というのでは混乱を招くことからそれなりに再映画化に際しての仁義を通して作者もノンクレジットを了解したのでしょう。アイダ・ルピノとハンフリー・ボガート主演の現代の銀行強盗犯罪映画『ハイ・シェラ』と、ヴァージニア・メイヨとジョエル・マクリー主演の列車強盗の西部劇映画『死の谷』、監督も同じラオール・ウォルシュで8年置いてのリメイクです。前作『白熱』からしばらくウォルシュ作品のヒロインはメイヨになりますが、メイヨは戦時中に健康的なセクシーさが売り物の、どちらかといえばコメディエンヌ的な役柄でデビューした女優で、『白熱』や本作での起用は演技派女優への転向の意味もあったと思われます。顔立ちも美女というよりは日本的に言えばおかめ顔といったところで、ハリウッド映画のヨーロッパ的な美女の系列には入らない女優でしょう。『白熱』では尻軽女っぽさはよく出ていたと思いますが、ギャングのボスの妻らしい貫禄にはどうにも欠けたので役柄の割に見せ場も少なかったのだと推察されます。ところが本作のインディアンと白人の混血娘の孤児を演じるメイヨは見違えんばかりに清純で情熱的な美しさを放っています(キネマ旬報の「あばずれ女」は間違いで、そんなズベ公みたいな女ではない、純情一徹な女です)。さすがにスタイルは素晴らしいので現代女性の服装よりももっと素朴に女らしさを強調した西部劇の衣装の方がプロポーションが際立つのもありますが、本作でメイヨが演じるキャラクターが日本人好みの「愛する男が振り向いてくれるのを待つ女」というのもあるでしょう。本作は1950年(昭和25年)日本公開ながら'60年代初頭にも日本でリヴァイヴァル公開されて新作以上のロングラン・ヒットを記録したそうですが、それもメイヨの魅力が大きかったのだろうと思います。『ハイ・シェラ』'41の日本公開が昭和63年(1988年)になったのは日米開戦の年の作品だったからでもありますが、同年のウォルシュ作品『いちごブロンド』『壮烈第七騎兵隊』『大雷雨』が戦後間もない昭和20年代に日本公開され、本作もアメリカ本国公開の翌年に日本公開されているのに『ハイ・シェラ』だけが長く未公開作品になっていたのは昭和20年代には犯罪映画の現代劇で犯罪者に同情的な描き方がGHQの検閲で撥ねられたこと、昭和30年代には大スターのハンフリー・ボガートのイメージにそぐわないこと、昭和40~50年代には古い映画で興行価値がないと見なされてしまったこと、などで、日本未公開の幻の名作に光が当てられるようになった'80年代後半にようやく映像ソフト化も見込んで日本公開が実現したのでしょう。『ハイ・シェラ』のリメイク『俺が犯人(ホシ)だ!』'55は即座に日本公開されているほどですから、よくよく運が悪かったわけです。『ハイ・シェラ』と本作はかわるがわる観るたびどちらが良いか悩ましい名作ですが、主演俳優の格から言えばどうしても『ハイ・シェラ』に軍配が上がります。それでも全編に溢れる情感の深さでは『死の谷』の濃密さが圧倒的で、どちらが原作に忠実かわかりませんが主人公が恋い焦がれた女に裏切られる、『ハイ・シェラ』では難病の少女が手術に成功するとコロリと軽薄な男に転んでいたわけですが、『死の谷』では匿われていた家に保安官が来ると懸賞金目当てに主人公を売ろうとする、それだけでも主人公の痛切な思いに大きな軽重の差が表れます。また『ハイ・シェラ』の結末の犬の役割がいかにも出来すぎていて生き残ったルピノの感動的なラスト・カットと相殺されていること、『死の谷』の衝撃的なマクリーとメイヨの死(結びあった手と手のミドル・ショットの感動)などまったく同一の原作からこの2作ほど豊かなヴァリアントを作り出した(脚本レベルではなく演出そのものも)のはウォルシュがいかに広い表現力を持った監督か感嘆するばかりです。フィルム・ノワールの名手スチュアート・ヘイスラー監督の『俺が犯人(ホシ)だ!』は未見ですが、展開、演出、カット割りまで『ハイ・シェラ』の忠実な再映画化とのことです。最後に主人公(ボガート、マクリー)が追い詰められる「ハイ・シェラ」「死の谷」を比較すると『ハイ・シェラ』の方がとんでもない岩山の凄さが出ていて、違いを意図したか単に予算不足のロケ地だったか『死の谷』の岩山はチャチく、鉄筋8階建てマンションと木造2階建てアパートほどの差があり、その替わり銀行の金庫破りがチャチい『ハイ・シェラ』に較べ『死の谷』は大がかりな見せ場たっぷりの列車強盗で映画の予算配分も大変だと思いますが、アメリカ本国での評価では先にボギー初主演作『ハイ・シェラ』があるせいで『死の谷』が割りを食っているのは想像に難くありません。「ラオール・ウォルシュは『バワリー』と『いちごブロンド』と『懐しのアリゾナ』だけでも首ったけなのにこの『死の谷』のすばらしさは私を卒倒させた」(『映画となると話はどこからでも始まる』勁文社'85)と淀川長治さんは書いておられます。淀川氏を卒倒させた映画というだけでも、本作は避けて通れない一本ではありませんか。