人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

三好達治詩集『測量船』(昭和5年=1930年刊)と明治・大正・昭和の散文詩

(詩集『測量船』第一書房昭和5年=1930年12月刊)
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「鴉」 三好達治


 風の早い曇り空に太陽のありかも解らない日の、人けない一すぢの道の上に私は涯しない野原をさまようてゐた。風は四方の地平から私を呼び、私の袖を捉へ裾をめぐり、そしてまたその荒まじい叫び声をどこかへ消してしまふ。その時私はふと枯草の上に捨てられてある一枚の黒い上衣を見つけた。私はまたどこからともなく私に呼びかける声を聞いた。

 ――とまれ!

 私は立ちどまつて周囲に声のありかを探した。私は恐怖を感じた。

 ――お前の着物を脱げ!

 恐怖の中に私は羞恥と微かな憤りを感じながら、余儀なくその命令の言葉に従つた。するとその声はなほ冷やかに、

 ――裸になれ! その上衣を拾つて着よ!

 と、もはや抵抗しがたい威厳を帯びて、草の間から私に命じた。私は惨めな姿に上衣を羽織つて風の中に曝されてゐた。私の心は敗北に用意をした。

 ――飛べ!

 しかし何といふ奇異な、思ひがけない言葉であらう。私は自分の手足を顧みた。手は長い翼になつて両腋に畳まれ、鱗をならべた足は三本の指で石ころを踏んでゐた。私の心はまた服従の用意をした。

 ――飛べ!

 私は促されて土を蹴つた。私の心は急に怒りに満ち溢れ、鋭い悲哀に貫かれて、ただひたすらにこの屈辱の地をあとに、あてもなく一直線に翔(かけ)つていつた。感情が感情に鞭うち、意志が意志に鞭うちながら――。私は永い時間を飛んでゐた。そしてもはや今、あの惨めな敗北からは遠く飛び去つて、翼には疲労を感じ、私の敗北の祝福さるべき希望の空を夢みてゐた。それだのに、ああ! なほその時私の耳に近く聞えたのは、あの執拗な命令の声ではなかつたか。

 ――啼け!

 おお、今こそ私は啼くであらう。

 ――啼け!
 ――よろしい、私は啼く。

 そして、啼きながら私は飛んでゐた。飛びながら私は啼いてゐた。

 ――ああ、ああ、ああ、ああ、
 ――ああ、ああ、ああ、ああ、

 風が吹いてゐた。その風に秋が木葉をまくやうに私は言葉を撒いてゐた。冷めたいものがしきりに頬を流れてゐた。

(「詩と詩論」昭和4年12月・詩集『測量船』昭和5年=1930年12月刊収録)

 今回は明治末~昭和初頭の散文詩を取り上げます。日本の現代詩史で散文詩の主流となるスタイルを確立したのは三好達治(明治33年=1900年生~昭和39年=1964年没)の『測量船』(昭和5年=1930年12月刊)と言ってもよく、『測量船』までの三好達治モダニズムの詩人ながら「鴉」はモダニズムにとどまらずダイナミックな訴求力と自虐的な内省性があり、これが日本の口語散文詩の主流のスタイルになったのもうなずける名篇です。しかし今回注意したいのはむしろ傍流だからこそ可能性を秘めていた詩人たちの系譜です。それには以前ご紹介した山村暮鳥の驚異的な散文詩「A' FUTUR」(大正3年=1914年5月)や祝算之助の「町医」(昭和22年=1947年)も含まれますが、まず見てみたいのは、海水浴中に溺れた友人を助けようとして溺死し短い生涯を終えた悲運の詩人、三富朽葉(明治22年=1889年生~大正6年=1917年没)の散文詩で、日本の現代詩ではもっとも早い口語散文詩の成果と言えるものです。朽葉は生前刊行詩集がなく、没後10年近く経って刊行された全集『三富朽葉詩集』(大正15年=1926年10月刊)の大半は未発表作品と日記・書簡・翻訳で占められていました。三好が『測量船』時代までに所属していた昭和初頭のモダニズム詩誌「詩と詩論」主宰者の春山行夫も、朽葉を大正時代までの現代詩で唯一の自覚的詩論を持った詩人と評価し、中原中也は日記に「日本に詩人は5人しか居ない」と岩野泡鳴、佐藤春夫、朽葉、高橋新吉宮澤賢治の5人を上げています。朽葉は日本初の口語訳によるボードレールランボーマラルメの翻訳者でもありました。

「魂の夜」 三富朽葉

 もはや秋となつた。やがて此の明るい風物に続いて、鴉の群が黒い霧のやうに灰色の空を飛び散る、鬱陶しい冬が来るであらう。
 四季と群集との中にあつて、脆く苦い、また物怯ぢする私の生命をば運命は異様に麗しく飾つた。私は常に感性の谷間(たにあひ)を彷徨(さまよ)つて空気から咽喉(のど)へ濃い渇きを吸つた。又、夢魔に圧(うな)されるやうな私のか碧い生活の淵にも、時々幽妙な光りが白んで煌いた。幽玄と酷薄との海に溺れて、私の紅い祈祷と生命の秘鍵とは永遠に沈み入るであらう。
 秋の夜の長い疲労の後、私は眠られぬまま、とりとめのない、やや熱に浮かされたやうな物思ひに耽つてゐた。

 私は何処とも知れぬ丘の上に、ゆるやかなマントオに身を包ませて、土塗れのまま横たはつてゐる。眼の上には一旋の黒い旗がどんよりと懸かつてゐて、その旗は夏の白日(まひる)の太陽の耀くやうに烈しく私の額を照らした。

 私は薄ら明りの高窓から海底のやうな外を覗いた。遠方にもう夜が静かに紅い翅を伸(の)し広げ、蒼い瞳を見開いてゐる。私の唯一の宝はおもむろに彼方の夜の中に掻き消えてしまつた。

 泉の周辺(ほとり)に色や匂ひが一杯に溢れてゐる。その傍(かたはら)を獣(けだもの)は一匹ずつ、ひとは一人ずつ、長い間(ま)を置いて走る。獣は光りの如く飛び、人は悲鳴を挙げた。いつまで見てゐても影は一つづつであつた。

 私は何といふこともなく涙を落とした。そして《愛》に対する消し難い悲嘆に襲はれた。

 眼が覚めると、もう朝であつた!雨の音と、そして、例えば牢獄(ひとや)の中へ僅かに射し入るやうな薄白い光線とが取り乱した身の周囲(まはり)に雫(こぼ)れてゐる……

(推定明治44~45年=1911~12年執筆、生前未発表・『三富朽葉詩集』大正15年=1926年10月刊収録)

 中原の年長の親友(もっとも中原は晩年に絶交されましたが)だった夭逝詩人、富水太郎(明治34年=1901年生~大正14年=1925年没)にも『三富朽葉詩集』の刊行前に、類似した題材の散文詩があります。当然、富永は当時未発表だった三富朽葉散文詩を読む機会はありませんでした。これは結核で夭逝した富永太郎の、没後発表の絶筆となった遺作でもあります。

「秋の悲歎」 富永太郎


 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。
 私はたゞ微かに煙を挙げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の頸に、私は千の静かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅(あかゞね)色の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光沢のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き乱してくれるな。
 私は炊煙の立ち騰る都会を夢みはしない――土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都会などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る残虐が常に私の習ひであつた……
 夕暮、私は立ち去つたかの女の残像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞ひだを、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状体に触れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか? 私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空気を憎まうか?
 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ点検しないで済む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ――金属や蜘蛛の巣や瞳孔の栄える、あらゆる悲惨の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の斜面に身を委せよう。それといつも変らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう……私は私自身を救助しよう。

(大正13年1924年12月「山繭・創刊号」・『富永太郎詩集』昭和2年=1927年8月刊収録)


 三富朽葉の「魂の夜」、富永太郎「秋の悲歎」がともに、フランスの象徴派詩人ステファヌ・マラルメ(1842-1898)の散文詩「秋の嘆き」(雑誌発表1864年、単行本収録1896年。鈴木信太郎訳「マリアが私を棄てて、他の星に往ってから、――どの星だらう、オリオンか、牽牛星(アルタイル)か、それとも緑の金星(ヴエニユス)、お前かな――私はいつも孤独を愛した。猫と共に、唯一人、暮らし果たした永い永い尽日終夜」下略)と、アルチュール・ランボー(1854-1891)の散文詩集『地獄の季節』(執筆1873年、発表1886年)の最終編「別れ」(小林秀雄訳「もう秋か。――それにしても、何故、永遠の太陽を惜しむのか、俺達はきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか。――季節の上に死滅する人々からは遠く離れて」下略)を発想の源にしているのは明らかですが(朽葉はマラルメの同作を翻訳してもいました)、それだけではなく朽葉と富水には伝記的にも偶然に符合する共通した生活体験がありました。ともに富裕家庭の出身ながら金融業者の子息として生まれたコンプレックスを持ち、朽葉は夫人の出奔による結婚生活の破局があり、富永は既婚者の恋人との成就しない恋愛がありましたが、その体験の共通性と微妙な差が「魂の夜」と「秋の悲歎」の違いに表れているようです。

 富水太郎が病没した直後、富永の友人たちが創刊した同人誌「山繭」に参加を勧誘された詩人が当時大学生だった瀧口修造(明治36年1903年生~昭和54年=1979年没)でした。もっとも瀧口は「山繭」の同人仲間でも富水の親友だった中原中也小林秀雄とは親しくならず、すぐに「山繭」から離れました。それは「山繭」に参加して間もなく発表された次の散文詩の作風からでもわかります。

「冬眠」 瀧口修造

 地面が作業をやめて、美しい空洞を見出した。彼女はここに住んで人間の華やかな網状体に驚嘆した。
 ――間もなく正午の太陽が現はれる。

 スペクトラムを片手に、メソッドを講ずる土龍が、先ず自らの露に光つた肉体に驚き、墓堀人に泣きついた。

 樟脳糖が痩せ細つてゆくと、見知らぬ動物の息づかいが苦しくなる。唯、怠堕な造花のみが明るくなる。いよいよ寒い明方がくる兆候であつて、繁みの中の梟は、そのからだがますます黒くなる。

 人間は冬眠を欲して、青い海をぢつと見てゐる。
 急に荒ら荒らしくなり、生ま生ましい無数の夕刊紙を、真赤な種子のごとくに、曙がやつてくる谷底めがけて撒き散らす。

(昭和2年=1927年1月「山繭」・詩集未収録)


 瀧口はまもなく日本のシュルレアリスム詩人として頭角を現し、三好達治と入れ替わるようにモダニズム詩誌「詩と詩論」の中心詩人と見なされるようになります。ですが、その散文詩は三好が「詩と詩論」に発表した『測量船』(昭和5年=1930年刊)収録の散文詩とはまったく異質なものでした。

「絶対への接吻」 瀧口修造

 ぼくの黄金の爪の内部の瀧の飛沫に濡れた客間に襲来するひとりの純粋直観の女性。 彼女の指の上に光つた金剛石が狩猟者に踏みこまれていたか否かをぼくは問はない。 彼女の水平であり同時に垂直である乳房は飽和した秤器のやうな衣服に包まれてゐる。 蝋の国の天災を、彼女の仄かな髭が物語る。 彼女は時間を燃焼しつつある口紅の鏡玉の前後左右を動いてゐる。 人称の秘密。 時の感覚。 おお時間の痕跡はぼくの正六面体の室内を雪のやうに激変せしめる。 すべり落された貂の毛皮のなかに発生する光の寝台。 彼女の気絶は永遠の卵形をなしてゐる。 水陸混同の美しい遊戯は間もなく終焉に近づくだろう。 乾燥した星が朝食の皿で轟々と音を立てているだらう。 海の要素等がやがて本棚のなかへ忍びこんでしまうだらう。 やがて三直線からなる海が、ぼくの掌のなかで疾駆するだらう。 彼女の総体は、賽の目のやうに、あるときは白に、あるときは紫に変化する。 空の交接。 瞳のなかの蟹の声、戸棚のなかの虹。 彼女の腕の中間部は、存在しない。 彼女が、美神のやうに、浸蝕されるのはひとつの瞬間のみである。 彼女は熱風のなかの熱、鉄のなかの鉄。 しかし灰のなかの鳥類である彼女の歌。 彼女の首府にひとでが流れる。 彼女の彎曲部はレヴィアタンである。 彼女の胴は、相違の原野で、水銀の墓標が妊娠する焔の手紙、それは雲のあいだのやうに陰毛のあいだにある白昼ひとつの白昼の水準器である。 彼女の暴風。 彼女の伝説。 彼女の営養。 彼女の靴下。 彼女の確証。 彼女の卵巣。 彼女の視覚。 彼女の意味。 彼女の犬歯。 無数の実例の出現は空から落下する無垢の飾窓のなかで偶然の遊戯をして遊ぶ。 コーンドビーフの虹色の火花。 チーズの鏡の公有権。 婦人帽の死。 パンのなかの希臘神殿の群れ。 霊魂の喧騒が死ぬとき、すべての物質は飽和した鞄を携へて旅行するだらうか誰がそれに答えることができよう。 彼女の精液のなかの真紅の星は不可溶性である。 風が彼女の緑色の衣服(それは古い奇蹟のやうにぼくの記憶をよびおこす)を捕えたやうに、空間は緑色の花であつた。 彼女の判断は時間のやうな痕跡をぼくの唇の上に残してゆく。 なぜそれが恋であったのか? 青い襟の支那人が扉を叩いたとき、単純に無名の無知がぼくの指を引つぱつた。 すべては氾濫してゐた。 すべては歌つてゐた。 無上の歓喜は未踏地の茶殻の上で夜光虫のやうに光つてゐた……… (sans date)

(昭和6年=1931年9月「詩と詩論」・詩集『瀧口修造の詩的実験 1927~1937』昭和42年=1967年12月刊収録)

(旧稿を改題・手直ししました)