フランソワ・トリュフォーによるロング・インタビュー(というより監督対談)でヒッチコックはトリュフォーと「文学作品の傑作の映画化は無意味だからやらない、たとえば『罪と罰』とか」と意見が合って盛り上がっていますが、本音かよトリュフォーというのはさておいて、ヒッチコックの映画で唯一傑作とまでいかずとも正真正銘本物の文学作品を映画化したのは今回俎上に乗せる『サボタージュ』だけではないでしょうか。前作がサマーセット・モーム原作の準文学作品の映画化(というより、それを原作にした舞台劇の映画化)『間諜最後の日』だったので、第19作の同作までにヒッチコックは舞台劇の映画化作品が半数あまりの10作あり、これはジャズマンが映画主題曲や流行歌をジャズ化してスタンダードにしたように、というよりもイギリス人の演劇好きを思うとテレビドラマの人気作を映画化していたようなものだったと思いますが、ヒッチコックのような監督にはそれはあまり面白くなかったようで、実際イギリス時代の自作で監督本人が好きな自作に上げているのは舞台劇の映画化ではない作品が多いのです。脚本家のチャールズ・ベネットと討議しながらシナリオを作る作業はヒッチコックにはもっともやりやすくアイディアの沸くやり方だったようで、『サボタージュ』と続く『第3逃亡者』も『暗殺者の家』『三十九夜』『間諜最後の日』と連なる好調なヒッチコックの才気煥発な好作になっています。そして『第3逃亡者』でブリティッシュ・ゴーモン社を後にしてフリーになり、古巣ゲインズボロー社でイギリス時代の集大成といえる傑作『バルカン超特急』'38を作ったヒッチコックはハリウッドからの招聘が具体化し、渡米までの空きスケジュールでチャールズ・ロートンの依頼による『巌窟の野獣』'39を撮っていよいよ'40年からハリウッド時代が始まりますが、それは次回と次々回以降の話になります。イギリス時代のヒッチコックは今回と次回で終わり、しかしハリウッド時代にも30作を数えると思うと、ヒッチコック映画感想文(ほぼ)全作品はまだ半数にも達していないのです。なお、今回も『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』(晶文社刊、山田宏一・蓮實重彦訳)からの発言は例によって多少表現を変えて引用させていただきました。
●12月19日(火)
『サボタージュ』Sabotage / The Woman Alone (英シェパード=ゴーモン・ブリティッシュ'36)*76min, B/W; 日本未公開(特集上映、テレビ放映、映像ソフト発売)
○製作=マイケル・バルコン、イヴォール・モンタギュー/原作(小説)=ジョセフ・コンラッド/脚本=チャールズ・ベネット/台詞=イアン・ヘイ、ヘレン・シンプソン/撮影=バーナード・ノウルズ/美術=オットー・ヴェンドルフ、アルベルト・ユリオン/音楽=ルイ・レヴィ/挿入アニメーション(部分)=ウォルト・ディズニー「誰がロビンを殺したか?」(シリー・シンフォニー・シリーズより)
○あらすじ 単語「Sabotage」を説いた辞書のページ、「公共の秩序を乱すための破壊活動」に続いて発電所にから出てきた男が停電したロンドンの市街地をイースト・エンドの映画館に忍びこむ。映画館の窓口は払い戻しを求める客が殺到していた。映画館主の妻シルヴィア(シルヴィア・シドニー)は映画館主の夫に対応を訊きに寝室に入る。夫のヴァーロック(オスカー・ホモルカ)が停電を引き起こした男だった。シルヴィアが窓口を外している間に受付のパート主婦ルネ(ジョイス・バーバー)と隣家の八百屋の店員テッド(ジョン・ローダー)が客の対応をしていたが、シルヴィアは払い戻しの支持を夫から受けて戻ってくる。その時電気が復旧し、騒ぎは収まる。テッドはヴァーロックを外で目撃しておりシルヴィアに様子を訊くが、シルヴィアはヴァーロックが寝室から抜け出ていたのを知らない。テッドは映画館を出るとロンドン警視庁に報告に向かう。実はテッドはテロリスト集団を張り込むために隣家の八百屋に潜入した刑事だった。翌日の木曜、ヴァーロックは外出し動物園で仲間の男に会い、土曜日の「ロンドン市長祭」でピカデリー・サーカス駅を爆破する指令を受ける。ヴァーロックはペットショップを営む爆弾製造係の男の店に行き打ち合わせをする。ヴァーロックの留守中テッドはシルヴィアとシルヴィアの弟スティーヴィー少年(デズモンド・テスター)を食事に誘うが、姉弟はヴァーロックの秘密に気づいていない。翌日金曜、ヴァーロックの部屋に3人の仲間が集まる。テッドはスティーヴィー少年と遊びに訪ねてきたふりをして隣室の続き窓から様子を探るが、仲間の1人がテッドを刑事と看破する。テッドは危うくその場を逃れる。計画実行の当日土曜日、ヴァーロックにペットショップの男から1時45分にセットされた時限爆弾が届く。だが居間にはテッドが妻に話しこみ、裏口には刑事が張り込んでいて外出できない。ヴァーロックはスティーヴィー少年に時限爆弾の小包と映画フィルム缶の包みをピカデリー・サーカス駅の荷物預り所に1時半までに届けるように命じて送り出す。だがスティーヴィー少年は街頭の歯磨き粉売りにつかまり実演販売のモデルにされたり、人混みで進めず慌ててバスに乗るが、かえって渋滞で進めない……。そして電話で爆弾テロ発生がヴァーロック家にいるテッドに伝えられ、テッドの正体を刑事と知ったシルヴィアにヴァーロックは自分がテロリストの仲間で、爆弾テロの事情を打ち明けるが、真相を聞きショックを受けたシルヴィアは……。
本作というと『間諜最後の日 (The Secret Agent)』'36、本作『サボタージュ (Sabotage)』、『逃走迷路 (Saboteur)』(米ユニヴァーサル'42)の3作が紛らわしい原因になった作品としても知られ、『間諜~』の有名な原作小説は主人公の名前から『Ashenden: Or the British Agent』'25ですが、『サボタージュ』の有名な原作文学作品は『密偵 (The Secret Agent)』'07で映画『間諜最後の日』の原題と同じなのが混乱を招きます。コンラッドはイギリス19世紀末~20世紀初頭を代表するポーランド移民一世のイギリス文学の大作家という特異な人で、『密偵』(翻訳・岩波文庫刊)は最高傑作とはいかずともセンセーショナルな題材で代表作のひとつと言える古典です。ハリウッド進出後の『逃走迷路 (Saboteur)』はオリジナル・シナリオ作品で「Saboteur」は「破壊工作員=テロリスト」ですが、アメリカでは『サボタージュ』は『The Woman Alone』と改題されて封切られたのでタイトルの混同に顧慮しなかったものと思われます。英語圏の批評家、観客には『The Secret Agent』といえば当然コンラッドの小説なのに映画『The Secret Agent』の原作がモームで、コンラッド原作作品は『Sabotage』であって、ハリウッド作品『Saboteur』とは別物だ、というのに混同を招いているようです。ポーランド移民で船員生活が長く、40歳近くなってから英語で小説を書き始めたコンラッドの作品は植民地や大都会に材を採った異なる文化の衝突や政治と権力、個人の自由と欲望、悪と罪と刑罰の問題を主要テーマにした重厚で現代的なもので、コンラッドはドストエフスキーを引き合いに出されると機嫌が悪くなったと言われますが実際に現代ヨーロッパ版の小型ドストエフスキーのような観がありました。
2011年のイギリスの「Time Out」誌の映画人投票によるイギリス映画ベスト100で、『サボタージュ』はヒッチコックのイギリス作品では『三十九夜』(13位)、『バルカン超特急』(31位)に次いで44位に付けています(2017年でも同位)。また映画批評サイトの「Rotten Tomatoes」では投票率100%(『間諜最後の日』では90%)、7.4/10の得点で、やはり投票率100%の次作『第3逃亡者』の7.6/10と僅差ながら投票率100%ということ自体が高い支持を物語っています。「最近ようやく観る機会に恵まれましたが、評判ほどとは思えませんでした」とヒッチコック本人を相手に言っているのは『映画術』'66のトリュフォーで、古典映画の保存運動では世界に先駆けていたシネマテーク・フランセーズで育ったような、映画マニアが昂じて映画監督になったトリュフォーにもなかなか観る機会がなかったというのは家庭用映像ソフト普及以前にどれだけ昔の映画をしらみつぶしに観るのが大変だったか物語るようですが、トリュフォーかヒッチコックのどちらか、あるいは両者が不出来としている作品にはあまり話が弾まない『映画術』でもトリュフォーが好まないとし、ヒッチコックも好きではないと言いながら本作ではどのあたりが良くないか、上手くいっている場面を探せばどこかを長々と論じあっており、基本的にはおだてるトリュフォー、自慢するヒッチコックという具合に進む同書の中でも珍しくマイナス面から映画を掘り下げてみた論調になっています。しかしヒッチコック自身は克明に映画の苦心点を語っており、好きではないとは言いながら実際は相当執着のある自作なのがうかがえて、映画全編にややムラがあり特に刑事役のジョン・ローダーがミスキャストだったと思えて気に入らなかったようです。トリュフォーはヒロインのシルヴィア・シドニー(1910-1999)にも不満がある様子ですが、ハリウッド女優のシドニーはヘンリー・ハサウェイの名作『丘の一本松』'36の次、フリッツ・ラングの渡米第1作の傑作『激怒』'37の前作に当たる出演で、本作もシドニーとオスカー・ホモルカの好演抜きには考えられないキャスティングで成功しています。この頃ヒトラー政権を逃れたドイツ映画界の人材が英米の映画界に流れこんできており、もともとドイツ映画の影響が強く英独合作でドイツで撮影したデビュー作から出発したヒッチコックですが、本作はスタッフにドイツ出身者が多いのか照明や美術もドイツ映画風で、シドニーもロシア人とルーマニア人の両親を持つユダヤ系の移民二世ですしホモルカはオーストラリアからの亡命俳優なのでロンドンが舞台ながらイギリス人エキストラたちに混じっても容貌、立振舞いに外国人とひと目でわかるような翳りがあり、本作の陰鬱な設定に実にしっくりきています。
水曜日から始まって土曜日に終わる簡素なプロットも、観客がホモルカの爆弾テロの成否に固唾を飲むように珍しく観客が犯罪者の側に立って事件の推移を追っていく仕組みになっており、やむなく妻の弟の少年に駅の荷物預かり所に時限爆弾の運搬を頼んでからは失敗の予感が強くなってだんだん不安がふくらんでいく。そして爆弾テロが起こってホモルカがシドニーに事情を打ち明けないではいられない状況になるのですが、観客の視点ではホモルカとシドニーの夫婦どちらも言い分のある人物なので、法的な意味では犯罪者であるホモルカも明確な目標を持ったテロリストである点で社会から疎外された被害者のように見えます。原作がコンラッドだけあり視点が勧善懲悪では決してないだけに、悪でなければ罪とは本質的にどのようなものか、それは罰せられなければならないのか、断罪とはそれもまた罪ではないのか浮かび上がってくるような結末が待ち受けていて、ブレッソンのような映画監督の作品なら観られ方も違うでしょうが、または'50年代以降のヒッチコック作品ならと思いますが、イギリス時代にあってこの内容は技法とテーマがちぐはぐではないか、消化不良ですっきりしないという見方もあるでしょう。ヒッチコックは他でもない『罪と罰』の映画化と同じようなことをやってのけたので、トリュフォーは遠回しに映画の粗を突くような指摘をし、ヒッチコックは延々と本作は技法と効果について語ることになったのが『映画術』での長い論議になったのだと思います。映画の感想文か『映画術』の感想文かわからなくなってきましたが、トリュフォーが決定的に本作を許さないのは少年の扱いで「映画なんだから何をやっても構わないという思い上がった特権濫用になりかねない」とまで言い、ヒッチコックも「そうだな、私もそう思う」と同意していますがトリュフォーの本音は本作はそれに当たる、と言っていて、ヒッチコックはだが本作はそうではない、と言っているのが会話の裏に透けて見えます。本作の結末部分はあらすじでも濁しておきましたので迂遠な書き方しかしませんでしたが、本作を『恐喝(ゆすり)』'29と似ていると指摘する一部の評は首肯できず、まったく違うものだと思います。現代の評価ではイギリス映画史上ベスト50に入る傑作でヒッチコックのイギリス時代の作品では『三十九夜』『バルカン超特急』に次ぐ名作とされているほどなのは、本作の政治的辛辣さと倫理的ジレンマの現代性がより身近に感じられる、ということでしょう。エリック・ロメールは'57年の早い時点で本作を「優美な完全さ」とした上で次作『第3逃亡者』を「より欠点が多いが、(『サボタージュ』の完全さより)より魅力がある」としています(『ヒッチコック』)。高校の文学教師ロメールの方が非行少年上がりのトリュフォーより脱モラル的なのも面白いですし、ヒッチコック支持者では共通する「カイエ」派の盟友ふたりの評価が本作では正反対(トリュフォーの批判は本作が「無神経で粗雑」だからでしょう)なのも興味深いですが、「優美な完全さ」についてはロメールに同感、ただし必ずしも本作は『第3逃亡者』より魅力に乏しいとは思いません。陰鬱なヒッチコックはハリウッド進出後もたまに顕れる現象で、その先駆的な1作という見方もできる、イギリス時代の作品中でも本作ならではの魅力があります。
●12月20日(水)
『第3逃亡者』Young and Innocent / The Girl Was Young (英ゲインズボロー=ゴーモン・ブリティッシュ'37)*80min, B/W; 日本公開昭和52年(1977年)1月8日
○解説(キネマ旬報近着外国映画紹介より) 無実の罪を晴らそうとする男が真犯人を追うサスペンス作品。製作はエドワード・ブラック、監督はアルフレッド・ヒッチコック、脚本はチャールズ・ベネット、エドウィン・グリーンウッド、アンソニー・アームストロングの共同、原作小説はジョセフィン・ティー、撮影はバーナード・ノウルズ、音楽はルイス・レヴィが各々担当。出演は『暗殺者の家』のノヴァ・ピルビーム、デリック・ド・マーニー、パーシー・マーモント、ジョージ・カーゾンなど。
○あらすじ(同上) 映画女優クリスティン(パトリシア・カーム)は、嫉妬深い夫ガイ(ジョージ・カーゾン)に男出入りをなじられた翌朝、死体で浜に打ち上げられた。発見者は被害者と顔見知りのロバート(デリック・ド・マーニー)。通報しようとした彼は来あわせた女達にとがめられ、逆に逮捕されてしまった。凶器として使われたのは、彼のレインコートのベルトだったのだ。無実を主張するロバートは徹夜のとり調べに失神し、入って来た警察署長(パーシー・マーモント)の娘エリカ(ノヴァ・ピルビーム)に介抱された。やがて正気づいた彼は濡れ衣をはらすため、彼女の車に隠れて脱出する。エリカにかくまわれるロバートだが、エリカは彼の保護者気取り。レインコートをなくした酒場で、彼女はウィル(エドワード・リグビー)という年寄りの浮浪者の名を聞き出す。さらに、近くのエリカの叔母夫婦(メアリー・クレア、ベイジル・ラドフォード)の家によったため、二人は検問にひっかかり、彼女も共犯と思われる。別れようとするロバートだが、彼女はひきさがろうとせず、車と彼女を待たせて、彼はウィルの常連宿にのりこむ。だが、宿の主人の通報で警察の手も迫って来た。エリカの車で何んとか連れだしたウィルだが、コートにはベルトがない。ウィルがこれを誰かからゆずり受けた時点から、ベルトはなかったのだ。警察に追われ隠れた廃坑の地崩れで、エリカは逮捕されてしまった。うまく逃げたロバートだが、真犯人の手がかりはとぎれてしまい、ついに自首するため軟禁されているエリカを訪れた。だが、証拠品としてホテルのマッチのある事を知った彼は、エリカを逃がし、真犯人の顔を知るウィルと共にホテルに向う。が、警察の手がまわり、ロバートが連行されようとした時、黒人に扮装したドラマーか失神。応急処置をしようとしたエリカは、そこに真犯人を見るのだった。
故・水野晴郎氏の大きな業績に'70年代後半にヒッチコックの日本未公開作品の傑作を次々劇場ロードショー公開させて(他にも『紳士協定』『オール・ザ・キングスメン』などがありましたが)ヒッチコック晩年の日本での再評価を定着させたことがあり、『海外特派員』『バルカン超特急』『第3逃亡者』『逃走迷路』などが初公開され、連動して公開年度の古い旧作のリヴァイヴァル公開もあり、記憶ではテレビ放映の頻度も飛躍的に増えた覚えがあります。現在よりテレビのプログラムは芸能的に多彩だったと言ってよく、007シリーズなどは新作の公開のたびに特集番組がゴールデンタイムに放映されていましたし、日本独自のチャップリンやヒッチコックの特集番組なども今ではお笑い番組かクイズ特番をやっているような時間に普通にテレビでやっていたと思うと映画のポピュラリティーは今より高く、その代わり大衆性に乏しい映画は今より無視されていたように思います。『サボタージュ』や『救命艇』'44のような映画はヒッチコックの未公開作品でも公開されずじまいだったのも内容が暗いからでしょう。『サボタージュ』の場合はディズニーの短編アニメの引用箇所がクライマックスへの伏線となっているのですが、現在では著作権期限切れでパブリック・ドメイン化されていますが当時は二重に版権が発生したとも考えられます。現在のディズニー作品の扱いからは考えられませんが、『サボタージュ』製作時には新作だった短編の部分使用が(スクリーン上映場面とはいえ)よく許可されたものです。ところでアメリカ公開版『サボタージュ』が『The Woman Alone』と改題されたように、本作もアメリカ公開では『The Girl Was Young』となっており、ヒッチコックも『映画術』でその題名で呼んでいます。ロメールが『サボタージュ』より本作を魅力的としたのはアメリカ映画的な性格を強めたからで、ヒッチコック本人もアメリカでのヒットを狙った作品だったのではないか、と思われる明快さが本作には横溢しています。アメリカ版ポスターにも「『三十九夜』に続く会心作 (Succesor To "39 Steps")」とキャッチコピーがあるほどです。
つまり『暗殺者の家』'34で初の国際ヒットを出し、『三十九夜』でその地位を固めたヒッチコックですが、次に『間諜最後の日』『サボタージュ』とやや暗く重い作品が続いたので、『三十九夜』の趣向を意識した作品が本作『第3逃亡者』だったのはいきなり殺人事件が起き(本作はより大胆)、犯罪者容疑者の青年が女性と二人連れで真相究明のため逃亡しながら各地を転々とする、という枠組みからもすぐにわかります。本作ではヒロイン映画にしてまだ少女と言っていいくらいのヒロインの方が積極的に最初から主人公を助けて逃亡するように、より明るく明快な関係にしています。『三十九夜』では馴れ初めこそ比較的早いにしても、ヒロインと再会し二人連れになるのは映画の後半になってからでした。『三十九夜』の場合はロバート・ドーナットとマデリーン・キャロルですから大人の色気が出て、手錠でつながれたまま着替えたり仕方なく一緒のベッドで寝たり、とセクシャルな場面もありましたし、ヒッチコックも嬉々としてそういう場面に力を入れている大人向けのサーヴィスも盛りだくさんでしたが、本作のヒロインは『暗殺者の家』で誘拐される主人公夫妻の娘役を演じていたノヴァ・ピルビームですからハイティーンの女の子に車の運転はさせてもセクシーな演出はできない。当時のヨーロッパ映画やハリウッド映画はハイティーンの俳優に平気で酒を飲ませ煙草を喫わせていましたが、イギリスの倫理基準はもっと厳格だったようです。世相の違いかもしれませんが、やたらと登場人物が酒を飲み煙草をふかすアメリカ、ヨーロッパの映画と較べてヒッチコックの映画では酒も煙草も控えめだったのに今さらながらに気づきます。これまでは舞台劇の映画化が半数あまりだったのでもともと原作がそうだった、というのもあるかもしれません。少女と言っていいくらいのヒロインを立てた映画は本作の前には強いて上げれば監督デビュー作『快楽の園』'25(若いダンサー)と『シャンパーニュ』'28(大富豪の令嬢)があり、ハリウッド進出後にはテレサ・ライトがヒロインの『疑惑の影』'42という正真正銘ヒロインが女子高生の極めつけの作品がありますが、ヒッチコックの全作品では少女のヒロイン映画は純粋には本作と『疑惑の影』しかないのではないでしょうか。その点セクハラ監督(没後に暴露された)のヒッチコックには本作はアメリカ向けの譲歩(または妥協)があったかもしれません。『疑惑の影』はその点でも少女をヒロインに健康的で、なおかつセクシャルな含蓄もある、巧妙極まりない逸品になっています。
ヒッチコックはキャスティングへのコメントは避けていますが、誰もが言及するクライマックスの大クレーン・ショットに次いで子供を大勢出した場面の演出を自負しており、ヒロインが変装した(と言っても眼鏡をかけてインテリ口調になっただけですが、俳優という設定なので)主人公を自宅に連れていき平然と警察署長の父もいる(偉い人なのでかえって容疑者の顔を知らない)食事の席では弟たちが6人くらいいて殺人事件のニュースに食事しながらわいわい残酷な話に興じて子供だから言葉に遠慮がない。警察署長なのに威厳がないヒロインの父が好人物なのを表す描写にもなっている。また叔母夫婦の家に立ち寄ると偶然姪の誕生日パーティーで手品師まで呼ばれて子供たちがわんさかおり、歓迎されて叔母に好奇心から主人公について質問攻めにあい、見かねた叔父が叔母に目隠し鬼遊びをしてその隙に抜け出しますが、叔母はかえって怪しんで警察に通報する誕生日パーティーのシークエンスも楽しいものです。アメリカ公開版では目隠し鬼の隙に抜け出す部分がカットされた、とヒッチコックが悔しがっていますがせっかくアメリカ向けに作ったのに、というのもあるし、ちょっとした工夫ほど愛着があるでしょうからなおのことでしょう。原題の『Young and Innocent』 またはアメリカ公開題『The Girl Was Young』でもいいですが、名詞として取れば原題だと『青年と純情少女』ですし、アメリカ公開題だとずばり少女ヒロイン映画です。当時は誰も観ていない『十七番』'32を思わせる場面もあり、白人の黒塗りしたクレオール楽団が登場するホテルのダンス会場のクライマックスは『殺人!』'30をちょっと連想させます。他にも旧作、ハリウッド進出後の作品につながっていそうなアイディアが数え上げれば無数にありそうで、次作『バルカン超特急』はハリウッド進出にリーチをかけた、いよいよこれまでのヒッチコックの集大成の観のあるスケール感を誇る名作ですが、その一つ手前の本作もコンパクトながら愛らしい佳作で、陰鬱な『サボタージュ』の次にこれ、というのがヒッチコックの余裕を感じます。ちなみにクレーン・ショットを含むクライマックスは2日かかったそうですが、『暗殺者の家』のクライマックスのコンサート・ホールはエキストラが足りなくて絵を使ったというほどのイギリス映画の予算ですからハリウッドなら1週間以上かけるシーンも2日、それでも異例だったようですし、本作も並みの映画監督であれば生涯を代表する大傑作あつかいされるような作品です。悪くない邦題ながら何となく地味そうなので観逃している人も多そうですが、『サボタージュ』より本作を上とすれば無条件に友人知人に勧めたいような映画、となるでしょうか。そういう敷居の低い楽しさが映画の質を低めていないのも本作の佳作たるゆえんです。