西脇順三郎(明治27年=1894年生~昭和57年=1982年没)
「世界開闢説」
科学教室の背後に
一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる
白墨及び玉葱黍の髪が振動する
夜中の様に もろ\/の泉が沸騰してゐる
人は皆我が魂もあんなでないことを願ふ
人は材木の橋を通過する
ゴールデンバットをすひつゝ
まだ一本の古い鉛筆が残つてゐる
鮭で充満する一個の大流の縁で
おれ達 即ちフッケと僕は二つの蛇のやうに横はつた
一つのポプラの樹が女の人の如くやかましい
桑の木の森で柔弱となつた山が我等の眼球の中へ流れ込む
一つの吹管をもつて我等が心臓の中にある愛情を吹きつゝ
おれ達はフランスの話をした
それから再び我等の洋燈の方向へ戻つた
オー なんと美しい古い刷毛(ブラツシ)よ
忍冬におほわれたエスキロス嬢の家より遠く
しかしおれの家に近く一人の正直者が
修繕すべき煙管を探求するために彼の水蒸気を鳴らす
おれの友人はみんな踏切の向方に移転してしまつた
そこにはトマス カルデイの写真がある
一つの非常に大きいマズリンの座ブトンがある
石油ストーブがある
さうして机の上に万年青と
実際的にペッチアンコな懐中時計がある
けれどもおれは
諸々なる機械職工と幼稚園でひつぱられてゐる
一個の小丘の斜面に
おれは地上権を購買してさうして
おれは自分に一個の危険なる籐椅子を建造せり
未だ暗黒である
足の指がおれのトランクにぶつかる
空気の寒冷が樹木をたゝく
七面鳥が太陽の到来を報告する
家禽家が毛糸のシャツを着て薪を割る
極めて倹約である
旧式なオロラがバラの指を拡げる
貧弱な窓を開けば
おれの廊下の如く細い一個の庭が見える
養鶏場からたれるシアボンの水が
おれの想像したサボテンの花を暗殺する
そこに噴水もなし
ミソサザイも弁護士も葉巻(シガー)もなし
ルカデラロビアの若き唱歌隊のウキボリもなく
天空には何人もゐない
百合の咲く都市も薄く
たゞ鏡の前で眼をとづ
(大正15年=1926年7月「三田文学」)
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西脇順三郎(明治27年=1894年1月20日生~昭和57年=1982年6月5日没)は新潟県小千谷市の名家に生まれ、経済学を学びつつも英文学に転向。26歳の大正9年(1920年)より慶應義塾大学教員となり、正教授への資格のために大正11年(1922年)にオックスフォード大学入学のため渡英するも入学手続きに間に合わず、1年間そのまま遊学後翌大正12年(1923年)よりオックスフォード大学に入学、翌年イギリス人の夫人と結婚し、大正14年(1925年)には教授昇任資格を取得したためオックスフォード大学を中退、留学記念に英文詩集『Spectrum』を刊行後、同年10月に夫人とともに日本に帰国し、翌年4月に慶應義塾大学英文学科教授に就任しました。渡英中は古典はもとより最新のヨーロッパの芸術思潮を紹介しつつ自作を発表しましたが日本語の詩には慎重で、留学時に携えていった萩原朔太郎詩集『月に吠える』以外の日本の詩集は一切読まず、また日本語の詩では『月に吠える』からはまったく影響を受けていないと生涯公言してはばかりませんでした。帰国後の最初の発表詩は大正15年(1926年)4月に慶應義塾大学英文学科教授に就任した直後に復刊されていた「三田文学」6月号に掲載されたフランス語の長詩「Paradis Perdu(失楽園)」で、西脇は慶應大学に学ぶ文学青年たちの指導的存在になり、それがやがて昭和3年(1928年)9月創刊の詩誌「詩と詩論」での日本のモダニズム詩の指導者的詩人と目されるようになりました。「詩と詩論」の詩人たちは西脇の詩に言葉のポップ・アート化を見たのですが、西脇自身は詩を永遠に対する有限な人間の嘆きと考える詩観を持っていたのは戦後の作品でより明瞭になります。シュールレアリスム(超現実主義)に対してシュールナチュラリズム(超自然主義)を標榜した日本語の処女詩集『Ambarvalia』(昭和8年=1933年9月)の刊行時にはすでに西脇順三郎は40歳になっていました。同詩集刊行の後は文学研究以外は敗戦まで一切の詩作を公表せず、戦後に内省的な傾向が強い長篇詩『旅人かえらず』と処女詩集の改作『あむばるわりあ』を同時刊行(昭和22年=1947年・54歳)、続く傑作詩集『近代の寓話』(昭和28年=1953年・60歳)で巨匠詩人の地位を不動のものにしました。イギリス人の夫人とは昭和7年に離婚し日本人女性と再婚していましたが、昭和50年(1975年・81歳)には夫人の逝去に会い、同年に既刊の全集(昭和46年=1971年~・全10巻)から全詩集・散文選集を「詩と詩論」全6巻に精選し、新作の発表も年に1、2篇のみになり、82歳で事実上の引退に入ります。1982年、郷里小千谷市で老衰で逝去、享年88歳の長命でした。
西脇順三郎の日本語の第1詩集『Ambarvalia』は大正15年(1926年)7月発表作品から昭和8年(1933年)10月発表と7年間に渡っていますが、詩集中もっとも早いのは、西脇順三郎の最初の日本語詩でもあった大正15年7月の「三田文学」に同時掲載された4篇「世界開闢説」「内面的に深き日記」「林檎と蛇」「風のバラ」です。詩集『Ambarvalia』は前半が「LE MONDE ANCIEN」(古代世界)、後半が「LE MONDE MODERNE」(現代世界)に分かれていますが、これら4篇は「LE MONDE MODERNE」中で「失楽園」の総題を持つ部の冒頭からそのまままとめられ、詩集書き下ろしになった「薔薇物語」とともに「三田文学」の前月に発表されたフランス語長詩「Paradis Perdu(失楽園)」を西脇順三郎自身が日本語訳したものでした。これらが詩集『Ambarvalia』に収録されるまで昭和8年までかかったのですが、西脇順三郎のこれらの詩は当時市島三千雄というまるで無自覚に日本語破壊的な詩を書いていた詩人もいましたが、山村暮鳥の詩集『雲』や萩原朔太郎『純情小曲集』、八木重吉、高橋新吉、中原中也、逸見猶吉、金子光晴の「おつとせい」を含む詩集『鮫』、高村光太郎の『猛獣篇』、小野十三郎や伊東静雄らと同時代のものとはにわかには信じがたいものです。言語意識や発想の次元において西脇順三郎の詩は、一見まるで正反対な伊東静雄の詩とともに戦後の詩の文体の直接の先駆をなすもので、岡崎清一郎という見事に西脇の作風を会得した詩人を生み、実際に戦前の文学少年時代に西脇に傾倒した鮎川信夫、吉岡実を通り、昭和最後期の荒川洋治、氷見敦子にまでつながっていきます。また西脇順三郎も戦後にはより柔らいだ表現をとりますが、80代の高齢までこの文体で詩作し続けます。ここに見られるのは小説では横光利一、野間宏、三島由紀夫、安部公房、大江健三郎、村上春樹らが「外国語を翻訳したような文体」と意識的に試みたのをさらに過激化して用いていた現代詩表現であり、内容はイギリス~ヨーロッパ留学時の体験を誇張し抽象化したものですが、文体そのものに実験があります。これらは短歌においても前川佐美雄~塚本邦雄、俳句においても富澤赤黄男~高柳重信らモダニズム~ポスト・モダニズム短歌・俳句の潮流を生み出すことになるのです。