人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

萩原朔太郎の率直さ

(25歳頃の萩原朔太郎と末妹・愛子)
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 萩原朔太郎(1886-1942)は広い愛読者を持つ詩人ですが、決定版全集とされる草稿から異稿まで網羅した大冊で全16巻におよぶ筑摩書房版の『萩原朔太郎全集』より、青年時代には萩原の秘書だった晩年の三好達治(1900-1964)がやはり萩原の秘書だった伊藤信吉(1906-2002)、萩原に寵愛された中野重治(1902-1978)と中心になって編集した新潮社の旧版5巻本全集と、5巻本全集完結後に刊行された人文書院版『萩原朔太郎全書簡集』が手軽で愛読している読者も多いのではないでしょうか。5巻本全集のうち第1巻に全詩集がまとめられているのも便利ですし、第2巻~第5巻はエッセイと文学論が萩原生前刊行の単行本単位で集成されており、書簡や草稿・異稿ともども文献学的に詳細を極めた編集の筑摩書房版決定版全集より各段に読みやすいのです。エッセイ集も文学論集も天然ボケで充満しており、さすが大詩人の風格を感じさせます。書簡集も誤字脱字だらけをそのまま生かしており、大らかな人柄を伝えてくれます。入り婿して実家の医院を継いだ妹(画像は末妹との2ショットですが、そっくりです)に先輩詩人や友人宛てよりずっと丁寧なくらい礼をつくした、神妙な手紙を書いているのが不思議でしたが、これを妻(前妻)に話したら「妹には恰好つけたかったのよ」の一言でした。前妻にも兄がおりましたので、案外それが正解かもしれません。

 萩原朔太郎は遅咲きの詩人でした。同年生まれの石川啄木(1886-1912)が27歳で逝去した翌年からようやく詩作を始めています。啄木の遺稿詩集と啄木の詩友だった北原白秋(1885-1942)への崇拝から始まり、自分と同期の新世代詩人がデビューしてくるまで文体の確立に苦労しています。そのかわり同世代詩人から最良の部分を見分け、自分の詩法に取り入れるのに長けていました。また率直に友人からの影響を公言していました。後輩の詩人にも先輩風を吹かせず、誰とでも対等に接していた人だったと中野重治が証言しています。最初期の「愛憐詩篇」(大正2年=1913年~)の影響源は生涯の詩友になった年少の室生犀星(1889-1962)の初期作品でした。

「小景異情その二」

 室生犀星

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食(かたゐ)になるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

(「朱欒」大正2年=1911年5月・詩集『抒情小曲集』大正7年=1918年9月刊より)


 萩原の第1詩集「月に吠える」(大正6年=1917年2月刊)はその2年前刊行され賛否両論を巻き起こした山村暮鳥(1884-1924)の第2詩集『聖三稜玻璃』からの感化が顕著です。当時萩原・犀星・暮鳥は共同で同人誌「卓上噴水」を主宰していました。

「だんす」

 山村暮鳥

あらし
あらし
しだれやなぎに光あれ
あかんぼの
へその芽
水銀歇私的利亞(ヒステリア)
はるきたり
あしうらぞ
あらしをまろめ
愛のさもわるに
烏龍(ウウロン)茶をかなしましむるか
あらしは
天に蹴上げられ。

(「卓上噴水」大正4年=1915年4月・詩集『聖三稜玻璃』大正4年12月刊)


 第2詩集『青猫』(大正12年=1923年)では犀星・朔太郎と並んで白秋門下の三羽鳥と呼ばれた吉川惣一郎(大正3年までのペンネーム)こと大手拓次(1887-1934)に文体を学んでいたのを大手拓次の追悼文で萩原自身が認めています。大手拓次は生前に詩集の刊行の機会を持てなかった詩人でした。遺稿詩集『藍色の蟇』(昭和11年)、『蛇の花嫁』(昭和15年=1940年)に収められたのも膨大な遺稿の一部でしかありません。

「象よ歩め」

 大手拓次

赤い表紙の本から出て、
皺だみた象よ、口のない大きな象よ、のろのろあゆめ、
ふたりが死んだ床の上に。
疲労ををどらせる麻酔の風車、
お前が黄色い人間の皮をはいで
深い真言の奥へ、のろのろと秋を背に負うて象よあゆめ、
おなじ眠りへ生の嘴(くちばし)は動いて、
ふとつた老樹をつきくづす。
鷲のやうにひろがる象の世界をもりそだてて、
夜の噴煙のなかへすすめ、
人生は垂れた通草(あけび)の頚のやうにゆれる。

(大正3年=1914年作・遺稿詩集『藍色の蟇』昭和11年=1936年12月刊)


 萩原自身のエッセイですが、日本で初の国勢調査が行われた時(大正9年1920年10月1日)、萩原は訪問調査員(当時は東京市内ですら人口が少ないので、訪問調査で行われたようです)に職業を「無職」と答え、「あなたは世間では著名な詩人ですが……」と困惑した調査員に自分の著書はすべて自費出版である、原稿料収入は自費出版費用になって著書が売れても差し引きゼロである、そもそも詩人は生き方であって職業ではないと滔々と説いたそうです。後日郵送されてきた確認書類では職業が「文筆業」となっており面倒だからそのままにしたそうですが、晩年に大学の客員教授を勤めた時には(萩原は一生遺産の利子生活者で、生涯就職しませんでした)、「これで夜道を歩いていても職務質問に困らなくて助かる」とありがたかったそうです。萩原朔太郎の詩の良さはそうした、無欲で率直で人はみな平等という人格に由来するのが全集の隅々まで感じられ、人の真価はもろもろの付加価値ではなく心の美しさにあるとわかります。もちろん萩原自身もそんなに単純に済まされる生き方を貫けた人ではありませんでしたが、それはまた別の機会に、萩原の著作(特に晩年作品)に即して参観いたします。

(旧稿を改題・手直ししました)