人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

第三の詩人・大手拓次(前編)

(大手拓次<明治20年=1887年生~昭和9年=1934年没>)
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詩集『藍色の蟇』昭和11月(1936年)12月・アルス刊
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(大手拓次の自筆原稿とイラスト)
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 大手拓次(明治20年=1887年11月3日生~昭和9年=1934年4月18日没)は群馬県生まれ、早稲田大学英文科在学中から詩作を始め、ボードレール、サマンに傾倒し、北原白秋(1885-1942)に師事して大正元年(1912年)、白秋主宰の同人詩歌誌「朱欒(ザンボア)」12月号に吉川惣一郎のペンネームで作品発表を始めました。最初の発表作が「藍色の蟇」「慰安」の2篇で、すでに独自のスタイルを確立してデビューした詩人です。つづいて白秋主宰の「地上巡禮」「ARS」のほか「詩歌」にさかんに詩作を発表し、室生犀星(1889-1962)、萩原朔太郎(1886-1942)と並んで「白秋門下の三羽鴉」と称されました。ペンネームの吉川惣一郎は大正3年いっぱいで止め、大正4年(1915年)からは本名の大手拓次の名前で発表するようになりました。大学卒業以来無職で実家の手伝いと東京の下宿を往復していましたが、大正5年(1916年)6月からはライオン歯磨本舗広告部に就職、語学を生かして文案係(コピーライター)となります。20代半ばには性病から一時片目を失明していた時期があり、また耳鼻科系や歯科系の持病で健康は良好ではなく、結核性の眼疾に生涯苦しむことになりました。数回に渡って勤務先の同僚の女性と、また文通していた従妹と恋愛関係に近づきましたが、生涯独身に終わりました。40代からは健康状態がますます優れず長期欠勤をやむなくされ、結核の悪化で転地療養しましたが晩年1年間は茅ケ崎の病棟で入院生活を送り、そのまま病棟で亡くなりました。生前に何度か詩集刊行を計画しましたが実現せず、逝去2年半後の昭和11年(1936年)12月に生涯の詩友だった逸見亨の編集、北原白秋の序文、萩原朔太郎の跋文で初の詩集『藍色の蟇』が刊行されました。昭和45年(1970年)~46年にかけて『大手拓次全集』全5巻+補巻1巻が刊行されるまでは、詩画集『蛇の花嫁』(昭和15年=1940年)、訳詩集『異国の香』(昭和16年=1941年)、遺稿集『詩日記と手紙』(昭和18年=1943年)が刊行されていましたが、総数2,400篇にも上る膨大な詩作、日記、書簡は不完全かつ誤りも多い『大手拓次全集』に完全な集成がなされておらず、生前の大手拓次関係者も鬼籍に入り、完全な改版第二次全集の刊行を期していた研究家の原子朗(1924-2017)氏も逝去された現在では改版全集の刊行も期待できません。やはり萩原朔太郎室生犀星の影になって広い読者を持つとは言えない山村暮鳥(1884-1924)同様、専門的な研究が行われていますが、郷土詩人・自然詩人の風貌もある暮鳥は各地に詩碑が建立されるほど今日では愛され、あの「いちめんのなのはな」の詩碑さえ建立されています。山村暮鳥は中期~後期には親しみやすい民衆詩・心境詩に転じましたが、大衆性の上でもグロテスクでエロチックな表現が続出する大手拓次の詩は読者の好悪を分ける詩人です。代表作が選びづらい詩人でもありますが、初期の作品から晩年の作品までを2回に分けて追ってみます。

「昔の恋」

 紅子

我胸のにしきの小はこ、
そと開くさみだれのまど。

朧なるともしびもえて、
徒らのきみがおもかげ。

花瓶の野薔薇ささやき、
風の恋、ひとひらにほふ。

(「詩人」投稿詩・明治40年=1907年8月)

 この文語詩が「紅子(くれないし)」名義で投稿詩として河井醉茗主宰の「詩人」に掲載された処女作で、これ自体は平凡な新体詩ですが、初期の習作には後年はあつかわなくなる題材や、後年に用いられるテーマながら表現は未熟なものが入り交じっているのはごく普通のことでしょう。

「路」

 (習作ノートより)

ほこりを立てないやうに、
草履をぽつぽつ、歩いて来る。
ぷーんと酸い甘い臭ひがした。
路の側にお下髪(さげ)にした可愛い児と、
立つてゐる嫌な児が居る。
青い葉と枯れた歯が、
松の落葉、
はなをかんだ紙、
血の附いた縄ちぎれ、
真黒な犬の糞、
泥まみれになって唸つている。
運送が来た。
己は避けて待つて居る。

(明治42年=1909年作)

「ふし眼の美貌」

 (習作ノートより)

まるい、まるい
たよりなくものを掘つてゆくやうな
我ままの
こころの幼児(えうじ)。

あれとなく
手にとってみては
うつり気の
定めないなぐさめのうちにたはむれる
あまやかされた
ひとりの幼児(えうじ)。

伏眼のなかに笑つてゐる
美しい美しい幼児の顔よ。

(明治43年=1910年作)

 ですが同時期の習作でも、次の作品では試験的ながらすでに後年確立する文体と手法(色彩語、嗅覚・触覚)の萌芽が見えます。

「華奢(きやしや)な秘密」

 (習作ノートより)

いつとなく
人に知られてまたかくれ、
ももいろの抜羽のようにものかなしい。
けれどさうして藍色のやみをゆけば、
ところどころよりお前の身をとりかこむ
秘密の顔のあでやかさに
木の葉のようにはらはらと
うわべを飾るあらい苦労は
ちつて仕舞ふ。
その時にお前の内は秘密の家。
うすももいろに、
あゐいろに、
鳩の胸毛のようにふはふはとして
たよりない木立のなかに迷ふだろう。

(明治42年=1909年作)

 また初期習作末期には次のような突拍子もない作品も現れるのも、その後もつづく大手拓次の詩の奇想の萌芽をなしています。

「円柱の主人」

 (習作ノートより)

場所。無辺際の砂地。
時刻。昼。
人物。男一人全裸体。
 女一人全裸体。

(明治44年=1911年作)

 大正元年(1912年)12月に初めて吉川惣一郎としてデビュー作「藍色の蟇」「慰安」を発表した大手拓次はすでにスタイルを確立した新人でした。大正2年(1913年)~大正3年は就職浪人をしながらも詩作ではもっとも多作な年で、大正3年だけでも口語詩94篇、文語詩8篇、訳詩24篇の作詩が確認されています。

「象よ歩め」

 吉川惣一郎

赤い表紙の本から出て、
皺だみた象よ、口のない大きな象よ、のろのろあゆめ、
ふたりが死んだ床の上に。
疲労ををどらせる麻酔の風車、
お前が黄色い人間の皮をはいで
深い真言の奥へ、のろのろと秋を背に負うて象よあゆめ、
おなじ眠りへ生の嘴(くちばし)は動いて、
ふとつた老樹をつきくづす。
鷲のやうにひろがる象の世界をもりそだてて、
夜の噴煙のなかへすすめ、
人生は垂れた通草(あけび)の頚のやうにゆれる。

(大正3年=1914年作)

 大正3年大正元年以来のペンネーム・吉川惣一郎を用いていた最後の年になりますが、「象よ歩め」ほどの達成があれば将来の詩集刊行を期して、翌大正元年4年(1915年)から本名の大手拓次で詩作発表するようになったのもうなずけます。

 また筆跡も線画も異様で、詩壇つき合いも少なかったため没後に生涯独身・童貞(遊廓での性病感染歴が判明しています)とさえ誤って噂された大手拓次は、簡略に言えば「幻視とフェティシズムの詩人」となるでしょうが、幻視もフェティシズムもともに定義の難しい性質です。空想やエロティシズムとは重なりつつ異なります。大手拓次が詩の題材にしたのは小児同性愛、足フェティッシュ、匂いフェティッシュなど多種多様に食指を伸ばしていました。当然覗き趣味もあります。次の詩は「女の手」へのフェティシズムをぬめぬめと語っています。正確には指で、これはずばり女性の自慰行為を空想した覗き趣味的な作品でしょう。

「春の日の女のゆび」

 大手拓次

この ぬるぬるとした空気のゆめのなかに、
かずかずのをんなの指といふ指は、
よろこびにふるへながら かすかにしめりつつ、
ほのかにあせばんでしづまり、
しろい丁字花(ちやうじさう)のにほひをかくして のがれゆき、
ときめく波のやうに おびえる死人の薔薇をあらはにする。
それは みづからでた魚(うを)のやうにぬれて なまめかしくひかり、
ところどころに眼をあけて ほのめきをむさぼる。
ゆびよ ゆびよ 春のひのゆびよ、
おまへは ふたたびみずにいらうとする魚(うを)である。

(「近代風景」昭和2年=1927年4月)

 「春の日の女のゆび」がジャックスの佳曲「遠い海へ旅に出た私の恋人」を思わせるなら、次の詩は特異な作風で知られるSF作家シオドア・スタージョンの短篇小説「お前の優しい手で」を思わせます。

「頸をくくられる者の歓び」

 大手拓次

指をおもふてゐるわたしは
ふるへる わたしの髪の毛をたかくよぢのぼらせて、
げらげらする怪鳥の寝声をまねきよせる。
ふくふくと なおしめやかに香気をふくんで 霧のやうにいきりたつ
あなたの ゆびのなぐさみのために、
この 月の沼によどむよやうな わたしのほのじろい頸(くび)をしめくくつてください。
わたしは 吐息に吐息をかさねて、
あなたのまぼろしのまへに さまざまの死のすがたをゆめみる。
あつたかい ゆらゆらする蛇のやうに なめらかに やさしく
あなたの美しい指で わたしの頸をめぐらしてください。
わたしの頸は 幽霊船のようにのたりのたりとして とほざかり、
あなたの きよらかなたましひのなかにかくれる。
日毎に そのはれやかな陰気な指をわたしにたはむれる
さかりの花のやうにまぶしく あたらしい恋人よ、
わたしの頸に あなたの うれはしいおぼろの指をまいてください。

(「近代風景」昭和2年=1927年11月)

 昭和2年のこのようなマゾヒズム詩が理解者に恵まれなかったのもやむを得ないような気がします。また、語感の豊かさにつりあうだけの十分な展開がなく、詩の射程が着想から延びていかないのも萩原朔太郎室生犀星、また山村暮鳥にも一歩を譲る印象を受け、こうした詩法だからこそ多作の原因になり、大手拓次が自作を生前に詩集単位にまとめる機会を失ったのではないかとも思えます。

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