人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

鮎川信夫「繋船ホテルの朝の歌」(『荒地詩集』昭和24年=1949年刊より)

(鮎川信夫<大正9年=1920年生~昭和61年=1986年没>)
f:id:hawkrose:20200428204232j:plain

繋船ホテルの朝の歌

鮎川信夫

ひどく降りはじめた雨のなかを
おまえはただ遠くへ行こうとしていた
死のガードをもとめて
悲しみの街から遠ざかろうとしていた
おまえの濡れた肩を抱きしめたとき
なまぐさい夜風の街が
おれには港のように思えたのだ
船室の灯のひとつひとつを
可憐な魂のノスタルジアにともして
巨大な黒い影が波止場にうずくまっている
おれはずぶ濡れの悔恨をすてて
とおい航海に出よう
背負い袋のようにおまえをひっかついで
航海に出ようとおもった
電線のかすかな唸りが
海を飛んでゆく耳鳴りのようにおもえた

おれたちの夜明けには
疾走する鋼鉄の船が
青い海のなかに二人の運命をうかべているはずであった
ところがおれたちは
何処へも行きはしなかった
安ホテルの窓から
おれは明けがたの街にむかって唾をはいた
疲れた重たい瞼が
灰色の壁のように垂れてきて
おれとおまえのはかない希望と夢を
ガラスの花瓶に閉じこめてしまったのだ
折れた埠頭のさきは
花瓶の腐った水のなかで溶けている
なんだか眠りたりないものが
厭な匂いの薬のように澱んでいるばかりであった
だが昨日の雨は
いつまでもおれたちのひき裂かれた心と
ほてった肉体のあいだの
空虚なメランコリイの谷間にふりつづいている

おれたちはおれたちの神を
おれたちのベッドのなかで締め殺してしまったのだろうか
おまえはおれの責任について
おれはおまえの責任について考えている
おれは慢性胃腸病患者のだらしないネクタイをしめ
おまえは禿鷹風に化粧した小さな顔を
猫背のうえに乗せて
朝の食卓につく
びわれた卵のなかの
なかば熟しかけた未来にむかって
おまえは愚劣な謎をふくんだ微笑を浮かべてみせる
おれは憎悪のフォークを突き刺し
ブルジョア的な姦通事件の
あぶらぎった一皿を平らげたような顔をする

窓の風景は
額縁のなかに嵌めこまれている
ああ おれは雨と街路と夜がほしい
夜にならなければ
この倦怠の街の全景を
うまく抱擁することができないのだ
西と東の二つの大戦のあいだに生れて
恋にも革命にも失敗し
急転直下堕落していったあの
イデオロジストの顰め面を窓からつきだしてみる
街は死んでいる
さわやかな朝の風が
頸輪ずれしたおれの咽喉につめたい剃刀をあてる
おれには堀割のそばに立っている人影が
胸をえぐられ
永遠に吠えることのない狼に見えてくる

(『荒地詩集』昭和24年=1949年10月発表、『鮎川信夫詩集』昭和30年=1955年11月刊収録)


 戦後日本の現代詩屈指の一篇をご紹介します。鮎川信夫(大正9年1920年生~昭和61年=1986年没)は東京に生まれ育ち、戦前から詩作を始め、戦時中は兵役に就き、除隊後に詩誌「荒地」の中心となりました。作風はエリオット、オーデンら20世紀のイギリス詩人の影響が強く、戦前にはモダニズムの詩を指向していましたが、イギリスとモダニズム詩人同様世界大戦に直面した経験から手法的には理知的なモダニズム詩、作品の指向は非常に批評的な思想詩に向かうことになります。このブログでは明治20年代から平成初頭までさまざまな作風の詩人をご紹介してきましたが、現実の理想化でも逃避でもなく、真正面から現実を高度な修辞で作品化し、廃船の繋船ホテルでの陳腐な情事を敗戦日本の荒廃そのものとして描き出したこの一見するとリアリズムの詩が達成したのは明治以降の日本の現代詩人たちがさまざまな手法で試みて、鮎川信夫によって初めて成功したと言ってもいいほどのもので、以降の日本の現代詩は第二次世界大戦前の多くの日本の優れた詩よりも鮎川信夫を中心とした思想的文明批評詩を水準とすることになります。

 文語詩から口語自由詩までの現代詩の言語水準の進展の上で大きく明治20年代以降現在までの150年間近い現代詩史をとらえれば、鮎川信夫は現代詩の分水嶺として萩原朔太郎中原中也以上の存在です。発表当時即現代詩の古典と認知されたこの「繋船ホテルの朝の歌」がすでに72年前に書かれた詩であること、これが題材こそ敗戦後の世俗ですが文体・語彙とも最新の詩として通用するだけの鮮度と訴求力を備えていることが驚異なので、72年後、2092年にも通用する詩が現在どれだけ書かれ得るかを考えると鮎川の詩のおそるべき射程の長さがわかります。また日本の詩が乱世の時代にこそ痛烈なエピックたる詩を生み出してきた歴史を思うと、こういう詩はまたとないからこそ時代の里程標となったとも言えるかもしれません。そうした意味でも、この「繋船ホテルの朝の歌」は何度でも立ち返って読まれるだけの意義を持った詩です。ちなみに詩誌「荒地」の詩人は女性にモテる人ばかりだったようですが、「繋船ホテル~」当時の鮎川信夫は女性に冷たくすればするほどウンコにハエがたかるようにモテるタイプの色男だったようです。しかも死線を潜ってきた元軍人で都会人の大卒エリートです。掲載した30代の鮎川信夫の写真を見ると何だかわかるような気がします。

(旧稿を改題・手直ししました)