人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

マルカム・ラウリー「火山の下」

 大学生の時に旧訳で読んで、その時は通読していた。だが昨年の春に出た新訳はどうしても3章あたりまでしか読み進められない。1947年発表だが戦後文学ではなく20年代からのモダニズムアヴァンギャルド文学の最後のナイフだろう。これが!
 モダニズムは美術と映画の方が先行したが、やはり1922年のT・S・エリオットの長篇詩「荒地」とジェイムズ・ジョイスの長篇小説「ユリシーズ」が画期的だった。プルーストカフカが亡くなり未発表作品の全貌が明らかになる。ベテラン作家もジイド「贋金つくり」、ヘッセ「荒野のおおかみ」、マン「魔の山」、デーブリーン「ベルリン・アレグサンダー広場」、アメリカの若手ではヘミングウェイドス・パソス、フォークナー、トマス・ウルフ……それらが1920年代のうちに揃った。
 だけど「火山の下」は違うのだ。一番遅れてきたモダニズム作家だというだけではない。どの前衛たちも一読して不可解だが丹念に読めば一貫した構造と物語がある。だがラウリーはどうだろうか。
 先駆者ヘンリー・ジェイムズの「黄金の杯」でもジョイスの「ユリシーズ」でも、フォークナーの「響きと怒り」もやはり訳の解らない小説だった。だがちゃんと読めば解る。フォークナーは常習犯だから、作品を理解する鍵をつかめれば後は解る。
 フランスやドイツの作家の前衛小説はやはり丁寧で、これは伝統なのだろう。
 しかしマルカム・ラウリーは…

 文学作品にネタバレもなかろうから物語を要約するが、出来事はたった1日。イギリス人のメキシコ領事が離婚した女優の妻と再会する。二人ともアルコール依存症。ちょうどフェスタの日で、二人とも巻き込まれて別々に事故死する。

 これだけの話がなぜ再読できないかというと、ラウリーは読者の理解力の限度などまったく気にせず叙述を構成しているからだ。もう誰にも届かなくていい、やりたいようにやる(書く)。

 ラウリーの処女作「ウルトラマリーン」(未訳)も大学時代に読んだが、そんな狂気は感じなかった。

 これはこのブログに「濁りがなく神秘的、心地良い」と励ましをくれた女性に贈ろうかな。ぼくは精神障害者生活保護だからプライバシーは何もない。福祉制度と医療制度のモデルケースとして生きているだけです。