1926年の『贋金つかい』と創作日記『贋金つかいの日記』は57歳、作家デビュー35年になるアンドレ・ジッド(1869~1951)が、自分にとって最初で最後になるだろうロマン(長編小説)という意気込みから全力をそそいだ作品でした。これが自己の唯一のロマンであることを強調すべく著者は詩的散文、レシ(中短編物語)、ソチ(風刺的作品)に過去の自作を分類することにもなります。
そこで『贋金つかい』とはどんな作品か、文学辞典の項目をそのまま孫引きしてみましょう。出典は昭和31年・桑原武夫編『岩波小辞典・西洋文学』です。
ちなみに昭和31年のこの辞典で改められるまではジッドはジイドという表記が一般的で、この作品も昭和47年の新潮文庫改版まで表題は『贋金づくり』と意訳されていました。修正して引用します。
【贋金つかい】(Les faux-monnayeurs,1926)作者はこれを「純粋小説」とよんでいる19世紀リアリズムは一つの現実解釈ですべてを切るが、ジッドはこれを不満とし、あらゆる可能性が生成し流動し消滅するさまを自由に創造せねばならぬとした。したがって見方は多元的で、この小説も登場人物の一人エドワールが『贋金つかい』なる小説を書いていることになっており、さらにジッドは『贋金つかいの日記』(1926)を発表することで作品批判をこころみ、小説世界を三重構造にしている。話の筋は一少年の家出放浪というにすぎず大した意味をもたない。作者自身、題名によって作中人物がニセモノであることを暗示している。では何が重要かというと、多くの主題がごっちゃに提示され、それがいろいろな角度から眺められ、そのまま無解決におわるという、現代知性の絶望的な多元論が一小説のうちに表現されている点である。(無記名)
これは発表当時すぐ翻訳され昭和初期の日本文学の第一人者・横光利一に影響を与えましたが、村上春樹の『海辺のカフカ』を連想する人もいるでしょう。文学史的にはプルースト『失われた時を求めて』1913~27とジョイス『ユリシーズ』1922が契機となった国際的な前衛文学運動が背景にあり、トーマス・マン『魔の山』1924、ヘッセ『荒野のおおかみ』1927が『贋金つかい』が肩を並べます。
今日ジッドが顧みられないのは、この作品の失敗にも多くを負うのです。