人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

特別な一日

今日も口をきいたのはスーパーのレジで「袋いりません」のひと言だけだった。持参したマイバッグに食料品を詰める。買うものはいつも毎回大体同じなので、詰める手順も習慣化している。
自分は今まったく無表情だろうな、と思う。ひと言も口をきかないままの一日よりも、まったく無表情のままで終える一日の方がつらい気がする。世界との接点を失ってしまいそうな気がする。
ひと足ごとに靴を鳴らしながら、靴の音も、目をとめる人をどれだけ幸福にしてあるかも知らずに、母親に手をひかれた幼児が歩いてゆく。自分にもいたのに、と言い訳のように思う。あの柔らかな二の腕の感触、たぶん子育て期の親だけが自分の子供に嗅ぎとる豊かな香り、まっすぐに見つめてくる幼児の目、言葉にならない声。
言葉よりも先に声があり、表情があった。幼児の名を呼びながら抱きあげ、頬ずりし、オムツ替えや沐浴のたびに今なにをしているか、どんな感じがするかを伝えあう。父親の腕のなかで信じきって甘えている幼児、その父親だった時の感覚が、ふとすれ違った幼児からよみがえってくる。
だけど今時はせちがらいから、一人歩きの中年男が「可愛いですね」などと相好を崩して声などかけては怪しまれる。こればかりは父親の資格を失くした男(おそらく女性にはかけられない嫌疑)の悲哀としかいいようがない。

父親として公園デビューも保育園デビューも果たすと、どの子もみんな自分の子供のようなものだった。ぼくが娘の送迎で保育室に現れると幼児たちにワッと囲まれたものだ。園児たちには文句なしに人気Mo.1パパ(ママ含む)、保育士さんには泰ちゃんのパパ(福山雅治似)と人気を二分、お母さん方には泰パパと大差で2位(と妻が言ってた)。
次女が自転車の前乗せ席に乗れるようになるのは早かった。長女を後ろに乗せると、西部劇のカウボーイみたいだ。そんな乗りかたでぼくと娘ふたりでいろいろなところへ行った。郵便局主任の妻は郵政民営化が近づくに連れて朝早く夜遅くなり、週末くらい休んでほしいのでぼくは娘ふたりと遠出した。

「僕だって得意だったことがある/まだ三つくらいの娘と町を歩いて/可愛いわねえとふりかえられたこともある/まだ三つくらいの息子と散歩に出て/知らないひとに愛想を言われたこともある//だがもう/そういう機会は二度とない」(黒田三郎「五十歳」)