人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

「こころ」追補

どうもご感想ありがとうございます。痒いところに手が届くというか、または噛んで含めるようなというか(笑)これで高校生以来のモヤモヤも少しは晴れましたでしょうか?やればマトモな文学論めいた文章も書くんだな、ときっかけをくださってありがとうございます。深読みにならずに、書かれていることを素直に読めば、だいたいこれが妥当な解釈だろうと思います。
しかしまあ、ほんとにイヤな友情小説ですね(笑)。自殺小説として読めば男と男の後追い心中みたいなものです。
今回再読して、この曖昧さは計算づくめだぞ、と注意して読むと、青年が語り手の第一部・第二部も、第三部「先生の遺書」もとんだ喰わせものなのに気づきます。読者が消化不良になるような書き方をわざとやっている(でも一人称だから語り手の主観として正当化される)んですね。漱石の作家活動は実働10年です。それで全作品が実験的な問題作なんだから、やはり大したものです。
わかりやすく「親友への裏切り」と書きましたが、先生としては親友が片想いしていることを許せなかったわけです。理想主義的人間であってほしかった。だから女を横取りして片想いをツブす(笑)というのはとんでもない話ですが、親友の自殺後の先生の人生は空虚感しかなかった。成り行きで結婚するハメにもなってしまったし、そんな結婚で愛情がもてるはずはない。精神的インポテンツです(事実子供はいません)。
そこに若いというだけで理想主義的に見える青年が現れた。先生は自殺願望者だったが機会をつかめなかった。天皇崩御・乃木将軍夫妻自刃で先生が「明治の精神に殉ずる」という精神とは理想主義的人間という意味でしょう。そんな人間はもう時代から取り残されてしまった。若い世代にはそこのとこ、よーくわかってもらいたい、というのが遺書の主旨です。
と、またしても痒いところはございませんかになってしまいましたが、さてどうでしょうね、たぶんここで解説したことは当時の読者にはすんなり理解できた、と思います。一種の転換期の危機的な時代思潮を見事に描出した作品として発表即名作の評価を得たゆえんです。
でも現代の読者にはどうだろう?エンタテインメント的なものではなく、漱石が描いたような「静かな狂気」を見抜く感受性は、繊細かつ非妥協的でなければなりません。「こころ」は謎の名作としてブーイングを浴びながら読まれていくでしょう。