いや、戦場にはならなかった。かつては帝国陸軍の軍事工場があり、坂や丘だらけのこの町には今も防空豪の跡があちこちに残っているが、関東で原子爆弾が投下されるとしたら有力な候補地のひとつだったにもかかわらず、この町は空襲すら受けないで済んだ。
それでもぼくの親たちは戦時中に小学生だから、戦争に直接体験を持っている最後の世代になる。ぼくは両親や祖父母から戦争の話を聞かされて育った。ぼくの子供たちになると、ただの歴史でしかないだろう。そういう風に風化していくのはとても自然なことだから、風化した後になにが残るのかも興味深い。
ぼくが今住んでいるマンションは周りもマンションだらけだが、住み始めて翌月になって初めて気づいた。この一帯はぼくが小学生の頃には小さい木造平家建てでどれも2kの市営住宅が30戸ほど並び、銭湯があって、住宅の中央には幼稚園の校庭よりはやや小ぶりな児童公園があった。ぶらんことシーソー、砂場くらいしか遊具のないみすぼらしい公園だったが、それで十分だった。
ぼくもこの住宅に小学校から高校まで一緒のネモト君という友人がいたので、小学生の時は児童公園で遊んだし、中学~高校の頃はレコードの貸し借りでネモト君の家に上がったものだ。今では小学校~高校・大学まで、つまり学生時代からの友人はひとりもいない。ぼくの人徳が知れようというものだ。
その後ぼくは大学時代から町を離れ、盆と正月くらいに実家に挨拶に来る時に、電車の窓から銭湯が廃業しているのを見た。
児童公園では、遊びに来る連中みんなと遊び友だちになった。子供の遊びというのは基本的にお金がからまないし、離合集散も自由で、軽いいさかいはあっても親たちが出てくることはまったくなかった。ぼくの牧歌的お子様時代はこの児童公園で尽きたのだ。
マンションの外廊下から見えるこの眺めに、小さな木造住宅や児童公園を思い出すのは難しい。ぼくは毎日児童公園の記憶と向かい合っている。もうこの辺りには遊んでいる子供のかげすら見えない。なくなってしまった児童公園など誰が気にかけるだろうか?