(14)詩人氷見敦子・立中潤



『彼女』 氷見 敦子
沼を歩いている、という思いが
いつだってわたしを深く捉え込む廊下
拝むような姿勢で集まってくる
男や女が腐爛する病巣なのだ
ここでは
一日中、管理人が鈴を鳴らしながら
悪所を巡ってくるので
わたしは夢の裏側まで清められ
波のように寝返りを打つ
カーテンのすきま
闇が深く割れているところに
手術を終えたばかりの女が沈んでいる
赤ん坊といっしょに
蜥蜴まで産み落としてしまう彼女
ぶるぶる震える声の肉が毬鞠のように腫れていて
針の先で突けば
きっと、破裂する
犬の内臓まで床の上に溢れた
彼女の喉は
並はずれて深いので
男の房が垂れてくることだっておかまいなし
アパートの把手という把手を喰わえ込んで
生き生きとした舌が
わがままに伸びて動いた
彼女の胃めがけて迸る唾液は捩れた光の束である
夢のなかから
思わせぶりな鼻が
にょきにょき生えてくる日があり
わたしは古い蚊帳を吊るすと
あかい顔になって潜り込んでいる
肉の色をしたボタンをはずしたあとは
彼女を玉葱のように剥き
秘密のうちにすっかり裸になって絡みあった
嗅覚を刺激する
あの女の匂いに夢中になってしまう夜
隠れていた声が滲み出し
わたしたちの身体を湿らせていく
その夜、
遅くなって
彼女を廊下の端まで送っていった
物陰で管理人の目が静かに捲れあがっているが
彼女の実体は掴みがたい
わたしたちは同質の海であり
お互いの海面に身を投げ出しあった
救命ブイのようなものである
(詩集「柔らかい首の女」1984より)
詩集「柔らかい首の女」は83年9月~84年8月に発表の17篇からなり、うち13篇は『唇の濡れた女』『光を吐く女』『訪ねて来る女』など表題に「女」を含む。そして84年10月から翌85年10月までの遺稿詩集ははっきりと氷見の自画像になった。