遺作「氷見敦子詩集」1986の三番目の詩篇『神話としての「わたし」』から作者は具体的に自分自身を語り手にする。だがそれは生活詩や心境詩とは異なるものだった。
『神話としての「わたし」』
(わたしが
*
そのマンションに辿り着いたとき
遠い人の記憶に引き込まれてしまった、わたしが
なにか輝く塵のようなものになって
脳の深淵に吸い寄せられていく
気がつくと、見知らぬ女が夕暮れのドアを開けているのです
隙間から洩れる宇宙よ
消えかかったドアに足を踏み入れたそこから
かすんでいくわたしは、わたしの半分が凍りついたように笑い
マンションのなかへ入っていくのを見届けたのだ
(…)
(84年9月発表・冒頭部)
ここでは「わたし」は溶解し始めている。次の作品ではどうか。
『千石二丁目からバスに乗って仕事に行く』
十月九日/くもり。風が冷たくなった。
千石二丁目のバス停。いつもの老人が先に来ている。
不忍通りを走る車の通りが、蟻の群のように、
眼球を這いあがっていく。球の面にそってのぼりつめ、
そのまま、つる、つるりと、向こう側へ滑り落ちて、姿を消す。
消す。次々と、車が「神隠し」に会う。向こう側に、
消えた車は、いまでは、永遠、という通りを、
走っている。きっと、不忍通りが、
宇宙へ続いているのだ。
九時四二分。上野松坂屋行きのバスが現われて、 わたしの眼球のなかに、飲み込まれる。
(…)
*
交差点に立つ女が
風に合図を送るように片手を振っている
タクシーが急速に近づいてくるあいだに
女の肩からもぎとられては
頭上の空間を突き破って消滅してしまうこともあるが
いまでは媚びるようなしぐさをする手の宇宙に
かつてわたしであった女が隠れているのだ(と思う
気ままに時間を飛び越えていく
手の妄想だけが肉体からはみ出し動きまわった
わたしはバスに乗るたびに
熱心に女の手首を見つめてしまう
衣服のしたにある腕を想像する(きっと
胸と腕をしなやかな蔓のように絡みあわせて愛しあった女が
どこかにいて
バスの乗客となって現われる
そのとき、わたしたち
永遠に吊革を握りしめることだろう
(…)
(85年1月発表)
この「わたし」の溶解は心身の衰弱によるものだろうか?