人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

アンドリュー・ヒル Andrew Hill - スモーク・スタック Smoke Stack (Blue Note, 1966)

アンドリュー・ヒル - スモーク・スタック (Blue Note, 1966)

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アンドリュー・ヒル Andrew Hill - スモーク・スタック Smoke Stack (Blue Note, 1966) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PLx_OwX8qVcovZG-bE4CJZrtjK_PF1pkhM
Recorded at The Van Gelder Studio, Englewood Cliffs, December 13, 1963
Released by Blue Note ST-84160, Early August, 1966
All compositions by Andrew Hill

(Side 1)

1. Smoke Stack - 5:00
2. The Day After - 5:07
3. Wailing Wail - 5:46
4. Ode to Von - 4:29

(Side 2)

1. Not So - 6:24
2. Verne - 5:48
3. 30 Pier Avenue - 7:06

[ Personnel ]

Andrew Hill - piano
Richard Davis - bass
Eddie Khan - bass
Roy Haynes - drums

(Original Blue Note "Smoke Stack" LP Liner Cover & Side 1 Label)

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 本作はアンドリュー・ヒル(1931~2007)がブルー・ノート・レーベルから再デビューした2作目に録音され、録音順では3作目・4作目のアルバムが優先発売されたので、発売順では4作目になりました。ヒルのアルバム・リストはマイナー・レーベルに残された幻のデビュー作『So in Love』1960(録音1956年)をご紹介した時に掲載しましたが、一応ブルー・ノート・レコーズからの再デビューになった最初の5枚を再掲載します。ブルー・ノートは、半年でヒルのアルバムを5枚録音する、という破格の契約をしました。
1963.11 : Black Fire
1963.12 : Smokestack
1964.01 : Judgment!
1964.03 : Point of Departure
1964.06 : Andrew!!!
 これを発売順に並べると、こうなります。
1963.11 : Black Fire (issued 1964.3)
1964.1 : Judgment! (issued 1964.9)
1964.3 : Point of Departure (issued 1965.4)
1963.12 : Smokestack (issued 1966.8)
1964.6 : Andrew!!! (issued 1968.4)
 これがヒルのブルー・ノート5部作と言われるもので、次の『Pax』は65年2月録音ですが未発表になり、単体アルバム化されたのは2006年でした。ヒルの初期5部作もその後廃盤にならなかったのは『Point of Departure』だけで、このアルバムはケニー・ドーハム(トランペット)、エリック・ドルフィー(アルトサックス)、ジョー・ヘンダーソン(テナーサックス)の3管、リチャード・デイヴィス(ベース)とトニー・ウィリアムズ(ドラムス)のヘヴィ級リズムというオールスター・バンドでしたからメンバーの豪華さで人気作となったので、5部作の他の4枚は10年に1度くらい再発売されては廃盤をくり返しています。ですが12枚以上あるヒルの'60年代ブルー・ノート在籍時のアルバムは集め始めると全部聴きたくなる妙な魅力があり、当時ビル・エヴァンスセシル・テイラーを筆頭に、ポール・ブレイやスティーヴ・キューン、マッコイ・タイナーハービー・ハンコックら、表舞台(テイラー、ブレイ、キューンを表舞台のジャズマンと言うのは苦しいかもしれませが、活動中から正当に注目されていました)にいたジャズ・ピアニストでも、ヒルの個性は一風変わったものでした。

 エヴァンスやテイラーはビ・バップのオリジネイターであるセロニアス・モンク(弟分のパウエルより遅れて評価されましたが)とバド・パウエルの後継者であり、ビ・バップのピアニストもモダン・ジャズ以前の最大の巨匠アート・テイタムから強く影響されていましたが、モンクとパウエルの影に隠れて独自の実験的スタイルを追求していたビ・バップ・ピアニストもいました。少なくともレニー・トリスターノ、エルモ・ホープ、ハービー・ニコルスの3人(リチャード・ツワージックを加えてもいいですが)はモンクとパウエルに匹敵する可能性を持っていたピアニストでしたが、モンクやパウエルほど独自の手法がジャズ界に浸透する機会や才能に恵まれませんでした。ブルー・ノート・レコーズはモンク、パウエル、ホープ、ニコルスを最初に専属契約したレーベルであり、パウエル以外はレコード発売当初は評価にも恵まれず、セールスもふるいませんでした。ブルー・ノートでのモンクやニコルスのアルバムは現在ではモダン・ジャズの古典となってロングセラーを続けています。ブルー・ノートは、ピアノ・トリオのスリー・サウンズやオルガンのジミー・スミスのように、商売になるアーティストを見つけて大々的に売り出す面もありましたが、アンドリュー・ヒルはブルー・ノート・レーベルがハービー・ニコルス以来に目をつけた若手鬼才ピアニストでした。ブルー・ノート専属第1弾『Black Fire』はジャーナリズムから即時に絶賛され、現在でも高い評価を受けています。ブルー・ノートは録音第2作『Smoke Stack』の発表は後に回し、録音第3作『Judgement!』を発売第2作にします。録音第4作『Point of Departure』は即発売第3作になり、録音第5作の終了後ようやく録音第2作『Smoke Stack』がリリースされます。録音第5作『Andrew!!!』のリリースはさらに遅く、未発表に終わった録音第6作『Pax』に続く録音第7作『Compulsion!!!!!』の発表の後になりました。63年11月~64年6月にかけて制作したアルバム発売に68年の4月までかかったわけです。65年の『Pax』、66年の『Change』以外にも67年には3枚の未発表アルバムが制作されたのも考えると、ヒルのアルバムは評価は高いがセールスは不振で、レーベルも処遇を持て余していたとしか思えません。

 '60年代アンドリュー・ヒルのブルー・ノート作品は、現在の音楽メディア(Allmusic.com)では以下のように高い評価を得ています。Allmusic.com以外では『Penguin Guide to Jazz』が『Point of Departure』とボビー・ハッチャーソン『Dialogue』を★★★★(満点)plus crown(不朽の名盤)に認定しています。
1963.9 : Joe Henderson/Our Thing (issued 1964.5) ★★★★1/2
1963.10 : Hank Mobley/No Room for Squares (issued 1964.6) ★★★★
1963.11 : Black Fire (issued 1964.3) ★★★★★
1963.12 : Smokestack (issued 1966.8) ★★★
1964.1 : Judgment! (issued 1964.9) ★★★★1/2
1964.3 : Point of Departure (issued 1965.4) ★★★★★
1964.6 : Andrew!!! (issued 1968.4) ★★★★
1965.2 : Pax (issued including of "One For One" and 2006.6) ★★★1/2
1965.4 : Bobby Hutcherson/Dialogue (issued 1965.9) ★★★★★
1965.10 : Compulsion!!!!! (issued 1967.2) ★★★★
1966.3 : Change (issued 2007.6) ★★★★
1968.4 : Grass Roots (issued 1969) ★★★★
1968.10 : Dance with Death (issued 1980) ★★★★1/2
1969.5 : Lift Every Voice (issued 1970) ★★★★1/2
1969.11 : Passing Ships (issued 2003.10) ★★★★1/2
1965-70 : One for One (issued 1975, 2LP) ★★★★
1967-70: Mosaic Select 16 : Andrew Hill (issued 2005, 3CD) ★★★★1/2

 こうして見るとほぼ全作品が★★★★以上で、知名度のわりにあまりに高い評価に驚きますが、'60年代のマイルス・デイヴィスクインテットフュージョン以降にアコースティック・ジャズの到達点として浮上してきたように、ヒルのスタイルはエヴァンスやテイラーよりある意味、射程距離が長いものだったと見做されているのでしょう。エヴァンスやテイラーらは早いうちから強い影響力を持ち、その手法が浸透するのも早いピアニストでした。しかしヒルのスタイルは今でもまだ十分に解明されず、開拓されていないポスト・バップの可能性を秘めている、という見方です。トリスターノやホープ、ニコルスらと同様、主流ジャズからは外れたところで生まれてきて、誰にも気づかれないまま驚くような独自進化を遂げたのがヒルのジャズだったのかもしれない、ということです。実際ヒルのように純粋にモダン・ジャズであり自作を多産しながら、またセッションの機会に恵まれやすいピアノ奏者という担当楽器でありながら、他人のアルバムには数えるほどの参加作しかなく自分の音楽に専念していたのは、それこそモンクとパウエル、トリスターノやテイラーくらいしか見当たりません。モンクやパウエルらがジャズに果たしてきたのと同等の革新性が、ヒルの音楽にはまだ解明されずに残されているのではないかと考えられているのです。

 Allmusic.comの評価では『Smoke Stack』はヒルのブルー・ノート作品中唯一の★★★になっています。ヒル作品では★★★が最低ですから全作品を高く評価した上での相対評価になるのでしょうが、本作は初期5部作では一番聴きやすく、ヒルの本質がつかみやすいアルバムなのではないかとも思えます。リチャード・デイヴィス(ベース)とロイ・ヘインズ(ドラムス)はブルー・ノート第1作『Black Fire』でも共演しており(ヘインズはフィリー・ジョー・ジョーンズのピンチヒッターだったそうです)、『Black Fire』はジョー・ヘンダーソンのテナー入りカルテットでしたが(ヘンダーソンの参加もアルバムの名声を高めていますが)、『スモーク・スタック』は2ベース・ピアノ・カルテットというほとんど例がない編成のアルバムです。デイヴィスとセカンド・ベーシストのエディ・カーンは1963年7月のエリック・ドルフィー『カンヴァセーション(Conversation)』『アイアン・マン(Iron Man)』セッションでも2ベースで共演しています。ヘインズもドルフィーのプレスティッジのスタジオ盤3部作のドラマーでした。ドルフィーの生前最後のスタジオ録音がヒルの『離心点(Point of Departure)』で、ドルフィー生前最後のリーダー作(ライヴ録音除く)の『アウト・トゥー・ランチ(Out To Lunch)』(ブルー・ノート作品)にもデイヴィスは参加しています。要するに、本作はドルフィーが参加していてもおかしくないメンバーが揃っています。そう思うとがぜん評価は上昇します。5部作はどれも楽器編成が違いますが、本作の変則ピアノ・カルテットはドルフィーの第2作『Out There』1960の楽器編成(アルトサックス、チェロ、ベース、ドラムス)を連想させます。『Out There』のドラムスもロイ・ヘインズでした。本作にいかに多彩な工夫が凝らされているか、1曲ずつ聴いてみましょう。

 まずSide1のA1「Smoke Stack」はアルバム・タイトル曲らしくスリリングでインパクトがある曲です。AA'16小節、2音単位で同じ音型をシンコペーションするテーマなの非常にわかりづらい小節構成です。拍の頭が裏返りつづける手法はアルバム全曲で展開されます。ソロでは4度重ねのブロック・コードと全音階を多用しており、これはエヴァンス~マッコイ・タイナー的手法でもあります。A2「The Day After」もリズム・アレンジに一癖あり、3連符を多用しているので6/8(2拍3連)と錯覚しそうなミディアム・バラードですが、実はAA'B+AA'B24小節のブルース(!)です。この小節構造は即座に聴きわけられる代物ではないでしょう。デイヴィスによるピチカート奏法の見事なベース・ソロが光ります。ピアノのソロは基本的にテーマ変奏ですが気だるく不穏なムードで、テーマ変奏とアドリブ・ソロが混在しながら進行する手法はハービー・ニコルスを思わせます。A3「Wailing Wail」はドラムスのパルスビートのシンバル・ワークから始まり、ベースのアルコ奏法でテーマが奏でられるAA'BB'32小節(B部のベースはアドリブで、ピアノによるテーマのブリッジをなしています)の陰鬱なバラード。ドラムスとピチカート奏法によるベースは完全にフリージャズになっています。アルバムのハイライトのひとつといえる強烈な曲です。A4「Ode to Von」はまたもやABC+ABC'の24小節の変則ブルース。2曲目とも違うアプローチで、全然ブルースに聴こえないどころか、何小節単位の曲かも聴きわけられないような変態的テーマです。これもデイヴィスのベースの短いピチカート・ソロが光ります。A2同様セロニアス・モンク~ハービー・ニコルスの発展型とも言えますし、パウエルの奏法を意図的に崩したエルモ・ホープの手法も思わせます。ヒル自身はこの手法を完全に咀嚼しきっており、具体的な影響ではないでしょう。

 Side2に移ると、B1の「Not So」はABAB32小節、トリッキーなシンコペーションによるテーマで、これははっきりとモンクの発展型の印象があります。テーマの後はデイヴィスのベース・ソロから始まるが、これも短いながら絶品です。ピアノ・ソロもモンクを思わせる奇妙な音型が多用されます。ヒルはオリジナル曲しか演奏しないので、あえてモンクっぽい曲を作ってみたのかもしれません。後半はドラムスとのデュオがピックアップされて終わります。B2「Verne」は「LazyAfternoon」(ミュージカル『The Golden Apple』挿入歌)を思わせるテーマを持ったAA'BA32小節形式のバラード。同曲はヒル周辺では『セシル・テイラーの世界(The World of Cecil Taylor』1960、グラント・グリーン『Street of Dreams』1965、ピート・ラ・ロカ『Basra』1965でも取り上げられています。この曲はベースはデイヴィスひとりで、ピアノと絡むデイヴィスのベースの自由なピチカートをフィーチャーしています。この曲のヘインズのドラムスは控えめです。B3「30 Pier Avenue」はAA'AA'32小節のミディアム・バラードで、ドラムスは2拍3連を交えるから曲の何小節目になったのか流して聴いているとわからなくなります。この曲のベース・ソロはエディ・カーンが頑張っていますが、デイヴィスとのセンスと力量の差は歴然なのが愛嬌です。ピアノはアルバム中もっともフリージャズ的です。ピアノが休んでドラムス&ベース・ブレイクになり、再びテーマに戻り、フェイド・アウトして終わります。

 と、アルバム全曲を小節構成を聴きとりながらじっくり聴いてみましたが、ジャズ名盤ガイドやアンドリュー・ヒルの代表作にも上げられないこのアルバムは、変則ピアノ・トリオ(2ベース・カルテット)のアルバムとして実は相当な傑作なのではないかと思えてきます。英語版ウィキペディアのアルバム・ジャンル記載では本作は「Post bop」「Avant-garde jazz」なのですが、ビ・バップ本流の次世代型主流ジャズとフリージャズ(英語圏では『Free Jazz』はオーネット・コールマンのアルバム名で、日本で言うフリージャズ一般はAvant-garde jazzと呼ばれる)の両方に足をかけている点で、このアルバムはヒルの立ち位置がはっきりわかります。それはヒルが共演したローランド・カークやウォルト・ディッカーソン、さらに密接にエリック・ドルフィーと共通するものでした。また本作はヒル作品でもあまり聴かれない分、今なお問題作と言えるアルバムです。

(旧稿を改題・手直ししました)

山本陽子「遥るかする、するするながらIII」(「現代詩手帖」昭和45年=1970年より)

現代詩手帖」昭和45年=1970年10月号
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(山本陽子<昭和18年=1943年生~昭和54年=1984年没>)
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遥るかする、するするながらIII

 山本陽子

 遥るかする
純めみ、くるっく/くるっく/くるっくぱちり、とおとおみひらきとおり むく/ふくらみとおりながら、
わおみひらきとおり、くらっ/らっく/らっく/くらっく とおり、かいてん/りらっく/りらっく
りらっく ゆくゆく、とおりながら、あきすみの、ゆっ/ゆっ/ゆっ/ゆっ/ とおり、微っ、凝っ、/まっ/
じろ きき すき/きえ/あおあおすきとおみ とおり/しじゅんとおとおひらり/むじゅうしむすろしか
つしすいし、まわりたち 芯がく すき/つむりうち/とおり/むしゅう かぎたのしみとおりながら
たくと/ちっく/ちっく すみ、とおり、くりっ/くりっ/くりっ\とみ|とおり、さっくる/さっく
ちっく/るちっく すみ、とおりながら
純めみ、きゅっく/きゅっく/きゅっく とおとおみ、とお、とおり、繊んじゅん/繊んく
さりさげなく/まばたきなく/とおり、たすっく/すっく/すっく、とお、とおりながら
すてっく、てっく、てっく
 澄み透おり明かりめぐり、透おり明かりめぐり澄み透おり
 透おりめぐり明かり澄みめぐり、めぐり澄み明かりぐりするながら、
闇するおもざし、幕、開き、拠ち/ひかりおもざし幕開き拠ち
 響き、沈ずみ、さあっと吹き、抜けながら
 響き、ひくみ、ひくみ透おり渉り、吹く、透おり、/
 先がけ、叫び、しかける街々、とおくをわかち、しずみ、/透おり交いながら
 しずみ 、しずみ透おりひくみ、ひびき、ひくみ/つよみ透おりするながら、たえまなく
 透おり交わりするながら/ひびき透おり放ち、
 瞬たき、路おり乗するながら
夜として観護るごと、めばめき 帳ばり、ふた襞、はたはた ひらき 覆い/

 響き、/ 尽くし/吹く透おり/消え、
 しずみ、/ひくみ、/
ひびき透おり吹き
 ふためき、はたと墜として、はたり /途断え、やみ、蔽い

 吹く、吹く、吹く、おとないかぜ透おり、おとなしかぜ渉り、
 吹く、やすらぎ/すずしやぎ
りり、 りりり、りりり

夜する/ふんわり、かげろう 薄すまめぎ/口開き拠ち、
夜切り、浮きたち、ひろひろ透おり、澄み透おり透おり明かりするながら、
 絹ぎ/すき/消え/さやとおり 澄まり静まる夜する口開切り拠ち
 融け透おり/ 芯へおいて/燃やし尽くされ、消え/
 沈ずみ、充ち、放ち、高かみ、透おり交わするながら、
 清烈し静濫し/透おり
 豊かみ、ゆえみ、揺み、透おみ、たえまなく/ゆみ/とおり、まどやか/すみ/
 透おりつくし/透きみ/清み/撒き、透おり するながら
夜する口切り 透おり渉り透おり贈くるするながら

 そこ/とおり/とおり仄やか/しらめくくちなし匂おぎ
 ふっくら透おり渉り つうーん くちなし匂おき 透おり
 すうっとすずしやか/かすか/透おり渉り透おり匂いくちなし

るきっく とおり|あららぎ、あゆうーん/あゆーん/あゆーん/ゆーん ふううわーん/ふうわーん/ふわーん/ふわきりりっ
くっとおとおりりっくりき、とおおーん/とおーん\とおーん/とおん とおとおするながら
はじめてのみちするかた 情い
さらああーん さらああーん/さ、ああーん/さ、あーん
とおおーん/お、おーん、おーん やみなくくっく/ことっく/かたっく/とおとおり
こおおおん/こおおん/こおーん/おーん するながら、
すううーん/す、ううん/すうーん とおんび/とおとお/りり、りっく
たああん/た、ああーん/たあーん/たあーん りりっく、り 澄み純のめするながら

 りり、り りり、り 仄やぎ/憧れ 透おり、吹く、おとないかぜ、渉り 吹くやみしかぜ
 透おり
透おり、くぐり、りりっく、透おりするながら、
 りりり りり、り りり、り/
 さっとまろぎ、
 まろ深ぶかみ、透おり
 淡ららぎ、扇ききらり、扇ききらり、扇ききらり、あおきりしんせん充ち、すみきり
 おさららぎ すぎり、すぎりわたり透おり、
 あらたく/あらたやぎ 吹き、吹き、わたり透おりながら
すくりくけく、活づき、活づき、活づき
活づき透おり ま深ぶかみ
 遭ららぎ 扇ききり 扇ききり あふりきようじんすんなり充ち、すみきり、
 そぎららぎ 吹きとおりわたり
 あやたやぎ/あらた 透おり わたりながら
まろぎ透おり遭い交いながら
みなみなしぎ/みずみずしぎ 吹き、吹き、/吹き
あらたく/あらたやぎ 活づき 活づき/活づき
すずしやぎ/すく/すくりやぎ りりり、りりり、りりり/
遮ぎりなくしく/果てしなくしく
りりり、りりり りりり 吹く渉り透おり 吹く おさない、吹く おとないかぜ透おり吹く
おとないかぜ憧れ透おり

 とおーん/とおーん/とおん/とおとおんび 透おり りりっく/りっく くぐり 透おりするながら
吹く、渉りおさなとぎ透おり、吹くおとないしぎ透おり 吹く、おとなしぎ透おり 吹く 憧れかざかぜ透おり
りりり、りりり、りりり、りりり
くっく/くっく/くっく とおり/さ いおおーん/ふおおーん/ほおーん/おおーん
尨くらみ/むな/ふわふわり/尨くららみ、
 きらら、ぎん/すき/きらら 透おり添い/透おり添い透おり/きららっ 澄みあき/透おり
 優さしげ/柔わらかげ/憩らげ/消え きら/きらっ/きらっ/きら、澄み/きらら
 舞い/あが透おりながら、
 ひらら、ひらら/きえ/とおりたち とおり/とめ/すき/きえ/きらら
 そりとおりたち/いとけなくたちとおり/とおりたちとおり/むすうしむじゅうし
 ふうわり/ふうわり/ふうわり/ふうわり
りり り りり り りりり
 ひとつ/ひとつ、ひとつ、ひとつ 軽やけく/震るえやけく/繊やけく
 舞いちょうじ 透おり/透おり舞いちょうじきらら、きらら/ 透おりちょうじきらら舞い
 つどい透おり/きららっ緩っく緩っく察っく 舞いちょうじ 透おりながら
 きらら、きらら、きらら、透おりかい/透おりかい透おりながら、、きらららっ
 息き、/息き/息き/息ききり 舞いちょうじながら
 添い透おり/透おり添い/あが透おり消えながら、

りりり、りりり、りりり 吹く、透おり渉り透おり、吹く おさなしぎ 吹く、おとない吹くおとなしぎ 吹く
 憧れ かざしぎかぜ

 透おり、透おり
 仄やか、息き吹くる/乳白滞びる/ひろぎ、透おり交い充ち/とおくを支する街々するながら
遮えぎりなくして/果てしなくしく りりり、りりり、りりり
 澄み、透おり、たんちょうじ、拠ち/むくげ
 すらり、/すらり、すらり、
 透おりたんたん 透おり、たん/ちょうじ敏ん透おり
 むくむく/とおるく拠ち するながら、
 透おり、茫わ、茫わ/茫わ/むすうし、先すらり/すらり/すらり/あわび摩び/たん透おり、
 /たん、たん/細そめひらき、/、はなり、透おり/まぶしげ/あわげ むすう摩び
 察っとゆらき楽び透おりすらり、すらり、すらり 透おり先
 おく、とおとどき/さりさげなく/うつむきなく/透おり
 敏ん/敏ん/びん/敏ん/むくむくげ、
 ほおおーん/お、おーん/おおーん/ほおーん拠ちするながら
透おり、すらり/透き透おり/透おり透きすらり透おりひらきはなり/すらり透おり透き透おり/
あわげ/むすう/きら摩び、きらり/きらり、/きらり 先細めするながら
 さくっさく/たんちょうじ、透おり/たん/たん/たん/ひくみ透おり
 おくとおるく拠ち
 たんちょうじするながら

りりり、りりり、 渕ち さっと揚ぎ 吹き 吹き、吹き/憧れ透おり/ 吹く、吹く、吹く透おり渉り透おり吹く、おさなしおとなし かざ透おり おとなしかぜ
りりり、りりり、りりり

 瞼か/透おし 澄みめ純みめ/おく、とおとおく/透おし
 刷っとまみえだち、おうるみ 泊だち ひっこみ/ひっこみ 敏いいーん 透おするながら
ぽおおろろーん/ぽおおろろーん/ぽおろろん/ぽおろん/ぽおーん
ひくみ/ひくみ/ひくみ かなでを つづり、透おり
 親し/推し たん/たん/たん 透おり、むくむく/りりっく たんちょうじするながら、透おり
とおくを わかち/しずみ、りんりんひびきひくみ、透おり交い真するながら
 息吹く、息吹く 先がけ
 たえまなくひびき透おり、交わし/透おり ひびき、つよみ、放ち
しずみ しずみ ひくみ ひくみ つよみ透おりしずみ
ひびき、 そっと揺み透おり、うち顫るるえ しずみ ―― 渉り
渕ちより おくおもむきおくぶかみ、先拠って/孤し赴き汲み降するながらの むくむぐ/むーん
/先拠ちするながら
創り為しときしする 渕ち/はじまり、透おり くぐり、やすみなく、くぐり先拠ちするながら
越え創りなし、越え/ときしなする越え/想いするながらの ときしなするおわり
 まばたきなく/とびたつことなく
 えぴぐらむ さりさげなく/すうっとすき/とどききえ/とおり
 えぴぐらむ ひくみ/ひくみ つくしんぼおるく ひくみ 声ねに 烈しみ/はにかみ/澄み
 おくとくるくするながら、/
茫っ/茫っ/茫っ 摩び透おり 先すらり/透おり透おりすらりら先/ごくあわげ/あらぎ/
あわ、あわけ、察っ察っ透おり/察っ透おり/先震れ微っ/微っ/先透おり/ かんしょくし/
かんそくし/透っり 拠ち
 さわさわこぎ 息づき そよぐ森、くねり・施めき 白路する森 さわさわ透おり走り交り裡ち森

びゆゆーん/びゆゆーん/びゅーん/ゆん 匂ぎ ふっききり 渉りれ吹透おり吹く/吹くおとなし
かぜさわしぎかざあられ透おり
 あおきりしくせんすみきり充ち あふりきょうじんあわあわ充ち/すんなり
 攫っとえぴぐらむ/かぜかざ透おり ひくみ/ひくみ/ひくみ尽く/し/
えぴぐらむ つくざり透おり/ぴくりあららぎ/膨くらみ/澄み純みめるらきくとおとおく/し
かいてんつづり はじめするながら/
 とどき・きえ/とおおくうく/瞼かく/きき/とおりいりとおり
瞼か/おくとおとおく情い (/) たんちょうじ拠ち 先細めひらきすらり/すらり/あわげするながら
きっぱり //むくぐ
さいごのげんじさぬ ひくみ ひくみ ひくみ 透おしするながら

鵠じ担い走り続け/はじめるながら/先拠って
情い先拠ち
彷/精気、透おり<声ぬ> 初源彷

(全行・思潮社現代詩手帖」昭和45年=1970年10月号、同人誌「あぽりあ」8号より転載)


 山本陽子<昭和18年=1943年生~昭和54年=1984年没>)は生涯を同人誌寄稿・自費出版詩人として終えた詩人で、この「遥るかする、するするながらIII」は山本陽子の詩の中で唯一同人誌「あぽりあ」から商業詩誌「現代詩手帖」に転載された詩篇です。これは山本陽子の全詩業で最大の問題作にして、発表から50年にもなる現在なお衝撃力を持つ長詩と言えるでしょう。造語とオノマトペと文法無視が氾濫し、意味のつかめないこの詩は言語というより音楽(または操作されたノイズ)の状態で書かれており、分析の不可能性すら感じさせます。また言語感覚の失調ぎりぎりに成り立つ抜き差しならさにまで踏みこんでいる詩です。山本は二十歳の時(1963年)に日本大学芸術学部映画科を中退し、同人誌「あぽりあ」創刊に参加しました。創刊号にはヘンリー・ミラー論を寄稿し、以下1969年の6号までに6篇(年に1、2篇)の詩作を発表しています。作風の転機となったのは「あぽりあ」8号の横書きの長詩「遥るかする、するするながら」(同人誌発表時には「III」はなし)で、最初で最後の商業詩誌転載作になり、以降山本は「あぽりあ」20号(1975年12月)まで12篇の横書き詩を発表しますが、前年1974年から入退院をくり返していた山本は1976年11月の「あぽりあ」23号ひさびさの縦書き詩「青春~くらがり」で同人誌への詩作発表も辞め、翌1977年2月に自費出版長編詩『青春~くらがり』の刊行以降は同人誌仲間との交友も避けるようになります。この頃から実家を出た山本はアパートに一人住まいし、午前中はビルの掃除婦を勤め、午後は読書と飲酒に耽ってろくに食事も摂らず、かつての友人ばかりか家族の訪問すら拒絶していたと言います。山本は長編詩『青春~くらがり』の続編を書き進めていましたが、1984年に肝硬変の悪化により孤独死して発見されました。享年41歳でした。おびただしいノート、遺稿は故人生前の意向によって遺族が焼却しました。

 没後2年して「あぽりあ」同人によって'60年代の縦書き詩6篇と『青春~くらがり』の未完の続編が『山本陽子遺稿詩集』(1986年)にまとめられましたが、現存する山本陽子の全詩は「あぽりあ」発表の18篇(縦書き詩7篇・横書き詩11篇)と自費出版長編詩『青春~くらがり』、『山本陽子遺稿詩集』で発表された『青春~くらがり』の続編しかありません。1990年代初頭に小出版社から各巻とも薄い全3巻+別巻1の全集がまとめられましたが(1巻=初期縦書き詩、2巻=中期横書き詩、3巻=『青春~くらがり』とその続編、別冊=散文・書簡・資料・解説)、貧弱な装幀で広告もされず、もともと少ない部数もごく限られた書店にしか流通しなかったので当時はほとんど注目されず、現在では近年30年間の日本の詩書ではもっとも古書価が高騰(各巻がバラでも定価の10倍以上もの数万円台で取引)している詩書になっています。山本陽子の詩は今後も広い読者に読まれるとは考えにくい徹底した純粋詩であり、一読して恐怖すら覚える不可解性に満ちた、現代詩の極北的作品です。しかし一定数の読者には必ず読み継がれていくだけの内実を備えているのは「遥るかする、するするながらIII」一篇からも明らかです。生前の山本陽子は同人誌仲間に難解さを指摘されると「100年後には理解される」と自負していたそうですが、少なくとも発表後50年の現在山本の詩は依然として理解されているとは言えないでしょう。ただしこの詩が日本語の可能性の限界ぎりぎりまで迫っているのはひしひしと感じられ、しかも山本以外に類例のないものであることは「遥るかする、するするながらIII」一篇が雄弁に証明しています。

アンドリュー・ヒル Andrew Hill - ソー・イン・ラヴ So In Love (Warwick, 1960)

アンドリュー・ヒル - ソー・イン・ラヴ (Warwick, 1956)

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アンドリュー・ヒル Andrew Hill - ソー・イン・ラヴ So In Love (Warwick, 1960) Full Album : https://youtu.be/wCrH1dAgEnY
Recorded in Chicago, 1956.
Released by Warwick Records W2002, 1960

(Side 1)

A1. So In Love (Cole Porter) - 6:24
A2. Chiconga (Andrew Hill) - 4:20
A3. Body And Soul (Green-Heyman-Sauer-Eyton) - 4:20

(Side 2)

B1. Old Devil Moon (Lane-Harburg) - 5:20
B2. Spring Is Here (Rogers-Hart) - 5:23
B3. Penthouse Party (Andrew Hill) - 2:47
B4. That's All (Haymes-Brandt) - 3:20

[ Personnel ]

Andrew Hill - piano
Malachi Favors - bass
James Slaughter - drums

(Original Warwick "So In Love" LP Liner Cover & Side 1 Label)

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 アンドリュー・ヒル(1931~2007)というと『Black Fire』1964を始めとする'60年代ブルー・ノート・レーベルの諸作が思い浮かび、またブルー・ノート専属契約直前の参加作(ローランド・カーク『Domino』1962、ウォルト・ディッカーソン『To My Queen』1962)が思い浮かびますが(70年代以降の諸作はカークやディッカーソンの名盤よりも聴かれていないでしょう)、ヒルにはニューヨーク進出前に出身地シカゴで幻のデビュー作を録音していました。それが1976年に初めて日本盤LPで再発され、'80年代にはスペイン盤のコピー盤が出回りで、2001年には初CD化(新装ジャケット)で再発売され、ようやく知られるようになった本作『ソー・イン・ラヴ(So In Love)』です。録音は1956年ですがオリジナル盤の発売は1960年でした。もっともワーウィック社自体が1959年創業・1960年からリリースを始めたローカル・レコード社で、最大のヒットはジョニー&ザ・ハリケーンズだったポップスの会社ですから、ジャズのアルバム発売に専門担当者がいたとは思えません。数年前にヒルのトリオが録音していた音源をワーウィック社が買い取ってアルバム発売したものと思われます。

 普通こういう場合、ヒル側のテープはあくまでデモテープで、きちんと最新録音をして発売されるものです。しかしワーウィック社はジャズのピアノ・トリオのアルバムが出せれば十分だったので、デモテープをそのまま出してしまったものと思われます。しかも4年も前の録音ですから、まだ20代のヒルたちは絶対不服だったでしょうが、マスターテープの権利がヒルにはなく制作者が原盤権ごと売却してしまったのでしょう。制作者とヒルたちは4年間にアメリカ第3位の大都市シカゴの無数のマイナー・レーベルに本作のデモテープを売りこみに回ったでしょうが、どこからも契約の話は出なかったと考えられます。やっとアルバムを出してくれるレーベルが見つかりましたが新録音しなくていい、そのまま出すと言う話になったのでしょう。もうそれでいい、そのうちシカゴを出てやるぞと思いながらなけなしのギャラをもらう。デモテープのマスター制作費はもともとヒルをマネジメントしていた制作者とヒルたちの自腹でしょうし、ワーウィック側からは新録音してもいいが制作費はアーティスト負担(インディーズ・レーベルの場合は当時も現代もそれが普通)という条件で、今さらそんな予算はないのでヒルたちもそれならこれでいい、とテープを売却したと思われます。ジャズの世界はそれほど貧乏くさいのです。

 アンドリュー・ヒルは4歳年長のビル・エヴァンスセシル・テイラー(ともに1929年生まれ)が最初のアルバム(ともに1956年9月27日録音)を出したのとスタートは一緒で、エヴァンスとテイラーが作風を確立して最初の傑作をものしたのが1959~60年ですから、『Black Fire』(63年11月録音)で再デビューしたヒルがすでに独自のスタイルを完成させていたのは、年齢的には順当です。再デビュー後のヒルエヴァンスともテイラーとも違った、類例を思いつかないような演奏をするピアニストでした。ヒルの再デビュー時にはすでにヒルより若手のマッコイ・タイナー(1938~2020)やハービー・ハンコック(1940~)がデビューしていましたが、タイナーやハンコックはエヴァンスやテイラーがバド・パウエルセロニアス・モンクレニー・トリスターノらモダン・ジャズのバップ・ピアノを丹念に学び、上手く折衷した最新のピアノ・スタイルから、さらに応用のきくスタイルを作り上げていました。そうした器用なスタイルの由来は、タイナーはコルトレーンの、ハンコックはマイルスのバンドのメンバーだった環境にもありました。ヒルは先輩ミュージシャンのレギュラー・バンドにも加入せず、自分のバンドも持たず、他のアーティストのアルバムへの参加も少なく(生涯に8枚)、管入り編成のアルバムを作っても管に主導権は取られずヒルの音楽を貫き通しました。エヴァンスは管入り編成でも秀作がありますが管楽器奏者に音楽性を合わせていた基本はピアノ・トリオのピアニストでしたし、テイラーは限られた管楽器奏者としか共演しませんでした。

 ヒルの場合困惑するのが、『So in Love』から『Black Fire』までの7年間がすっぽり抜けていることで、再発盤が出るまで誰もが『Black Fire』以前のアルバムの存在など想像しなかったほど再デビュー作は鮮烈で独創性にあふれ、ブルー・ノートは半年間でヒルのアルバムを5枚制作したほどです。ブルー・ノートがこれほど短期に大量の録音契約を交わした鍵盤奏者はモンク、ハービー・ニコルス、ジミー・スミス(オルガン)以来でした。デビュー作と再デビューまでの空白にはヒルの参加アルバムは、ローランド・カーク(マルチ木管奏者)の『Domino』(62年9月6日シカゴ録音)、ウォルト・ディッカーソン(ヴィブラフォン)の『To My Queen』(62年9月21日ニュー・ジャージー録音)、ジミー・ウッズ(アルトサックス)の『Conflict』(63年5月25・26日ロサンゼルス録音)の3枚しかなく、どれも各アーティストの名作ですが具体的な関連性はありません。カークのアルバムはワンホーン・カルテットで、ヒルは当時のカークのレギュラー・バンドだった説もありますが他に録音はなく、メンバーが給料制だったとは思えませんから(カークがレギュラー・バンドを持つのは1968年以降です)厳密にはシカゴ巡業時の常連指名メンバーだった程度でしょう。この3枚もすでに『Black Fire』直前なので、ロケーションもレーベルもばらばらですから1962年にはヒルは各地のレーベルへの売り込みが奏し、サイドマン起用されるようになったと考えられます。すると売り込み用には当時唯一のアルバムだった『ソー・イン・ラヴ』を使っていたかもしれません。

 アンドリュー・ヒルはブルー・ノート移籍の1963年以降、同レーベル在籍中の1970年までは他のアーティストでもブルー・ノート作品にしか参加しませんでした。同期間のヒル参加のブルー・ノートからの全アルバムを録音順に上げてみます。

[ Andrew Hill Discography on Blue Note ]

1963.9 :Joe Henderson/Our Thing (issued 1964.5)
1963.10 :Hank Mobley/No Room for Squares (issued 1964.6)
1963.11 : Black Fire (issued 1964.3)
1963.12 : Smokestack (issued 1966.8)
1964.1 : Judgment! (issued 1964.9)
1964.3 : Point of Departure (issued 1965.4)
1964.6 : Andrew!!! (issued 1968.4)
1965.2 : Pax (issued 2006.6)
1965.4 :Bobby Hutcherson/Dialogue (issued 1965.9)
1965.10 : Compulsion!!!!! (issued 1967.2)
1966.3 : Change (issued 2007.6)
1968.4 : Grass Roots (issued 1969)
1968.10 : Dance with Death (issued 1980)
1969.5 : Lift Every Voice (issued 1970)
1969.11 : Passing Ships (issued 2003.10)
1965-70 : One for One (issued 1975, 2LP)
1967-70 : Mosaic Select 16: Andrew Hill (issued 2005, 3CD)
1989 : Eternal Spirit (issued 1989)
1990 : But Not Farewell (issued 1991)
2005 : Time Lines (issued 2006)

 ヒルの逝去は2007年4月ですから、1966年録音の『Change』が没後発表になりました。ヒルは晩年には制作再開したブルー・ノートに復帰して円熟した境地を見せ、生涯無理のない現役を貫きます。しかしブルー・ノートはインディーの限界か録音と発売時期が行き当たりばったりで、そういうところはサヴォイやプレスティッジと変わりません。まだしもパシフィックやコンテンポラリー、ベツレヘムやリヴァーサイドは録音したものは順番に発売していました。だが比較的大手のメジャー傘下のジャズ・レーベルでもヴァーヴやアトランティック、インパルスあたりですら録音順と発売順は場当たり的だったりします。ジャズの世界はいかにいい加減かを示す一面です。ヒルの場合も21世紀になって発掘された未発表アルバムが『Change』『Passing Ships』、さらに未発表アルバム6枚分(うち1枚は75年発売の2LP『One For One』で既出、同LPのもう1枚は2006年単独CD化の『Pax』)の3枚組CD『Mosaic Select』があり、2000年と2001年の再発CD版『Grass Roots』『Lift Every Voice』には別メンバーによるアルバム全曲の未発表別ヴァージョンがカップリングされています。後追いでは実感がありませんが、実は順当に発売されたアルバムは氷山の一角だったと、発掘が進むにつれ判明しました。

 ブルー・ノートとヒルの関係はは1965年以降、明らかにおかしくなっています。この時期にまず発売されたのはタイミング遅れの旧録音で制作順と発売順も混乱を招く『Smokestack』『Compulsion!!!!! 』『Andrew!!! 』で、順調に発売されたのは『Grass Roots』と『Lift Every Voice』だけ、しかもこの2枚はアルバムまるごと別メンバーで録音し直した労作でした。'66年唯一の録音『Change』は未発表になり、'67年の未完成アルバム3枚分も未発表(『Mosaic Select』収録)、'68年は『Grass Roots』発表、『Dance with Death』は未発表、'69年『Left Every Voice』発表、『Mosaic Select』収録の未完成アルバム1枚分未発表、『Passing Ships』未発表、'70年は『Mosaic Select』収録の未完成アルバム1枚未発表で、さらに『Mosaic Select』には制作途中で中止になった69年と70年の未発表の未完成アルバムが合計アルバム1枚分収録されています。ブルー・ノートはジャズ界の良心と呼ばれ、インディーではリハーサルでも未発表セッションでもちゃんとギャラを払った唯一のレーベルと言われていますが(実際はパシフィック、コンテンポラリー、リヴァーサイドなどもそうしていたから唯一ではありませんが、サヴォイやプレスティッジ始め踏み倒しインディー・レーベルが多かったのも事実です)、10枚録音して2枚しか発売しないとは明らかにおかしい。リヴァーサイドがドラッグ代に窮して借金を申し込んできたビル・エヴァンスに、借金は断わりましたがスケジュールにないソロ・ピアノの録音を組んで発表未定ながら借金申し込み分のギャラを払った美談があるが(その音源は没後発表になりました)、それと同じなのでしょうか。しかしギャラは出てもアルバムは出ないのでは、普通アーティストはうんざりしてしまい、創作意欲は減退してしまうでしょう。

 アンドリュー・ヒルについては上記アルバムはすべて聴いていますのでまたご紹介するとして、今回はこういう特異なキャリアの'60年代ジャズ・ピアニストがいた、という概説にとどめます。『ソー・イン・ラヴ』デモテープ説は今回録音と発表年度を照らして(ジャズは録音年度しか記載されないことが多いのです)、ワーウィック社の創業年度を調べて、初めて気づいたことでした。このデビュー作については、25歳の青年ピアニストが1956年に録音したものという条件つきでなかなかのアルバムになっています。同郷シカゴの重鎮で42歳のサン・ラがデビュー作『ジャズ・バイ・サン・ラ(サン・ソング)』を発表したのと同年、エヴァンスやテイラーのデビュー作と同年と思うと一番若いヒルが手法的には一番オーソドックスなのですが、感覚には瑞々しさが漲ります。選曲センスが光るスタンダード5曲・オリジナル2曲というのもバランスが良く、オリジナル曲ではスタンダード曲とまったく異なる曲想なのもいいアクセントになっています。ニューヨークでもロサンゼルスでもない、シカゴ・ジャズらしい黒さが全編に感じられるので、「ソー・イン・ラヴ」や「ボディ・アンド・ソウル」などの大スタンダードも新鮮に聴けます。ラテン・リズムで始まるタイトル曲の6/8のワルツタイム・チェンジは1956年にあっては相当斬新で、これをジャズマンが普通にこなせるようになるのは'60年代初頭です。ドラムスのジェームズ・スローター(すごい名前ですが、検索しても他には見当たりません。同姓同名のFacebook登録がやたら多いのは、19世紀のメキシコ戦線で名高い南軍戦人の名前に由来するからのようです)は他で見かけないプレイヤーですが、控えめながらセンスの良さでアルバムに貢献しています。ヒルのオリジナルA2ではコンガとヴォイスも入りますが、サン・ラやデトロイトの巨人ユゼフ・ラティーフが当時やっていたほどエキゾチシズムはくどくありません。また、後にアート・アンサンブル・オブ・シカゴの創設メンバーになるマラカイ・フェイヴァースのベースがやはり後年の大成を予感させるプレイで光っています。

 B3のオリジナル『Penthouse Party』はタイトルからしてハービー・ニコルス『House Party Starting』を連想させすが、ニコルスの10インチ盤2枚は1955年、12インチ盤(別内容)は1956年にブルー・ノートから出ていて、タイトルは後から(本作発売年)でもつけられるからニコルス曲に由来するのかもしれませんが、他の曲でもニコルスに似た、テーマとアドリブの境がなく同時進行させるアプローチも目立ちます。ブルー・ノートにアピールしたのもそこかもしれません。エヴァンスと似たスタンダード曲の処理も多いのですが、まだエヴァンスのデビュー作は発売前の録音ですから影響関係はありません。ヒルは'60年代にはフリー・ジャズ寄りのピアニストとされましたが、'60年代のアルバムもセシル・テイラーとはまったく違っているので、同年録音のデビュー作同士を較べるとヒルエヴァンスはかなり似ていますが(エヴァンスの方が鮮烈ですが)、やはりテイラーとは全然似ていないのも確認できます。しかし'60年代のヒルエヴァンスとも全然似ていないのです。ますます本作から『Black Fire』への飛躍が気になりますが、ここではこのデビュー作『ソー・イン・ラヴ』きりのチャーミングな新人ピアニストをひっそりと楽しみたいものです。

(旧稿を改題・手直ししました)

石川啄木と『現代詩人全集』 (昭和4年=1929年~昭和5年=1930年)(後編)

(石川啄木<明治19年=1886年生~明治44年=1912年没>)
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 ここ数回に渡って古色蒼然たる『現代詩人全集』(新潮社・昭和4年~5年/1929年~1930年)をまず俎上に上げたのは、当時の日本現代詩の過渡期の詩人をご紹介したかったかです。昭和4年(1929年)といえば前年に治安維持補法改正案(つまり強化案)が決まり、その前年(昭和2年)には芥川龍之介(1892-1927)が遺書に「ぼんやりとした不安」を理由と書き残して自殺したのが社会的な衝撃を惹き起こしています。小林多喜二蟹工船』発表も昭和4年であり、第二次世界大戦につながる世界的大恐慌が起こったのも1929年です。時代の不安は昭和5年横光利一「機械」の圧倒的反響からも文学の世界に反映していました。そんな中『現代詩人全集』は正確には『明治大正詩人全集』というべき時代からズレた編集方針がかえって貴重な証言となってもいますが、そのうち現代詩史のなかで位置づけの定まらず現代の読者も少ないながら小さいとは言えない業績を残した詩人の集中した巻として、

新潮社『現代詩人全集』全12巻(昭和4年~5年)

第4巻●河井醉茗・横瀬夜雨・伊良子清白集

第6巻●石川啄木山村暮鳥三富朽葉

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 を挙げました。第4巻は明治30年代の詩誌「文庫」を代表する3人集で、第6巻は作風・人脈ともほとんど関連がないながら当時の詩の主流から孤立していた夭逝詩人の3人集です。当初の計画では第1回を『現代詩人全集』の解説、第2~3回で「文庫」派3人集、第4~5回で夭逝詩人集をご紹介する予定でしたが、始めてみるとそうもバランス良くは書き分けられないのに気づきました。「文庫」派では伊良子清白は突出しており、過渡期の詩人とは言えない独自の完成を示した人です。また夭逝詩人集でも山村暮鳥三富朽葉はむしろ読まれるのはこれからの詩人です。そこで結局、ほぼ評価の確定している河井醉茗、横瀬夜雨、石川啄木について振り返ってみることになりました(清白、暮鳥、朽葉については今後個別に取り上げます)。醉茗、夜雨、啄木と取り上げていくと、詩歴も享年も長い醉茗よりずっと短い夜雨、さらに短い啄木の方が短期間で目まぐるしく作風を変化させており、ご紹介する作品も醉茗より夜雨が多くなり(改めて良い詩人なのを実感しました)、さらに啄木は前後編に分けてご紹介しているほど作風が変わっていきます。その辺りも夭逝者ならではの生き急ぎを感じ、痛ましい思いがするのです。

 石川啄木(明治19年1886年生~明治45年=1912年没、享年26歳)は国語教科書にも出てくるような文人ですし、啄木の夭逝は明治の作家では北村透谷(明治元年=1868年生~明治27年=1894年没、享年25歳)、樋口一葉(明治5年=1872年生~明治29年=1896年没、享年24歳)に匹敵するものでしょう。透谷と一葉は没落士族の家系であり、啄木は住職家に生まれ、生前は名声とも富とも無縁に生涯を終えました。かろうじて一葉が最晩年にして「たけくらべ」で文学者間に天才を認められ、肺結核で夭逝しなければ将来が期待できた程度で、透谷は精神疾患の進行から自殺し、啄木は結核の進行も放置し破滅的な生活を送りました。透谷と啄木の場合、一葉のような創作力と将来性は晩年にはすでに失っていた、と言わざるを得ないでしょう。その辺に男女の違いを見ることもできますが、一葉のような驚異的な才能は世紀にひとり出るかどうかですから単純に女性だから、と言うわけにはいきません。明治以降の日本文学から小説ただ1作を選ぶとすれば鴎外でも漱石でも谷崎でもない、珠玉の短編小説「たけくらべ」に屈指するしかなく、世界的レベルで古典と断言できる日本の小説は『源氏物語』と「たけくらべ」に尽きるとも言えます。これは24歳で夭逝した女性に与えられた運命としては過大にすぎ、しかも過労と病苦と貧困の中で死んでいき、後には紙幣に肖像が使われる、という悪趣味な栄誉を授かっています。しかし読者にとって啄木は一葉よりずっと身近な感じを与えます。一葉は完全に古典ですが、啄木にはまだ古典で済まされないところがある。切れば血の出るような生身の青年・啄木を感じさせる面があるからこそ、その作品は現在でも読まれていると言えるでしょう。

 前編では第一詩集にして生前唯一の詩集『あこがれ』(明治38年=1905年)から2編、『あこがれ』収録作以降の作品をまとめた未刊詩集『黄草集』(明治39年1906年)から2編、年間4回の転職に明け暮れた明治40年を挟んで書かれた、ひさしぶりのまとまった連作「泣くよりも」4編(明治41年=1908年6月)、明治42年(1909年)12月に新聞連載された連作「心の姿の研究」5編までの作品を追いました。『あこがれ』と「黄草集」は薄田菫泣、上田敏蒲原有明らの影響を器用に消化していた習作時代とすれば、「泣くよりも」「心の姿の研究」は口語自由詩による自然主義的な方向性にむかっています。「文庫」出身の川路柳虹(1888-1959)による日本初の口語詩「塵溜」(明治40年=1907年)は口語詩というより自然主義詩として、おそらく啄木にとっては出し抜かれた思いだったでしょうし、柳虹の第1詩集『路傍の花』(明治43年=1910年)は啄木の「泣くよりも」「心の姿の研究」の時期と重なるものです。ここまでを石川啄木の詩歴の前編としたのには根拠があります。

 石川啄木は自由詩の詩人としてより、独自の三行分けによる歌集『一握の砂』『悲しき玩具』の歌人として愛読されています。生前刊行の唯一の歌集『一握の砂』は明治43年(1910年)春にまとめられ、同年12月に出版されます。この年は政治新聞主筆幸徳秋水らに無政府主義による国家転覆計画の冤罪で見せしめ的な死刑執行が行われ(大逆事件)、東京朝日新聞の校正係だった啄木はつぶさに報道の動向を追って国家の強権に衝撃を受けます。朝日新聞では短歌欄の選者にも抜擢されますが、秋に生まれた長男を3週間で亡くします。この年は1月に1編の詩作があるだけで短歌、評論、短編小説に力をそそいだ年になりました。

 今回ご紹介する連作と小詩集は啄木の詩作歴の最晩年の最終局面を示す作品で、連作「詩六編」はまる1年ぶりに明治44年(1911年)1月執筆、雑誌「精神修養」2月号に一挙掲載されたもの。また小詩集『呼子と口笛』は同年6月に大半が書かれ、全8編中後から書かれた「家」「飛行機」以外の6編は親友若山牧水の「創作」同年7月号に連作詩「はてしなき議論の後」一~六として掲載されました。つまり啄木には『あこがれ』以降本人が生前編集した未刊詩集が『黄草集』と『呼子と口笛』の2冊あるのですが『黄草集』は途中で投げ出し、『呼子と口笛』の清書ノートには目次にも本文にも作品を増補していく予定の空欄が空いており、ともに内容は未完に終わっています。

 啄木の詩は初期の『あこがれ』『黄草集』(明治36年明治39年)は新体詩期と言え、明治40年は生活問題でブランク、連作「泣くよりも」(明治41年)を媒介に後期の始まりを告げる連作「心の姿の研究」(明治42年)から明治43年には歌集編纂や評論の多忙、また大逆事件による思想的ショックからのブランクがあり、明治44年に「詩六編」(1月)、『呼子と口笛』(6月)が書かれ、7月には病状が悪化、家庭内にも不和が絶えず、啄木は新聞社で『二葉亭四迷全集』の編纂に携わることになります。啄木校訂の本文はその後の『二葉亭全集』にも戦後までそのまま踏襲され、1980年代半ばから刊行された新版二葉亭全集で初版本の復刻が本文とされるまで各社の文庫、文学全集の底本となっていました。

 次に掲げる「詩六章」(明治44年=1911年2月)は明治42年12月の連作「心の姿の研究」以来まる1年ぶりの自由詩で、明治43年は歌集『一握の砂』と盛んな評論活動、大逆事件ノート(戦後の全集で公刊)、長男の死と、「泣くよりも」(全8編のうち4編が「明星」明治41年6月、全編は没後刊行の『啄木遺稿』)や「心の姿の研究」で自然主義的な心境詩に変化していた作風が短歌や評論に結実していたのです。「泣くよりも」や「心の姿の研究」は萩原朔太郎の第1詩集『月に吠える』(大正6年2月刊)の収録作品を連想させる発想や技巧、文体がありますが、同詩集収録作品の大部分の発表は大正3年9月~大正6年2月ですから萩原が心酔していた『啄木遺稿』(大正2年=1913年5月刊)からの直接的影響があってもおかしくありません。萩原は啄木と同年生まれですが本格的な詩作は啄木逝去の翌年、大正2年からです。萩原は日本では西行芭蕉と並ぶ真の詩人に啄木を上げているほど啄木を崇拝しており、啄木が生前残した自然主義的な試作を萩原が積極的に継承したのはごく自然な影響関係でした。

 さらに日記には雑誌編集部への送付が記録されていたのに、原稿の所在不明で昭和33年まで未発表だった「詩六章」は内容は他愛もなく、晩年の政治的関心や『一握の砂』の達成からおそらく意図的に後退した日常茶飯詩ですが、ここで創造された文体だけはまったく新しいもので、「泣くよりも」や「心の姿の研究」からさらに飛躍して尾形亀之助(1900-1942)や中原中也(1907-1937)ら昭和初期のダダイズムの系譜を継ぐ詩人の作風を先取りしているようです。詩としては秀作でも何でもなく、同人誌の埋め草に載せて詩集には収録しないような凡作ですが、それだけに文体の新しさだけは際立っています。啄木自身もこの新しさには気づいていなかったと思われることから、余計に未発表作品に終わったことが惜しまれるのです。

詩六章  石川啄木

一、路傍の草花に


何といふ名か知らないが、
細い茎に粟粒のやうな花をもつた
黄いろい草花よ、
路傍の草花よ。
――何だか見覺えがある。

銀のやうな秋風が吹いて、
黄いろな花が散つてゐる。

あゝ、さうだつけ。――
中學校の片隅の
あの黒壁の圖書庫の蔭に隠れて、
憎まれ者の私が、
濡らした頬もぬぐはずに
ぢつと見たのもお前だつたが――

長いゝゝ前のことだ。
あの眇目(めつかち)の意地悪は、
破れ靴を穿いた級長は、
しよつちゆう眼鏡を懸けたり脱(はづ)したりし乍(なが)ら、
よく私と喧嘩した蒼白い英語教師は、
今はみな何(ど)うなつてゐるやら。
銀のやうな秋風が吹いて、
粟粒のやうな黄いろい花が
ほろゝゝと散つてゐる。

二、口笛


少年の口笛の気がるさよ、
なつかしさよ。
青塗(あをぬり)の自動車の走(は)せ過ぎたあとの
石油のにほひに噎(む)せて
とある町角に面を背けた時、
私を振回(ふりかへ)つて行つた
金ボタンの外套の
少年の口笛の気がるさよ、
なつかしさよ。

三、手紙


「もう十年も逢はないが、
君はやつぱり昔どほり
元氣が盛んだらう。」と
その手紙に書いてあつた。――

湯にでも這入(はい)らうかと
それ一つを望みに、
ぐつたり疲れて歸つた時、
机の上に載つてゐた
昔の友の手紙に。

四、花かんざし


上野公園の前の廣場の
花見時の人ごみの中を――
華やかなパラソルの波の中を、
無雑作におし分けながら、
大きな青風呂敷の包みを肩にして、
帽子もかぶらずに、
のそりゝゝゝと歩いて行つた丈(せい)の高い男よ。

あの、人を莫迦(ばか)にしたやうな髯面が
今でも目に見える。――
擦りきれた黒羅紗の背広の
がんじやうな肩附も、
大きな青風呂敷の包みも、
さうだ、それから、あの
(私はそれが悲しいのだが)
左の胸の衣嚢(かくし)に挿した
紅(あか)い花かんざしも。

五、あゝほんとに


夜店で買つて來た南天の鉢に、
水をやらずに置いたら、
間もなく枯れてしまつた。

棄てようと思つて、
鉢から抜いてみると、
根までからゝゝ乾(ほ)せてゐた。

「根まで乾せるとは――」
その時思つたことが
妙に心に残つてゐる。――
あゝほんとに
根まで乾せるとは――

六、昨日も今日も


めらゝゝと、
またゝく間にめらゝゝと
焼けてしまふ紙の快いかな。

湿つた粘土の塊のやうなものが
我が頭にあり、
昨日も、今日も。

めらゝゝと、
またゝく間にめらゝゝと
焼けてしまふ紙の快いかな。

(初出発表・明治44年=1911年2月「精神修養」)


 啄木最後の自由詩作品になったのが未刊詩集『呼子と口笛』で、原型となったのは親友・若山牧水主宰の詩歌誌「創作」明治44年7月号掲載の連作詩「はてしなき議論の後」で各詩編には個別のタイトルはなく、「一」から「六」まで通し番号が振られているだけでした。これは雑誌発表前の創作ノートが残っており、全9編を書いた内から3編を没にし選んだ6編を推敲したのが雑誌発表型です。その6編に個別のタイトルをつけ、さらに新作「家」と「飛行機」を足して、清書ノートや目次にはまだ作品を追加する余白がとってありました。最後の作品「飛行機」以降の作品は、扉絵やカットの図案まで計画していたこの第2詩集の構想には追加されませんでした。明治44年の春には啄木の病状は肺結核に進行しており、夫人の実家とは結婚以来の確執から初夏に絶交しますが、秋口に啄木が高熱から1週間寝込んだ際に夫人も肺尖カタルが感染しているのが判明します。啄木には浪費癖があり、数年来肋膜炎の治療も受けず女郎屋通いを続けてきましたが、遂に夫人も家事すらできず啄木の母がすべての家事を担うことになります。さらに家計の貧窮に苦しんで父親が失踪、友人たちからは借金を重ね(啄木夫人を誘惑したと疑いをかけられ絶交された友人もいました)、心身ともに消耗して行きます。啄木の創作活動は短歌の執筆のみになり、『二葉亭四迷全集』の編集も続けられなくなりました。翌明治45年(1912年)は啄木最後の年で、1月に入って間もなく母が喀血して病床に就きます。診断結果は慢性の肺炎で、3月7日に急逝しました。4月5日には啄木も重篤状態になり、親友・土岐哀果が出版社に第2歌集『悲しき玩具』出版契約をまとめて前渡し原稿料を病床に届けたのが4月9日です。4月13日早朝危篤に陥り逝去しました。第2歌集『悲しき玩具』が東雲堂書店から刊行されたのは6月のことで、その反響を受けて翌大正2年6月には同社は単行本未収録・未発表の詩や評論・随筆を集めた『啄木遺稿』を土岐哀果の編纂で上梓します。なお啄木夫人は懐妊中で啄木逝去2か月後の6月14日に次女が生まれましたが、翌大正2年5月に肺結核で2児を遺して逝去しました。

 26歳で亡くなった人に最晩年という言葉は残酷ですが、未完にして未刊に終わり、『啄木遺稿』で公刊された『呼子と口笛』が自由詩では啄木の最後の作品になり、『一握の砂』以降晩年までの短歌作品が土岐哀果と啄木の共同編集によって『悲しき玩具』になったわけです。『一握の砂』は啄木嫌いの歌人も認める場合が多いのですが、『悲しき玩具』は啄木を高く評価する歌人にもあまり評判が良くないのです。また、日本のプロレタリア文学の傑作として『呼子と口笛』を評価する批評家は初期の『あこがれ』を評価せず、公正な研究者からは『あこがれ』の正当な再評価が進められる(だが浸透しない)という、没後100年を越えて未だ評価の定まらない面が啄木にはあります。個別の作品にはそれほど高く評価できなくても、短い生涯の全体像で迫ってくる訴求力があり、それが冷静な評価を防げてもいるでしょう。啄木の逝去10か月前に書かれた『呼子と口笛』には、その半年前の作品「詩六章」にあった軽やかな哀感は半数ほどの短詩に見られはするもの、主要な作品はもっと力んだ、プレ・プロレタリア文学的主張を露わにした長詩(「V NAROD !」は「民衆とともに!」という意味)です。それが「家」のような逃避願望と表裏一体となっているのが啄木の率直さとも言えますが、その「家」にしても「はてしなき議論の後」「ココアのひと匙」「激論」「墓碑銘」などの主要詩編などは主題に主張が絡むだけに技巧に作為性が目立っていて、むしろ「書斎の午後」や「古びたる鞄をあけて」、そして素晴らしい短詩「飛行機」など他愛ないようなものが技巧と主題の調和のとれた冴えを見せている、という感想があってもいいでしょう。また、連作「泣くよりも」までは文語詩で連作「心の姿の研究」からは口語詩になったのが、『呼子と口笛』でふたたび文語詩に戻ったものの、初期の柔らかい和漢混交体から硬い漢文脈の文体に変化したのも注目されます。この文体の変化によって得たものと失ったものがあり、得たものもありますが失ったものはそれ以上に大きいとも見えるのです。

呼子と口笛  石川啄木

(石川啄木自筆版小詩集ノート扉絵・カット・本文)
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はてしなき議論の後


われらの且(か)つ讀み、且つ議論を闘はすこと、
しかしてわれらの眼の輝けること、
五十年前の露西亜(ロシヤ)の青年に劣らず。
われらは何を為すべきかを議論す。
されど、誰一人、握りしめたる拳(こぶし)に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出(い)づるものなし。

われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
また、民衆の求むるものの何なるかを知る、
しかして、我等の何を為すべきかを知る。
実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

此處にあつまれるものは皆青年なり、
常に世に新らしきものを作り出(い)だす青年なり。
われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。
見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。
されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

ああ、蝋燭(らふそく)はすでに三度も取り代へられ、
飲料(のみもの)の茶碗には小さき羽蟲の死骸浮び、
若き婦人の熱心に變りはなけれど、
その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。
されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
‘V NAROD !’と叫び出づるものなし。

1911. 6. 15. TOKYO

ココアのひと匙


われは知る、テロリストの
かなしき心を――
言葉とおこなひとを分ちがたき
ただひとつの心を、
奪はれたる言葉のかはりに
おこなひをもて語らむとする心を、
われとわがからだを敵に擲(な)げつくる心を――
しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有(も)つかなしみなり。

はてしなき議論の後の
冷めたるココアのひと匙を啜りて、
そのうすにがき舌觸りに、
われは知る、テロリストの
かなしき、かなしき心を。

1911. 6. 15. TOKYO

激論


われはかの夜の激論を忘るること能(あた)はず、
新しき社會に於ける「權力」の處置に就きて、
はしなくも、同志の一人なる若き經濟學者Nと
我との間に惹き起されたる激論を、
かの五時間に亙(わた)れる激論を。

「君の言ふ所は徹頭徹尾煽動家の言なり。」
かれは遂にかく言ひ放ちき。
その声はさながら咆(ほ)ゆるごとくなりき。
若(も)しその間に卓子(テエブル)のなかりせば、
かれの手は恐らくわが頭(かうべ)を撃ちたるならむ。
われはその淺黒き、大いなる顔の
男らしき怒りに漲(みなぎ)れるを見たり。

五月の夜はすでに一時なりき。
或る一人の立ちて窓をあけたるとき、
Nとわれとの間なる蝋燭の火は幾度か揺れたり。
病みあがりの、しかして快く熱したるわが頬に、
雨をふくめる夜風の爽かなりしかな。

さてわれは、また、かの夜の、
われらの會合に常にただ一人の婦人なる
Kのしなやかなる手の指環を忘るること能はず。
ほつれ毛をかき上ぐるとき、
また、蝋燭の心を截るとき、
そは幾度かわが眼の前に光りたり。
しかして、そは實にNの贈れる約婚のしるしなりき。
されど、かの夜のわれらの議論に於いては、
かの女(ぢよ)は初めよりわが味方なりき。

1911. 6. 16. TOKYO

書斎の午後


われはこの國の女を好まず。

讀みさしの舶来の本の
手ざはりあらき紙の上に、
あやまちて零(こぼ)したる葡萄酒の
なかなかに浸みてゆかぬかなしみ。

われはこの國の女を好まず。

1911. 6. 15. TOKYO

墓碑銘


われは常にかれを尊敬せりき、
しかして今も猶(なほ)尊敬す――
かの郊外の墓地の栗の木の下に
かれを葬りて、すでにふた月を經たれど。

實に、われらの會合の席に彼を見ずなりてより、
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしかど、
なくてかなはぬ一人なりしが。

或る時、彼の語りけるは、
「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能(あた)はず、
されど、我には何時にても起(た)つことを得る準備あり。」

「かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す。」
同志の一人はかくかれを評しき。
然(しか)り、われもまた度度(たびたび)しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。

かれは労働者――一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き、
暇あれば同志と語り、またよく讀書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。

かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は、
かのジユラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて病の床に横はりつつ、
なほよく死にいたるまで譫語(うはごと)を口にせざりき。

「今日は五月一日なり、われらの日なり。」
これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。
その日の朝(あした)、われはかれの病を見舞ひ、
その日の夕(ゆふべ)、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの廣き額と、鉄槌のごとき腕(かひな)と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として、
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、
「われには何時にても起つことを得る準備あり。」

1911. 6. 16. TOKYO

古びたる鞄をあけて


わが友は、古びたる鞄をあけて、
ほの暗き蝋燭の火影(ほかげ)の散らぼへる床に、
いろいろの本を取り出(い)だしたり。
そは皆この國にて禁じられたるものなりき。

やがて、わが友は一葉の寫眞を探しあてて、
「これなり」とわが手に置くや、
静かにまた窓に凭(よ)りて口笛を吹き出だしたり。
そは美くしとにもあらぬ若き女の写真なりき。

1911. 6. 16. TOKYO


今朝も、ふと、目のさめしとき、
わが家と呼ぶべき家の欲しくなりて、
顔洗ふ間もそのことをそこはかとなく思ひしが、
つとめ先より一日の仕事を了へて歸り來て、
夕餉(ゆふげ)の後の茶を啜り、煙草をのめば、
むらさきの煙の味のなつかしさ、
はかなくもまたそのことのひよつと心に浮び来る――
はかなくもまたかなしくも。

場所は、鐵道に遠からぬ、
心おきなき故郷の村のはづれに選びてむ。
西洋風の木造のさつぱりとしたひと構へ、
高からずとも、さてはまた何の飾りのなくとても、
廣き階段とバルコンと明るき書斎……
げにさなり、すわり心地のよき椅子も。

この幾年に幾度も思ひしはこの家のこと、
思ひし毎(ごと)に少しづつ変へし間取りのさまなどを
心のうちに描きつつ、
ラムプの笠の眞白きにそれとなく眼をあつむれば、
その家に住むたのしさのまざまざ見ゆる心地して、
泣く児に添乳(そへぢ)する妻のひと間の隅のあちら向き、
そを幸ひと口もとにはかなき笑(ゑ)みものぼり来る。

さて、その庭は廣くして、草の繁るにまかせてむ。
夏ともなれば、夏の雨、おのがじしなる草の葉に
音立てて降るこころよさ。
またその隅にひともとの大樹を植ゑて、
白塗の木の腰掛を根に置かむ――
雨降らぬ日は其處に出て、
かの煙濃く、かをりよき埃及(エジプト)煙草ふかしつつ、
四五日おきに送り来る丸善よりの新刊の
本の頁を切りかけて、
食事の知らせあるまでをうつらうつらと過ごすべく、
また、ことごとにつぶらなる眼を見ひらきて聞きほるる
村の子供を集めては、いろいろの話聞かすべく……

はかなくも、またかなしくも、
いつとしもなく若き日にわかれ來りて、
月月のくらしのことに疲れゆく、
都市居住者のいそがしき心に一度浮びては、
はかなくも、またかなしくも、
なつかしくして、何時(いつ)までも棄つるに惜しきこの思ひ、
そのかずかずの満たされぬ望みと共に、
はじめより空(むな)しきことと知りながら、
なほ、若き日に人知れず戀せしときの眼付して、
妻にも告げず、真白なるラムプの笠を見つめつつ、
ひとりひそかに、熱心に、心のうちに思ひつづくる。

1911. 6. 25. TOKYO

飛行機


見よ、今日も、かの蒼空(あをぞら)に
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたつた二人の家にゐて、
ひとりせつせとリイダアの獨学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

1911. 6. 27. TOKYO

(初出発表・明治44年=1911年7月「創作」/後「家」「飛行機を追加/『啄木遺稿』大正2年=1913年5月・東雲堂書店)

(旧稿を改題・手直ししました)

トラフィック・サウンド Traffic Sound - ヴァージン Virgin (MaG, 1970)

トラフィックサウンド - ヴァージン (Mag, 1970)

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トラフィックサウンド Traffic Sound - ヴァージン Virgin (MaG, 1970) Full Album : https://youtu.be/VTXcEWMi0B8
Originally Released by MaG Records Peru, MaG-LPN 2382, 1969 or 1970
Todas las canciones escritas y arregladas por Traffic Sound, Letras de Manuel Sanguinetti
(All Music and Arrenged by Traffic Sound, Lyrics by Manuel Sanguinetti)

(Lado A; Tomorrow) - 16:20

A1. Virgin - 2:58
A2. Tell The World I'm Alive - 4:17
A3. Yellow Sea Days - 9:09
(A3a. March 7th - 3:27)
(A3b. March 8th - 2:10)
(A3c. March 9th - 3:28)

(Lado B; Today) - 16:25

B1. Jews Caboose - 4:34
B2. A Place In Time Call "You And Me" - 0:35
B3. Simple - 3:26
B4. Meshkalina - 5:34
B5. Last Song - 2:17

[ Traffic Sound ]

Manuel Sanguinetti - 1゚Voz, Voces, Percusion (lead vocal, vocals, percussion)
Willy Barclay - 1゚Guitarra, Guitarra Acustica, Coros(1゚Voz en Simple) (lead guitar, acoustic guitar, backing vocals, lead vocal on "Simple")
Freddy Rizo Patron - Guitarra Ritmica, Guitarra Acustica, Bajo (rhythm guitar, acoustic guitar, bass)
Willy Thorne - Bajo, Organo , Piano, Guitarra, Coros (bass, organ, piano, guitar, backing vocals)
Luis Nevares - Bateria, Vibrafono, Percusion, Coros (drums, vibraphone, percussion, backing vocals)
Jean-Pierre Magnet - Saxo, Clarinete, Flauta, Tumbadora, Coros (saxophone, clarinet, flute, tambourine, backing vocals)

(Original Mag "Virgin" LP Liner Cover, Gatefold Inner Cover & Lado A Label)

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 本作がイギリスで初CD化され世界的に認知されたのはようやく2005年のことでしたが、これほど素晴らしいアルバムがマニア以外にはほとんど知られず残っていたとはにわかには信じ難いほどです。従来このバンドやこのアルバムが印刷媒体で紹介されているのを見たことがなく、調べてみると実際国際的な紹介も1992年の本国でのCD再発、1997年のアメリカでのベスト盤発売と2002年の単独盤発売、2005年のイギリス盤発売、2007年のイタリア盤発売とようやく近年進んできたばかりで、まだ再評価の途上にあるのですが、本作はこれを聴いているかいないかで世界のロックの見取り図が一変するとも言える作品です。さすがにコアな研究サイトには取り上げられていますが、ウィキペディアでも現時点では英語版とスペイン語版でしか載っていません。1960年代末デビューのペルーのバンドとしか情報がなければ、当初はジャケットともども大した期待は持ちようがないでしょう。全曲メンバーのオリジナル曲ということは裏目に出ればろくな曲が入っていない可能性もあります。ペルーはスペイン語圏で、500年前までは紀元前までさかのぼって2000年以上もの間世界最高の文化を誇ったインカ帝国の中心地でしたが、インカ帝国な文明は言語や数学こそあったと推定されてはいるもののカースト制度を維持するために徹底した無文字文化を貫いていたため、スペイン帝国に侵略された後はインカ文明の記録も謎に包まれてしまいました。そういう特異な歴史を持つ国に英米のポピュラー音楽が流入した結果生まれたロック・バンドがどういう音楽をやっているのか、これは聴くまでは想像もつきません。

 アルバム・タイトル曲A1は12弦アコースティック・ギターによる6/8拍子の爽やかなアルペジオの導入部から一斉にバンドのアンサンブルが始まると、パーカッションを前面に緩やかな4/4拍子で快適なコード・ワークのギターが鳴り響き、いきなり痺れます。これでもう勝負あったという感じがする鮮やかなイントロです。張りのある素晴らしい声質のヴォーカルは英語詞で、リズム・ブレイク部にはトレモロのかかったピアノのアルペジオが位相バランスを違えたあの世から響いてきます。ミックス全体がストレンジでパーカッションや管楽器が不思議なサウンドで絡んできます。これはラテン系の英米バンドやヨーロッパ大陸のバンドからは出てこない独創的なラテン・ロックで、英米ロックから学んだ手法も当然応用されたサイケデリック・ロックですが、ペルーのバンドならではの感性が自然にプログレッシヴなサイケデリック・ロックに結実したものでしょう。スケールはそれほど大きくありませんが、珠玉のような佳作、いっそ名作と喧伝しても誇大評価にはなりません。全8曲すべて佳曲で見事な構成でアルバムが組み立てられています。サンタナのようなラテン系アメリカン・ロックとは決定的に違うのは、南米人らしいソフト・ロック志向とラテン・リズムを違和感なく同居させた音楽性にあります。つまりハード・ロック指向はトラフィックサウンドにはなく、それがバンドを小粒にもしていますが、英米ロックやユーロ・ロックと袂を分かつ魅力にもなっています。先に第1作『バイラー・ア・ゴーゴー(A Bailar Go Go)』がいかに大したことのないアルバムか暴露してしまいましたが、あれはまだこのバンドの本領発揮の作品ではなかったということです。本作は無条件に諸手を上げて推薦したいアルバムです。ただし柄の大きなバンドではないから、けっして派手な音楽ではありません。

 1967年に結成、翌1968年にシングル・デビューしたペルーのロック・バンド、トラフィックサウンドは1972年の解散までに4枚のアルバムを残しました。シングル6枚・12曲のうちアルバム未収録曲が6曲あります。アルバムはいずれも1990年代半ばまではペルー国内盤のみで、
1. A Bailar Go Go (MaG, 1968)
2. Virgin (MaG, 1969)
3. Traffic Sound (a.k.a. III) (a.k.a. Tibet's Suzettes) (MaG, 1970)
4. Lux (Sono Radio, 1971)
 があり、1990年代末からようやくアメリカ、イギリス、イタリアのサイケデリック・ロック復刻レーベルから国際的に紹介されることになりました。日本にも南欧のスペイン、ポルトガルのロックとともにラテン・アメリカ諸国のロックからは大国であるブラジル、アルゼンチン、メキシコのバンドが多少は入ってきていましたが、ペルーのロック、しかも'60年代末~'70年代初頭という時代となるとアルバムの実物を聴く機会もあまりありません。一応1980年代末までには'60年代末~'70年代初頭のガレージ・パンク~サイケデリック・ロックプログレッシヴ・ロックには熱心なリスナーによる調査と情報交換が進んでおり、たとえば日本のGS~ニューロックの流れは日本人が思っていたほど偏向した歪曲輸入ではなく、英米の衛星国圏ではむしろ典型的な受容パターンだったことが判明しました。トラフィックサウンドの最初のアルバム『バイラー・ア・ゴーゴー』は最初の3枚のシングルの全6曲からなり、全曲英米ロックのカヴァーで、地球の裏側でも日本のGSがやっていたようなアルバムで、しかも日本人GSより見劣りする水準のものでした。それは同作の紹介で解説した通りです。

 ところが翌1970年(1969年発売と1970年発売の2説ありますが、慎重を期して後の発売年を採ります)のアルバム『ヴァージン(Virgin)』は全曲メンバー全員合作によるオリジナル曲で、これが同じバンドかと見違えるような独創的な名盤になっています。サンタナのデビュー・アルバムは1969年8月発売ですが、サンタナに先立つアメリカ西海外ロックでは、メキシコ音楽からの影響でロサンゼルスのバンドのザ・ドアーズやスピリットなどがラテン・リズムのロック曲を作っていました。ニューヨークではキューバ経由でアフロ・リズムの導入が1940年代末のビ・バップのジャズマンによって行われ、'60年代にはフォー・シーズンズヤング・ラスカルズ、レフト・バンクらイタリア系移民の白人バンドがソウル・ミュージックとラテン・リズムを融合させたモダンなスタイルのロックを成功させています。トラフィックサウンドの『ヴァージン』はサンタナとの影響関係は制作時期的に稀薄と思われますが、ラスカルズのカヴァーは『バイラー・ア・ゴーゴー』にあり、同作でアイアン・バタフライもカヴァーしているからには同系統のバンドだったドアーズやスピリットからの感化はすでにあったと思われます。

 実際『ヴァージン』のB1「Jews Caboose」はドアーズの変型オリジナル・ブルース「ソウル・キッチン(Soul Kitchen)」を連想させるリフから作られています。このアルバムは大別すればアコースティック・ギターとピアノにフルートが舞うドリーミーなサイケ系ソフト・ロックと、エレクトリック・ギターとオルガンが奏でるリフにサックスやクラリネットがダーティに絡むダンサブルなヘヴィ(このバンドとしては)・サイケ曲に分かれていますが、A1「Virgin」はその中間的作風でアルバムを代表し、A2「Tell The World I'm Alive」、B3「Simple」、アルバム最後のインスト曲B5「Last Song」はドリーミーなソフト・サイケ・ロックになります。A3の「Yellow Sea Days」は9分09秒の大作ですが三部構成になっており、フローティングなソフト・サイケのA3a「March 7th」からヘヴィ・サイケのA3b「March 8th」に展開し、再び曲調が「March 7th」に戻ってサイケデリックなコーラスが飛び交うA3c「March 9th」になります。この「Yellow Sea Days」はフランスのゴングを先取りしたようなスペース・サイケ=プログレッシヴ・ロックという先駆的な楽曲で、後年のゴングに較べればプリミティヴですが見事に成功しています。

 このアルバムはA面が「Tomorrow」、B面が「Today」とされているのも意欲的なコンセプトを感じさせ、B1「Jews Caboose」とB4「Meshkalina」は強力なラテン・ロックです。35秒しかないヴォーカル・コラージュB2「A Place In Time Call "You And Me"」はハードなB1とソフトなB3「Simple」の橋渡しのためのギミックでしょう。B5「Last Song」はアルバムのトータル感のために最終曲に配されたアコースティック・インストで悪くはありませんが、A面B面合わせて32分の短い収録時間ではアコースティック・ギター1本のインスト曲だけではもったいないような気がします。B1「Jews Caboose」とB4「Meshkalina」はサンタナの「Jingo」や「Evil Ways」を思わせるこのバンドとしてはハードな曲で、ラテン音楽というと熱いタイプの音楽を連想しがちですが、アジアの大衆音楽同様庶民的な音楽はむしろソフトなものが好まれます。欧米型のポップスやロックは南米やアジアの大衆音楽基準では刺激が強すぎると感じられるのです。トラフィックサウンドの音楽はソフト・ロックのリラクゼーション曲ととラテン・リズムのダイナミックでダンサブルな曲が半々ですが、日本のサイケデリック・ロック愛好家はガレージ系のサウンドを好む人が多く、また英米以外のグローバル・ロック愛好家はそのままプログレッシヴ・ロック愛好家であることが多いので、トラフィックサウンドサイケデリック・ロック愛好家にはガレージ度が低く、プログレッシヴ・ロック愛好家にはサイケデリック色が強すぎるという不利な面もあります。再評価の遅れはそれが原因でしょう。

 英語版ウィキペディアでは先のリスト通りの4枚のアルバムを、それぞれファースト・アルバムからフォース・アルバム(かつラスト・アルバム)としていますが、スペイン語ウィキペディアでは『バイラー・ア・ゴーゴー』は後年のコンピレーションCD、
・Traffic Sound 68-69 (Background, 1993)
・Greatest Hits (Discos Hispanos, 1998)
・Yellow Sea Years: Peruvian Psych-Rock-Soul 1968-71 (Vampi Soul, 2005)
 と同様に編集盤扱いされています。確かに『バイラー・ア・ゴーゴー』は1968年発売の3枚のシングルAB面全6曲をまとめただけの、収録時間22分そこそこのミニアルバムで、全曲が英米ロックのカヴァーでした。スペイン語ウィキペディアでは『ヴァージン』をファースト・アルバムとして、初期シングル集『A Bailar Go Go』はバンドの前史とし、『Traffic Sound』をセカンド、『Lux』をサード&ラスト・アルバムとしています。実際『ヴァージン』からはトラフィックサウンドのレコード発売はアルバム優先になります。初期シングル6枚のうち「Sky Pilot b/w Fire (MaG, 1968)、「You Got Me Floating b/w Sueno (MaG, 1968)、「I’ m so Glad b/w Destruction」(MaG, 1968)はそのまま『バイラー・ア・ゴーゴー』全曲になっています。以降のシングル3枚「La Camita b/w You Got to Be Sure」 (MaG, 1971-Sono Radio, 1971)、「El Clan Braniff b/w Braniff style - Usa version」(Sono Radio, 1971)、「Suavecito b/w Solos」 (Sono Radio, 1972)はAB面ともすべてアルバム未収録曲で、アルバム『ヴァージン』『Traffic Sound』『Lux』からは1曲もシングル・カットはされていません。

 シングル・スリーヴ、いわゆるペラジャケが標準だった当時、『ヴァージン』はシングル・スリーヴ盤とWジャケット盤(見開きジャケット、ゲイトフォールド・スリーヴ)の両方の仕様で発売されました。裏ジャケットに歌詞が掲載されているのも世界的にまだポピュラー音楽のLPでは珍しいことでした。物価指数からすると当時のLPレコードの価格は今日の20倍(約4万円相当)になりますが、原価率のうちジャケットの占める割合が大きかった当時、『ヴァージン』の豪華版ジャケットはインパクトの強い、思い切ったものだったでしょう。日本に置き換えると、前代未聞の豪華ジャケットで発売されたフォーク・クルセダーズの『紀元貮阡年』1968や、質素なシングル・ジャケットながらリーダー早川義夫の長文セルフ・ライナーノーツを掲載して異彩を放った『ジャックスの世界』1968を思い起こさせます。フォークルとジャックスはGS全盛期の2大異端グループで、次世代のロックを予期したバンドでした。ペルー全体のシーンはまだ未知数の部分が大きいのですが、『ヴァージン』は画期的な新世代ロック宣言の意気込みが課せられていたアルバムだったのがうかがわれます。

 シングル・カットはされていませんが、『ヴァージン』収録曲でペルー・ロック史の記念碑的名曲と名高いのはB4「Meshkalina」のようです。これはインカ帝国から後のペルーが継承した文化を考察した歌詞で、アルバム中でももっとも攻撃的なサウンドで歌われています。アルバムの半数を占めるソフト・ロック的な方向性とは逆方向を向いた曲で、次作『Traffic Sound』や最終作『Lux』ではいっそう「Meshkalina」系の方向性が追求されることになります。これも英語詞ですがインカ~ペルー史を知らないと理解のできない歌詞ですから筆者の手に剰るので、原詞だけ引いておきます。

[ Meshkalina ]

Letras de Manuel Sanguinetti

Yahuar Huaca wondered why he was high once
Raped the witch and killed the wild Ayarmaca
 Let me down meshkalina
 Let me down meshkalina
Full of bull he was, oh God let me tell you
Spread the weed one day, all over his empire
 Let me down meshkalina
 Let me down meshkalina
F*** stayed for fifteen days in his lab once
He said, "Man it's here, let's try my new substance"
 Give me some meshkalina
 Give me some meshkalina
We went driving hard and wild across the country
We were having fun, even though we were dying
 Let me die meshkalina
 Let me die meshkalina
Now I know it's time for you to start learning
About the games we play everyday, every morning

 次作『Traffic Sound』、ラスト・アルバム『Lux』までトラフィックサウンドは挑戦的な音楽を作り続けました。このバンドはヴォーカルが良く演奏に一体感があるのが何より素晴らしく、キャリアは短く小粒ながら、絶頂期の数年間ならば英米のクイーンやエアロスミス、ユーロ圏のアンジュ(フランス)、カン(ドイツ)、特にオザンナ(イタリア)を思わせ匹敵するバンドです。トラフィックサウンドのアルバム同様、それらもいずれご紹介していきたいと思います。

(旧稿を改題・手直ししました)

石川啄木と『現代詩人全集』 (昭和4年=1929年~昭和5年=1930年)(前編)

(石川啄木<明治19年=1886年生~明治44年=1912年没>)
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隱沼   石川啄木


夕影しづかに番(つがひ)の白鷺(しらさぎ)下り、
槇(まき)の葉枯れたる樹下(こした)の隱沼(こもりぬ)にて、
あこがれ歌ふよ。――『その昔(かみ)、よろこび、そは
朝明(あさあけ)、光の搖籃(ゆりご)に星と眠り、
悲しみ、汝(なれ)こそとこしへ此處(ここ)に朽ちて、
我が喰(は)み啣(ふく)める泥土(ひづち)と融け沈みぬ。』――
愛の羽寄り添ひ、青瞳(せいどう)うるむ見れば、
築地(ついぢ)の草床、涙を我も垂れつ。

仰(あふ)げば、夕空さびしき星めざめて、
しぬびの光よ、彩(あや)なき夢(ゆめ)の如く、
ほそ糸ほのかに水底(みぞこ)に鎖(くさり)ひける。
哀歡かたみの輪廻(めぐり)は猶(なほ)も堪へめ、
泥土(ひづち)に似る身ぞ。ああさは我が隱沼、
かなしみ喰(は)み去る鳥さへえこそ來めや。

(初出・明治36年1903年12月「明星」/第1詩集『あこがれ』明治38年=1905年5月・小田島書房)

眠れる都   石川啄木


(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望甍(いらか)の谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻陬(へきすう)の間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて笏々(さうさう)筆を染めけるもの乃(すなは)ちこの短調七聯(れん)の一詩也)

鐘鳴りぬ、
いと荘嚴(おごそか)に
夜は重し、市(いち)の上。
聲は皆眠れる都
瞰下(みおろ)せば、すさまじき
野の獅子の死にも似たり。

ゆるぎなき
霧の巨浪(おほなみ)、
白う照る月影に
氷りては市を包みぬ。
港なる百船(もゝふね)の、
それの如(ごと)、燈影(ほかげ)洩るる。

みおろせば、
眠れる都、
ああこれや、最後(をはり)の日
近づける血潮の城か。
夜の霧は、墓の如、
ものみなを封じ込めぬ。

百万の
つかれし人は
眠るらし、墓の中。
天地(あめつち)を霧は隔てて、
照りわたる月かげは
天(あめ)の夢地にそそがず。

聲もなき
ねむれる都、
しじまりの大いなる
声ありて、霧のまにまに
ただよひぬ、ひろごりぬ、
黒潮のそのどよみと。

ああ聲は
晝のぞめきに
けおされしたましひの
打なやむ罪の唸りか。
さては又、ひねもすの
たたかひの名殘(なごり)の声か。

我が窓は、
濁れる海を
遶(めぐ)らせる城の如、
遠寄(とほよ)せに怖れまどへる
詩(うた)の胸守りつつ、
月光を隈なく入れぬ。

(初出・明治37年1903年12月「時代思潮」/第1詩集『あこがれ』明治38年=1905年5月・小田島書房)

東京   石川啄木


かくやくの夏の日は、今
子午線の上にかかれり。

煙突の鐵の林や、煙皆、煤黒き手に
何をかも攫(つか)むとすらむ、ただ直(ひた)に天をぞ射せる。
百千網(ももちあみ)巷巷(ちまたちまた)に空車行く音もなく
あはれ、今、都大路に、大眞夏光動かぬ
寂寞(せきばく)よ、霜夜の如く、百萬の心を壓せり。

千萬の甍(いらか)今日こそ色もなく打鎭(しづま)りぬ。
紙の片白き千ひらを撒きて行く通魔(とほりま)ありと、
家家の門や又窗(まど)、黒布に皆とざされぬ。
百千網都大路に人の影暁星の如
いと稀(まれ)に。――かくて、骨泣く寂滅(じやくめつ)の死の都、見よ。

かくやくの夏の日は、今
子午線の上にかかれり。

何方(いづかた)ゆ流れ來ぬるや、黒星よ、眞北の空に
飛ぶを見ぬ。やがて大路の北の涯(はて)、天路に聳(そそ)る
層樓の屋根にとまれり。唖唖(ああ)として一聲、――これよ
凶鳥(まがどり)の不浄の烏(からす)
。――骨あさる鳥なり、はたや、
死の空にさまよひ叫ぶ怨恨(ゑんこん)の毒嘴(どくはし)の鳥。

鳥啼(な)きぬ、二度。――いかに、其声の猶(なほ)終らぬに、
何方ゆ現れ來しや、幾尺の白髪かき垂れ、
いな光る剣捧げし童顔の翁(おきな)あり。ああ、
黒長裳(くろながも)静かに曳くや、寂寞の戸に反響(こだま)して、
沓(くつ)の音全都に響き、唯一人大路を練れり。

有りとある磁石の針は
子午線の真北を射せり。
(三十八年八月三十日盛岡市加賀野磧町にて)

(初出・明治38年=1905年9月「小天地」/大正2年=1913年5月『啄木遺稿』・東雲堂書店)

吹角(つのぶえ)  石川啄木


みちのくの谷の若人、牧の子は
若葉衣の夜心に、
赤葉の芽ぐみ物燻(く)ゆる五月(さつき)の丘の
柏(かしは)木立をたもとほり、
落ちゆく月を背に負ひて、
ひと夜明しぬ。
東白(しののめ)の空のほのめき――
天(あめ)の扉(と)の眞白き礎(もと)ゆ湧く水の
いとすがすがし。――
ひたひたと木陰地(こさぢ)に寄せて、
足もとの朝草小露明らみぬ。
風はも涼し。
みちのくの牧の若人露ふみて
もとほり心角(くだ)吹けば、
吹き、また吹けば、
渓川の石津瀬(いはつせ)はしる水音も
あはれ、いのちの小鼓(こつづみ)の鳴の遠音(とほね)と
ひびき寄す。
ああ静心(しづごころ)なし。
丘のつづきの草の上(へ)に
白き光のまろぶかと
ふとしも動く物の影。――
凹(くぼ)みの埓(かこひ)の中に寝て、
心うゑたる暁の夢よりさめし
小羊の群は、静かにひびき來る
角の遠音にあくがれて、
埓こえ、草をふみしだき、直(ひた)に走りぬ。
暁の聲する方(かた)の丘の邊(へ)に。――
ああ歡(よろこ)びの朝の舞、
新乳(にひち)の色の衣して、若き羊は
角ふく人の身を繞(めぐ)り、
すずしき風に啼(な)き交(かは)し、また小躍(こをど)りぬ。
あはれ、いのちの高丘に
誰ぞ角吹かば、
我も亦(また)
この世の埓をとびこえて、
野ゆき、川ゆき、森をゆき、
かの山越えて、海越えて、
かましものと、
みちのくの谷の若人、いやさらに
角吹き吹きて、静心なし。

(初出・明治39年1906年9月「藝苑」/大正2年=1913年5月『啄木遺稿』・東雲堂書店)

泣くよりも 四篇  石川啄木

四十一年五月二十四日本郷菊坂町にて作れる

*泣くよりも


その人に、夢の中にて
いつの年、いつの夜としもわかなくに
我は逢ひにき。
今は早や死にてやあらむ。

したたかに黒き油を鬢にぬり、
痛みて死ぬ白き兎の毛の如も
厚き白粉、
血の色の紅をふくみて
その人は、少女にまじり、みだらなる
歌の數數、晴れやかに三味かきならし、
火の如つよく舌をやく酒を呷りぬ。
火の如。
居ならぶは二十歳(はたち)許りの
酒のまぬ男らなりき。

『何故に、さは歌ふや。』と我問ひぬ、
夢の中にて。
その人は答へにけらく、
醉ひしれし赤き笑ひに、
『泣くよりも。』

*嫂(あによめ)


いと長き旅より、我は
なつかしき故家(いへ)にかへりぬ。
その夕(ゆふべ)、わが嫂(あによめ)は
子らつどへ、頭(かしら)撫でつつ、聞かせにき
馬の話を。

さて曰く、『君何故に
八年の長き間をおのが家に帰らざりしや。
何故に旅に行きしや。』

面染めて我は答へぬ、『その昔、
君はせざりき馬の話を。』

*殺意


『何なれば、汝は敢(あへ)て
かの人を慘殺したる。』
判官はかくも問ひつつ、
おごそかに立ちぞ上れる。

あをざめし我が罪人(つみびと)は、
『赤インキ、呀(あ)。』とぞ叫びて、
膝まづき、打ちわななきぬ。
『かの君の白き裳裾に
赤インキさと散りし時。』

*辯疏(いひわけ)


『われなどて君を厭はむ。
さなり、我、などて厭はむ。』
『さらば、など、かの木の下を
かの人と手とりゆきしや。』
かくぞ君われを詰(なじ)れる。

『さらばとか。乞ふ、唯一つ、
聞き給へ、我が辯疏(いひわけ)を。
われは唯初めて君を見たる日の
その心もて口づけぬ。かの小少女(をとめご)に。
我つひに二心(ふたごころ)なし。』

(初出・明治41年=1908年6月「明星」/大正2年=1913年5月『啄木遺稿』・東雲堂書店)

心の姿の研究 五篇  石川啄木

*夏の街の恐怖


焼けつくやうな夏の日の下に
おびえてぎらつく軌條(れーる)の心。
母親の居睡(ゐねむ)りの膝から辷り下りて
肥(ふと)つた三歳(みつつ)ばかりの男の児(こ)が
ちよこちよこと電車線路へ歩いて行く。

八百屋の店には萎えた野菜。
病院の窓の窓掛(まどかけ)は垂れて動かず。
閉された幼稚園の鐵の門の下には
耳の長い白犬が寝そべり、
すべて、限りもない明るさの中に
どこともなく、芥子(けし)の花が死落(しにお)ち
生木(なまき)の棺(くわん)に裂罅(ひび)の入(い)る夏の空気のなやましさ。

病身の氷屋の女房が岡持を持ち、
骨折れた蝙蝠傘(かうもりがさ)をさしかけて門(かど)を出(いづ)れば、
横町の下宿から出て進み來る、
夏の恐怖に物も言はぬ脚気(
かっけ)
患者の葬(はうむ)りの列。
それを見て辻
つじ
の巡査は出かゝった欠伸(あくび)噛みしめ、
白犬は思ふさまのびをして
塵溜(ごみため)の蔭に行く。

焼けつくやうな夏の日の下に、
おびえてぎらつく軌條(れーる)の心。
母親の居睡りの膝から辷り下りて
肥つた三歳ばかりの男の児が
ちよこちよこと電車線路へ歩いて行く。
(明治42・12・12「東京毎日新聞」)

*起きるな


西日をうけて熱くなつた
埃だらけの窓の硝子よりも
まだ味氣ない生命(いのち)がある。

正體もなく考へに疲れきつて、
汗を流し、いびきをかいて晝寝してゐる
まだ若い男の口からは黄色い歯が見え、
硝子越しの夏の日が毛脛(けずね)を照し、
その上に蚤が這ひあがる。

起きるな、起きるな、日の暮れるまで。
そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの來るまで。

何処(どこ)かで艶(なまめ)いた女の笑ひ聲。
(明治42・12・13「東京毎日新聞」)

*事ありげな春の夕暮


遠い國には戦(いくさ)があり……
海には難破船の上の酒宴(さかもり)……

質屋の店には蒼ざめた女が立ち、
燈光(あかり)にそむいてはなをかむ。
其處(そこ)を出て来れば、路次の口に
情夫(まぶ)の背を打つ背低い女――
うす暗がりに財布を出す。

何か事ありげな――
春の夕暮の町を壓する
重く淀んだ空氣の不安。
仕事の手につかぬ一日が暮れて、
何に疲れたとも知れぬ疲れがある。

遠い国には澤山(たくさん)の人が死に……
また政庁に推寄(おしよ)せる女壮士(
をんなさうし)のさけび聲……
海には信天翁(あはうどり)の疫病……

あ、大工の家では洋燈(らんぷ)が落ち、
大工の妻が跳び上る。
(明治42・12・16「東京毎日新聞」)

*柳の葉


電車の窓から入つて來て、
膝にとまった柳の葉――
此処(ここ)にも凋落(てうらく)がある。
然(しか)り。この女も
定まった路を歩いて來たのだ――

旅鞄(たびかばん)を膝に載せて、
やつれた、悲しげな、しかし艶(なまめ)かしい、
居睡(ゐねむり)を初める隣席(となり)の女。
お前はこれから何処(どこ)へ行く?
(明治42・12・20「東京毎日新聞」)

*拳(こぶし)


おのれより富める友に愍(あはれ)まれて、
或(あるひ)はおのれより強い友に嘲(あざけ)られて
くわつと怒つて拳(こぶし)を振上げた時、
怒(いか)らない心が、
罪人のやうにおとなしく、
その怒つた心の片隅に
目をパチゝゝして蹲(うづくま)つてゐるのを見付けた――
たよりなさ。

あゝ、そのたよりなさ。

やり場にこまる拳をもて、
お前は
誰(たれ)を打つか。
友をか、おのれをか、
それとも又罪のない傍(かたは)らの柱をか。
(明治42・12・20「東京毎日新聞」)

(初出・明治42年=1909年12月「東京毎日新聞」/大正2年=1913年5月『啄木遺稿』・東雲堂書店)


 前回・前々回では新潮社『現代詩人全集』(昭和4年~5年)の巻立てを参考に、現代詩史の上で明治期から大正期の橋渡しをしたものの、本人は明治時代に到達した地点にとどまった詩人たちをご紹介していました。そこで「文庫」派の詩人である河井醉茗(1874-1965)、横瀬夜雨(1878-1934)を取り上げましたが、当初は最初に俎上に上げた『現代詩人全集』に倣って文庫派3人集巻の第4巻と、詩史的にいまだに明確な位置づけができない夭逝詩人の3人集の第6巻をご紹介するつもりでした。しかし醉茗、夜雨を個別に取り上げてみると文庫派すら一括して括るにはあまりに作風が異なります。特に夜雨は昭和期に入っても文語定型律の詩作を続け、しかも名作と言ってよい作品を残している。一方河井醉茗は口語詩で先駆的な作風に進みましたが、どうも成功していない。口語詩に移ったとたんに詩の実質が伝達性に足をとられてしまい、早い話が言語レヴェルでは後退してしまった。その代表的な例がポピュラーな愛読者を持つ「ゆずり葉」で、メッセージを引けば何も残らない作品です。夜雨の作品も平易なものですが、意味を取り去っても詩でなければ成立しない強固な構造があります。文語定型律時代の醉茗にもそれはあったので、文語詩には口語詩には咲かない華があり、日常言語を超えた神秘性や音楽性がありました。醉茗は詩壇の宗匠たる責からもあえて文語詩を脱して口語詩人に再生しようとし、夜雨は終生文語詩人であり続けたのです。文庫派最高の詩人は伊良子清白(1877-1946)で、過渡期の詩人というより独自の達成にたどついた詩人でしょう。「過渡期の詩人」ではおさまらない清白ならではのスタイルに到達しているのです。よって伊良子清白は独立した項目で検討・ご紹介すべき詩人であり、この章に収まりきる詩人ではないでしょう。

 第6巻の3人集もそうです。山村暮鳥(1884-1924)、三富朽葉(1889-1917)は暮鳥の多作、朽葉の寡作の違いはあれ、伝達言語ではない自律的な発想で、純粋な詩の世界を現出することができました。それに較べると、享年26歳で逝去した石川啄木(1886-1912)の詩にははるかに不純物が多く、いかにも過渡期の詩人らしい作風の一貫性の欠如が気にならないわけにはいきません。ですが数え歳17歳でデビューし、神童の名をほしいままにしながら歌人としても画期的な作風を確立し、次々と作風を変化させていった啄木こそはもっとも注目すべき過渡期の詩人だったのは間違いなく、おそらく数年間の啄木の業績は当時の現代詩史の倍以上の速度で、現代詩の方向性に決定的な触媒を果たしていました。実際『現代詩人全集』の「啄木・暮鳥・朽葉集』ほど持て余した組み合わせの巻はないでしょう。この3人は作風の共通点はまったくなく、強いて言えば暮鳥と朽葉が短期間おなじ同人誌(明治42年~43年「自由詩社」)に関わっていたくらいですが、暮鳥と朽葉にすら共通点がないのに啄木との組み合わせには何の根拠もありません。暮鳥(1884年明治17年生)、啄木(1886年明治19年生)、朽葉(1889年=明治22年生)とこの3人はほぼ等間隔に1880年代に生まれ、早熟な啄木は明治36年(1903年)には与謝野鉄幹・晶子の「明星」に17歳でデビューしており、当時の東京市長(現在の都知事職)尾崎行雄への献辞を捧げる第1詩集『あこがれ』(明治38年=1905年)で神童現ると評判を呼んだのはまだ19歳のことでした。

 暮鳥は神学校に学んで田舎牧師の生涯を送った人ですが、明治37年(20歳)から短歌誌に投稿を始め、明治40年には現代詩の長詩に移り「文庫」への投稿が掲載され、1909年(明治42年)に人見東明、加藤介春、三富朽葉らが中心となって創立された「自由詩社」に翌1910年(明治43年)から参加して発表誌紙を広げます。暮鳥の本領発揮は島崎藤村の序文を得た本格的な第1詩集(パンフレット形式の小詩集は1910年=明治43年にもあり)『三人の處女』(大正2年=1913年)以後のことで、翌1914年=大正3年萩原朔太郎室生犀星と「にんぎょ詩社」を設立し、1915年(大正4年)3月、同社の機関誌「卓上噴水」を創刊するとともに同年12月に突然変異的な衝撃的詩集『聖三稜玻璃』を上梓してからでした。大正6年(1917年)まで萩原・室生との同人活動は続きますが、翌年に任地の移動後は歿年まで詩壇との往来もなく孤立のまま膨大な作品を残し、苛酷な田舎牧師職に耐えながら(信徒や教会本部からも免職の声が絶えませんでした)、大正13年(1924年)に数年来の闘病から逝去します。啄木(享年26歳)、朽葉(享年27歳)と較べればとはいえ、享年40歳の暮鳥も決して長寿とは言えません。

 三富朽葉はマイナー・ポエットの典型のような存在ですが、生前詩集がなかったかわりに大正15年(1926年)刊の1巻本の大冊全詩集(翻訳、散文、日記、書簡も含む)『三富朽葉詩集』が昭和初期の若手詩人たちによく読まれました。昭和2年(1927年、20歳)の日記に中原中也は「世界に詩人はまだ三人しかをらぬ。/ヴェルレエヌ/ラムボオ/ラフォルグ/ほんとだ!三人きり。」(4月23日・全文)と書いていますが、同年の日記には「岩野泡鳴/三富朽葉/高橋新吉/佐藤春夫/宮澤賢治//毛唐はディレッタントか?/毛唐はアクティビティがある。」(6月4日・全文)ともあり、泡鳴、高橋、宮澤への傾倒は中原自身も直接著述し証言もありますから、高橋の理解者でもあった佐藤春夫とともに泡鳴の次に名前の上がる日本の詩人が朽葉だったのは注目されます。また中原の敵対したモダニズムの牙城「詩と詩論」(昭和3年=1928年~)主宰者で詩人・詩論家の春山行夫(1902-1994)は大正時代までの日本の現代詩を「無詩学時代」と否定した上で、数少ない詩学的詩人に三富朽葉を上げています。朽葉は明治40年(1907年、18歳)には「文庫」の特別寄稿家(投稿ではなく、本欄採用詩人)になり、進学先の縁で早稲田詩社同人と交わり、明治42年(1909年)に自由詩社を結成して翌明治43年(1910年)まで同人誌「自然と印象」に携わりました。翌年大学卒業後の朽葉はほとんど作品を発表しなくなり、私生活でも結婚の失敗で打撃を負います。大正3年(1914年)に久しぶりに発表した作品は何回で長大な散文詩で、それから歿年までは散文詩と詩論の執筆が中心になりました。そして大正6年(1917年・27歳)8月、詩人仲間たちと海辺の別荘でヴァカンス中、波に呑まれた友人を救助しようとして友人とも溺死しました。そして家族全員に感染させるほど悪化した結核を放置してまで精力的な文筆活動を続け、過労死同然に急性腹膜炎で26歳で急逝した石川啄木といい、『現代詩人全集』第6巻がいかに現代詩の挫折者の3人集なのかはおわかりいただけると思います。

 歌人・詩人として知られる本名・石川一(はじめ)こと石川啄木(明治19年1886年2月20日生~明治44年=1912年4月13日没)が昭和初年にすでにどれほど現代詩の古典的詩人と目されていたかは、啄木と同年生まれで晩熟だった萩原朔太郎が長編詩論『詩の原理』(昭和3年=1928年、啄木歿後15年)に世界的詩人として李白、人麻呂、西行芭蕉バイロン、ハイネ、ゲーテ、シラー、キーツ、シュレー、ユゴーボードレールヴェルレーヌマラルメランボー、ヴェルハーレン、ホイットマンと同列に啄木を数えているのが萩原のおっちょこちょいな性格(本人は大真面目なだけになおさら)と、詩人は社会的アウトサイダーという主張がわかります。萩原は裕福な地方医院家の長男で遺産相続人、かつ無職の利子生活者で自由文筆家(医院は妹の婿養子が継いでいました)から来る階級的コンプレックスがあり、当時出身階級や資産は人格形成にとって現代からは実感の湧かないほど決定的な環境要因でした。暮鳥は小作農家出身(いわゆる「貧農」)で、しかも幼期から地主とのトラブルが絶え間なく各地を転々としていた実家に育っています。朽葉は富豪に迫るほどの裕福な商家に育ち、朔太郎同様生涯無職の自由文筆家でした。

 啄木は曹洞宗住職家に生まれましたが、19歳の年に父が宗費滞納の責を負って本山から罷免されて以来、啄木が一家の家長にならざるを得なくなります。啄木のお父さんは要するに使い込みをしていたので、本山にも民間にも多大な借財をしていたのが啄木の身に降りかかり、翌年の恋愛結婚(啄木中学2年生の頃からの恋人でした)は周囲の無理解を押し切って実現しましたが、両親、未婚の妹、新妻、翌年生まれた長女とも何度も経済的理由で離散しては同居に戻る不安定な家庭生活が晩年まで続きました(長男も授かりましたが3週間で亡くしています)。啄木の学歴は中学5年中退で、当時の義務教育は小学生(6年制)までですし、教育法で定められていたのは1県あたり最低1校ですから、5年制の旧制中学に進学するのは現在の国立大学レヴェルの難関であり、しかも公立とはいえ多大な学費・生活費を強いられることでした。啄木の家庭にはそれだけの資力はなく、親戚からの後援もあって進学した中学ですが、当初抜群だった成績も文学や恋愛に熱中するうちにどんどん落ちて行きます。最終学年では期末試験ごとにカンニングがバレ、どうせ文学の道に進むからとあっさり退学してしまいます。当時中学卒業の資格があれば今日の公立大学卒業者程度には幅が効きましたが、詩人としての成功を信じて卒業寸前に自主退学したのです。

 17歳の啄木はさっそく上京して「明星」主宰の与謝野鉄幹・晶子夫妻を訪ねますが、すぐに病気で寝たきりになり4か月後に父の迎えで岩手に帰郷。しかし与謝野夫妻との面談は成果があり、翌年には「明星」の新進詩人として注目されるようになって、19歳の年には発表誌紙が広がるとともに5年来の恋人とも結納を交わします。第1詩集刊行の準備に上京し、東京市長尾崎行雄に出版後見人を依頼に訪ねて追い返された(面識もなしに訪ねたらしい)のもその頃です。一方年末には父が住職を罷免されます。明治38年(1905年)、第1詩集『あこがれ』刊行、20歳。翌年は詩作以外にも新聞小説を手がけながら1年間小学校の代用教員の職に就きましたが、当時小学校代用教員というのは資格もいらず、雇用形態もあくまでアルバイトにすぎず、しかも低賃金で、高学歴者にとってはもっとも屈辱的な職務とされていました。雇用更新期間を待って代用教員を辞すと、一家離散して妹と北海道に渡って短期間再び代用教員をしながら新聞記者の職を探します。それが明治40年(1907年)で、校正係として新聞社に入社するもこの年だけで4回転職しています。翌明治41年(1908年)から勤め始めた新聞社も3か月で辞め、5月からは三たび単身上京して翌明治42年(1909年)2月に東京朝日新聞社で校正係に就職するまで経済的困窮を友人の金田一京助(国語学者)の援助でしのいでいました。

 啄木の転職はこれが最後になり、職を得てようやく家族を東京へ呼び寄せましたが、10月には家にお金を入れない啄木と上京生活の貧苦と病苦に堪えかねて夫人が長女を連れて家出します。金田一の取りなしで夫人は3週間後に戻りましたが、この明治41年(23歳)と明治42年(24歳)は啄木がもっとも精神的頽廃に陥っていた時期でした。それはご紹介する詩では「泣くよりも」連作(明治41年)、「心の姿の研究」連作(明治42年)に表れています。今回ご紹介する詩は各時期の特徴を表すものを選び、「隱沼」(18歳)は第1詩集『あこがれ』前半、「眠れる都」(19歳)は後半の代表作で詩人としての名声獲得に野心的だった時期の作品。「東京」(20歳)と「吹角」(21歳)は『あこがれ』出版と結婚から代用教員時代を送っていた時期で、22歳の年・明治40年は一家離散と4回の転職があり、ついに本格的上京を果たした明治41年は翌42年にかけて心身も生活も荒廃しきっていました。啄木は明治45年(1912年)4月に逝去するのであと2年の余命しかありませんが、この最低な状態から立ち直って晩年の代表的作品が生みだされるのです。それは次回に送ります。

 なお、啄木の詩と短歌をまとめた文庫版でお薦めできるのは『日本の詩歌5・石川啄木』(中公文庫・中央公論社)で、原本は昭和43年(1968年)に筑摩書房版『啄木全集』全8巻が刊行されるとともに啄木研究の第一人者・故岩城之徳氏が編纂したものです。同選集は歌集『一握の砂』『悲しき玩具』に生前歌集未収録短歌、詩集『あこがれ』に生前詩集未収録作品を編年体に選出収録し、収録作品の全初出データと注釈(故山本健吉氏による)がついているのも理解を深めますが、編集自体に岩波書店版『啄木全集』とも筑摩書房版『啄木全集』とも異なる特色があります。まず岩波版全集(昭和28年刊)よりも校訂やデータが正されており、また筑摩版全集では学問的分類によって小詩集単位の生前詩集未収録作品が解体されているのでかえって通読しづらいのです。啄木生前詩集の『あこがれ』は啄木全詩作品の4割弱程度でしかないので、生前詩集未収録作品を再び啄木の意図に近い小詩集単位に整理した『日本の詩歌』版の岩城氏の編集は本格的な『啄木全集』より読者の理解を助けてくれます。

 また詩歌だけでなく啄木の代表的な小説・評論・日記・書簡を1冊にまとめたものは、通販サイトなら安価で手軽に入手できますが、岩城之徳編『石川啄木大全』(講談社スーパー文庫)が菊判の大判で通常の文庫本数冊分のヴォリュームがあり、岩波版全集以前の規模なら全集に準じる1巻本全集になっています。啄木ほどのポピュラリティを現代でも持っている詩人は(啄木は短歌の比重が高いでしょう)他に高村光太郎宮澤賢治(童話も合わせて)、中原中也がわずかに匹敵するだけと思われ、それも日本では詩とはどのようなものと考えられているかを物語るかのようです。石川啄木萩原朔太郎は同年生まれですが、萩原が詩作を始めたのは啄木の享年26歳を2歳も越えた28歳からのことでした。同年生まれですから意外にも実は啄木と萩原には共通した時代感覚があります。そして萩原には啄木のようなポピュラリティは持ち得ない面がついて回るのです。その辺りにも次回では触れられるかと思います。

(旧稿を改題・手直ししました)

セロニアス・モンク Thelonious Monk - ブリリアント・コーナーズ Brilliant Corners (Riverside, 1957)

セロニアス・モンク - ブリリアント・コーナーズ (Riverside, 1957)

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セロニアス・モンク Thelonious Monk - ブリリアント・コーナーズ Brilliant Corners (Riverside, 1957) Full Album : https://www.youtube.com/playlist?list=PLWuqeV9DLDpr-fLyP_LbnPU2e_I07eIZv
Recorded in October 9 (A2, B1), October 15 (A1), and December 7 (B2, B3), 1956
Released by Riverside Records RLP 12-226, 1957
All songs written and composed by Thelonious Monk except where noted.

(Side 1)

A1. Brilliant Corners - 7:42
A2. Ba-Lue Bolivar Ba-Lues-Are - 13:24

(Side 2)

B1. Pannonica - 8:50
B2. I Surrender, Dear (Harry Barris) - 5:25
B3. Bemsha Swing (Thelonious Monk, Denzil Best) - 7:42

[ Personnel ]

Thelonious Monk - piano; celeste on "Pannonica"
Ernie Henry - alto saxophone on A1, A2, B1
Sonny Rollins - tenor saxophone
Oscar Pettiford - bass on A1, A2, B1
Max Roach - drums, timpani on B3
Clark Terry - trumpet on B3
Paul Chambers - bass on B3

(Originally Riverside "Brilliant Corners" LP Liner Cover & Side 1 Label)

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 この『ブリリアント・コーナーズ』はジャズのアルバム・ガイド類ではセロニアス・モンクの代表作に必ず上げられ、最高傑作と評価されることが多い作品です。異論はありませんし、モンク畢生の傑作と言ってもいいくらいの力作なのですが、モンクの音楽を最初に聴くにはあまり勧められないアルバムでもあります。このアルバムの面白さや傑出した内容はモンクの音楽に馴染んでからようやくわかってくる厄介な性質のもので、すぐに楽しめて飽きずに聴けるモンクのアルバムなら『セロニアス・モンク・トリオ(Thelonious Monk Trio)』1956、『ミステリオーソ(Misterioso)』1958、『ファイヴ・バイ・ファイヴ・バイ・モンク(Five by Five by Monk)』1959、『モンクス・ドリーム(Monk's Dream)』1963、『アンダーグラウンド(Underground)』1968あたりがいいでしょう。本作はモンクの作品歴の中でも突出したアルバムですが、単にジャズばかりかモンクというアーティストの音楽性に通じていないとあまり楽しめない可能性があり、力作すぎてくり返し聴くにはしんどい作品になってもいます。アルバム全5曲中大作の3曲が新曲で、ソロ・ピアノの小品B2と既発表曲の再演B3はアルバムの収録時間合わせのために追加録音されました。他にも用意された新曲があったかもしれませんが、本作の録音は非常に困難で、本来予定されていた2回のセッションでやっと新曲3曲を録音した難航状態だったので、あと2曲加えてアルバム1枚分にするには既発表曲でよしとされたようです。

 本作の録音は1956年10月・12月で、この1956年はアメリカのジャズではそれまで実験的とされた傾向のアーティストから優れたアルバムが生まれた年になり、1959年にははっきり新旧世代の交替を促すようなアルバムが現れます。1956年にもっとも尖鋭的なジャズはチャールズ・ミンガス『直立猿人(Pithecanthoropus Erectus)』(1月録音)に始まり、レニー・トリスターノの『鬼才トリスターノ(Tristano)』やマイルス・デイヴィスクインテットの四部作、偶然同日(9月27日)に録音された新人ピアニストによる『ジャズ・アドヴァンス(Jazz Advance)』(セシル・テイラー)と『ニュー・ジャズ・コンセプション(New Jazz Conception)』(ビル・エヴァンス)を経て『ブリリアント・コーナーズ』に終わったと言えます。ミンガスもモンクもこの時点では黒人ジャズきっての前衛派アーティストと目されていました。大作『直立猿人』は情感への訴求力が強いアルバムですから初めてミンガスの音楽を聴く人にも勧められる傑作ですが、モンクの音楽はもともと抽象度が高い上に、他の名作では適度に調整されたテンションが『ブリリアント・コーナーズ』では息の抜けないほど張りつめているきらいがあります。ソニー・ロリンズ(テナーサックス)、オスカー・ペティフォード(ベース)はまだしも、マックス・ローチ(ドラムス)の演奏がリラクゼーションを許さない形跡があることもその印象を強めています。追加録音ではアーニー・ヘンリー(アルトサックス)とペティフォードのスケジュールが合わず名手クラーク・テリーポール・チェンバースが呼ばれましたが、これも本来なら10月の2回のセッションで完成する予定のアルバムだったことによります。

 というわけでローチを槍玉に上げましたが、もともとローチが相性がいいピアニストはハイテンションが身上のバド・パウエルなので、モンクにはローチのようにビートを細分化させるのではなく、推進力に徹したアート・ブレイキーの方が相性が良かったとも言えます。もっとも『ブリリアント・コーナーズ』の新曲A1、A2、B1がモンクきっての難曲だったのも力みの強い原因になっており、2回もスタジオに入って3曲しか録音できず、タイトル曲「ブリリアント・コーナーズ」などはワンコーラスが28小節(8小節+6小節+14小節)×2プラス倍テンポで28小節(8小節+6小節+14小節)プラス元テンポで28小節(8小節+6小節+14小節)という、曲のどこをどちらのテンポで演っているのか演奏者もリスナーも振り落とされる構造になっているのです。しかもこの曲は12テイクを録音しましたが結局完奏テイクが録音できなかったので、プロデューサーのオリン・キープニーズによるテープ編集で完成させたのがアルバム収録テイクだったとモンク没後にボックス・セット化されたリヴァーサイドのモンク全集でキープニーズ自身によって公表されました。この曲は後にチャールズ・トリヴァー(トランペット)・クインテットがライヴで完全再現してみせましたが(オムニバス『ニュー・ウェイヴ・イン・ジャズ(New Wave in Jazz)』1965収録)、この曲をレコードで聴きこんだジャズマンがライヴで完奏できるまで10年かかったわけです。モンク本人ですらこの曲をライヴでは演奏しませんでした。だいたいモンクのオリジナル曲はそういう数学的発想から出来ているので、本作ほど難曲ぞろいの場合にローチのドラムスで無理だったなら、なおさらブレイキーではお手上げだったでしょう(ブレイキーには力押しという必殺技がありましたが)。

 ミンガス、後にはオーネット・コールマンのオリジナル曲にも変拍子は頻発しますが、良くも悪くもエモーションの発露としてエネルギーを蓄積・放出するための表現であって美術で言えば表現主義に相当するのに対し、モンクの変拍子はエモーションとは別の幾何学的発想から音楽の面白さを作り出そうというもので、指向性としては表現主義とはまったく逆の抽象性が見られます。2サックス・クインテット編成のフォーマットの中で、アルバム『ブリリアント・コーナーズ』はモンクの全アルバム中もっとも高い抽象度を達成した作品といえます。しかし音楽には音楽なりに抽象性の限界があって、名作と言えるモンクの他のアルバムでは(ピアノ・トリオ作品、ソロ・ピアノ作品でさえも)素朴に演奏自体を楽しんでいる情感、楽曲に仕掛けた工夫に対する興味に由来した無邪気な遊戯性があり、その無邪気さがモンクの音楽では情緒的な感動とは別種の喜びになっています。モンクの一番弟子だったバド・パウエルほど技法的にモンクとかけ離れたピアニストはいませんが、バドの演奏はエモーションの爆発的発露のあまりエモーション自体は蒸発して、演奏行為そのものが表現目的を達成しているかのような無意味に近づきます。バドの成功した演奏はおおむねその域に達しており、イノセンスの純度でモンクの音楽と同質のものとも言えるのです。

 モンクのアルバムでは参加ミュージシャンの同化力が音楽の成否を分けているとも言えて、モンク自身はピアノ・トリオにテナーサックスのワンホーン・カルテットを好んでいました。またテナーサックスのアドリブ・ソロではピアノは弾かず、テナーとベース、ドラムスのピアノレス・トリオ編成になるアレンジを好みました。『ブリリアント・コーナーズ』ではアルトとテナーの2サックスの編成で、これは新曲をこなすための必要からだったでしょうが、やはりロリンズのソロは圧倒的に素晴らしく、本作の完成度の高さに貢献しています。特に「パノニカ」など、転調だらけの困難なコード進行でのソロを事前に作曲してあるかのようになめらかに吹いています。アルトのアーニー・ヘンリーは翌年12月、31歳で急逝してしまいますが、ブルース曲A2ではまるでエリック・ドルフィーを先取りしたような異次元空間に突入しています。何か演奏中に別のサウンドが聴こえてこないとこういうラインは吹けないでしょう。音色的にも破綻寸前で吹いているのがはっきりわかるので、本作の発売当初の不評はヘンリーの異様なプレイに集中したそうです。ヘンリーには4枚のリーダー作がありますが、ヘンリー自身のアルバムでもここまでやばいプレイは聴けません。このA2はタッド・ダメロンのバンドでビ・バップ全盛期からの長い下積み時代を送ったヘンリーにとって、一世一代の名演と言えるものです。

 ビ・バップの発祥についてはセロニアス・モンクケニー・クラーク(ドラムス)が主催したジャムセッションを起源とするのが定説で、ジャズマンたちの証言も残された音源もそれを立証しています。しかしモンク本人はビ・バップのピアニストではない、という見解がかつての日本のジャズ・ジャーナリズムにはあり、モンクやレニー・トリスターノをもビ・バップ・ピアニストとするアメリカ本国でのジャズ史観とは食い違っていました。ビ・バップを音楽技法から限定すれば、チャーリー・パーカーの技法をピアノに置き換えたバド・パウエルの系譜しかビ・バップのピアニストと認められないことになります。ですがビ・バップを'40年代ジャズのモダニズム運動とすれば、特定のスタイルのみをビバップと呼ぶ必要はありません。ミンガスは明らかにビ・バップとは別の文脈から出てきてビ・バップと遭遇したジャズマンでしたが、モンクはビ・バップの立ち上げから出発して気がつくと別の場所にいた、という人でした。トリスターノは生涯モンクを痛罵していましたが(バドには賞賛を惜しみませんでした)、実際のビ・バップの現場はモンクもバドもトリスターノも含むものだったでしょう。『ブリリアント・コーナーズ』はビ・バップのアルバムではないかもしれませんが、それ以上にハード・バップとははっきり対立する異色のジャズを生み出しています。

(旧稿を改題・手直ししました)

横瀬夜雨と『現代詩人全集』(昭和4年=1929年~昭和5年=1930年)

(横瀬夜雨<明治11年=1878年生~昭和9年=1934年没>)
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涙   横瀬夜雨


おもひしずけきかりねにも
ゆめだにみればやるせなく
なみだにぬるゝわがそでを
からんとのらすきみもがな

ひとよふけゆくなかぞらに
かたわれづきのてれるみて
はかなきかげのうらめしく
たもとをかみてなきにしを

なほすてられぬかがみには
みやまざくらのはなあせて
かねてかゝせしゑすがたの
いろのみいまににほへれど

(第1詩集『夕月』明治32年=1899年12月・旭堂書店)

お才   横瀬夜雨


花の吾妻の花櫛さいて
髪は島田にいはうとも

やはり妹(をばま)と背追繩(せおひなは)かけて
薪拾うてあつたもの

三國峠の岨路を
越えて歸るはいつぢややら

蜻蛉(とんぼ)つりゝゝ田の面に出て
騒ぐ子等にもからかはれ

お才あれ見よ越後の國の
がんが來たとてだまされて

白雲かゝる筑波根を
今は麓で泣かうとは

『心細さに出て山みれば
雲のかゝらぬ山はない』

(初出「文庫」明治31年6月号「そで子、きん子、合作」名義/(改竄版)第1詩集『夕月』明治32年=1899年12月・旭堂書店)

夕の光   横瀬夜雨


堤にもえし陽炎(かげろふ)は
草の奈邊(いづこ)に匿(かく)れけむ
緑は空の名と爲りて
雲こそ西に日を藏(つゝ)め

さゝべり淡き富士が根は
百里(ひやくり)の風に隔てられ
麓に靡く秋篠の
中に暮れ行く葦穗山

雨雲覆ふ塔(あらゝぎ)に
懸れる虹の橋ならで
七篠(なゝすぢ)の光、筑波根の
上を環(めぐ)れる夕暮や

雪と輝く薄衣(うすぎぬ)に
痛める胸はおほひしか
朧氣(おぼろげ)ならぬわが墓の
影こそ見たれ野べにして

雲捲上(まきあぐ)る白龍(はくりう)の
角も割くべき太刀佩きて
鹿鳴(かな)く山べに駒を馳せ
征矢鳴らしゝは夢なるか

われかの際(きは)に辛うじて
魂、骸を離るまで
寂しきものを尾上には
夜は猿(ましら)の騷がしく

水に映らふ月の影
鏡にひらく花の象(かたち)
あこがれてのみ幻の
中に老いたるわが身なり

月無き宵を鴨頭草(つきくさ)の
花の上をも仄(ほの)めかし
秀峰(ほつみね)光(て)らす紅の
光の末の白きかな

縋(すが)りて泣かん妹の
萎(しを)れし花環(はなわ)投げずとも
玉の冠か金光(きんくわう)の
せめては墓に輝かば

(第2詩集『花守』明治38年=1905年11月・隆文社)

富士を仰ぎて  横瀬夜雨


大野の極み草枯れて
火は燃え易くなりにけり
水せゝらがず鳥啼かず
動くは低き煙のみ

落日力弱くして
森の木の間にかゝれども
靜にうつる空の色
翠はやゝに淡くして

八雲うするゝ南に
漂ふ塵のをさまりて
雪の冠を戴ける
富士の高根はあらはれぬ

返らぬ浪に影見えて
櫻は川に匂ふらむ
霞みそめたる天地に
遍きものは光かな

涙こほりし胸の上に
閉じたる花も咲かんとして
亡びんとせしわが靈(たま)の
今こそ蘇(い)きて新しき

人は旅より歸るとき
花なる妻を門に見む
わが見るものは風荒ぶ
土橋の爪の枯柳

人は旅路に出るとき
美し人を秬梠(ませ)に見む
わが行く路に在るものは
やみを封(こ)めたる穴にして

筑波の山に居る雲の
葉山繁山おほへるも
春は蝶飛ぶ花園に
立つべき足の痿(な)へたるを

やゝともすれば雲の奧に
かくれんとするいとし兒を
悲む母のふところに
退(の)かせじとする枷(かせ)にして

千代もとわれは祈れども
母は子故に死なんといふ
世に一人なる母をおきて
わが有(も)つものは
  有らじと思ふに

(『花守』明治38年=1905年11月・隆文社)

鞭   横瀬夜雨


ほどけかゝりし絹の紐
ゆるき靴もて青梅の
幹はよづるに難(かた)ければ

眉ふりかくす放髪(をばなり)の
姉なる姫は長(たけ)のびて
あぐる腕(かひな)の白きかな

袖を抱えて敷石に
かゞみ在(いま)せし二の君の
まろき瞳のやさしさが

床(とこ)に置きける銀(しろがね)の
鞭をおろして走り來る
庭は木立の緑して

鞭は短し枝高し
踊り上りて下(しも)つ枝(え)を
拂へど散るは若葉のみ

母屋(おもや)の屋根に鳩鳴けど
二人の姫は言(ものい)はで
園の白日(まひる)は寂(しずか)なり

(第3詩集『二十八宿明治40年=1907年2月・金尾文淵堂)

影  横瀬夜雨

月の夕、ひとり過ぎ行く少女を野邊に見て

影まだ淡(うす)き夕月の
照せる野べに俯(うつむ)きて
睫(まつげ)にあまる涙をば
稀には袖に拭ふらむ
靜に歩む少女(をとめ)あり

風に戰(おのゝ)く花すすき
芒(すゝき)が中に一筋の
路をし恃(たの)む秋の野に
映る我身の影見ても
寂しからんを哀なり

いかなる憂(うさ)を藏(つゝ)めれば
花の少女(をとめ)のたゞ一人
解(ほつ)れし髪をかき上げて
濡るゝ裳裾(もすそ)をさながらに
荒れたる野(のら)を越ゆるらむ

足羽川(かたしはがは)の大橋に
藍もて摺れる衣着(ころもき)て
赤裳裾(あかもすそ)曳渡りけむ
昔少女(をとめ)が面影を
今眼(ま)のあたり見つるかな

手枕(てまくら)纏(ま)きて語らひし
我妹子(わぎもこ)ならば呼びとめて
暫(しばし)なりとも泣かさじを
月に背(そむ)きて行く人の
悲しき影はあれ限(き)りに

(改竄版初出『夕月』/原作復原稿『二十八宿明治40年=1907年2月・金尾文淵堂)

筑波に登る  横瀬夜雨

昭和三年、妻と共に三女を携へて筑波に登る。河井醉茗北原白秋等十四人、亦行を同じうす。

朽ちたるは 白晒(しらさ)けて
山毛欅(ぶな)の森 蔭荒し
立ち罩(こ)むる 薄霧に
垂れ咲くは 擬寶珠花(ぎぼしばな)

眞弓子(まゆみこ)を 携へて
三千尺(みちさか)の 雲踏めば
從へる 愛(は)し妻の
眼に霧(き)るは 涙哉(かな)

利根鬼怒(とねきぬ)は 白々と
南へ 流れ去り
樺色(かばいろ)の 蝶(てふ)二つ
巌角(いはかど)に 舞ひ上る

浪逆(なさか)の 湖は
浪の穂や 飜(かへ)るらむ
山の影 映しつつ
東は 天(そら)高し

眠りては 地の上を
人並に 駆れども
日本(ひのもと)に 登るべき
山の名は 知らざりき

眞弓子は 今やがて
走るらむ 跳ねるらむ
夢か我 足痿(な)えて
筑波嶺(つくばね)に 跨れる

風逆山(かざさえし) 風吹けば
白百合の 匂ふ山
風逆山 雨降れば
葛子鳥(しやべりどり) 下りる山

鳴呼山は 筑波嶺
天(そら)高く 立てれども
命哉 ながらへて
吾終(わがつひ)に 登りたる

(『現代詩人全集・第四巻』「横瀬夜雨集」昭和4年=1929年11月・新潮社)

わが額は重し  横瀬夜雨


わが額は重し
背(うしろ)より射す光を厭ひ
前に動く影を惡(にく)む
人憧憬(あこがれ)の夢にばかり
生くれば長き命なるもの
友よ伏せたる眉を咎むるな

わが首(こうべ)は重し
野に走らんか雲湧く
海にせんか浪白き
行くに侶(とも)なき一人ならば
影なる我に神は來らむ
友よ夢見る人の眼を突くな

わが胸は重し
匂へる花を岡に探りて
袖にすとも詮(かひ)あらんや
常陸(ひたち)の小野は秋に入りて
ただ雨の音風の聲々
友よ沈める色を罪なふな

わが心は重し
野がくれ青き草に潜みて
花に埋めし味氣無(あぢきな)の身
今は母の腕(かひな)に凭(よ)りて
幼き夢の國に到らむ
友よ俤人(おもかげびと)の名は言ふな

(初出『夜雨集』明治45年=1912年1月・女子文壇社/改訂決定稿『現代詩人全集・第四巻』「横瀬夜雨集」昭和4年=1929年11月・新潮社)

我脣は燥けり  横瀬夜雨


夕焼の雲西に入りて
星影輝く空となりぬ
一人さまよふ草の戸に
落つるは冷たき涙のみ

筑波の山の猿飛岩も
踏みただらかす脚は痿(な)えたれ
來よと言はば膝行(ゐぎ)りてだに
行きて君に縋らむもの

我脣(くち)は燥(かわ)けり
燥いて焦れんとすれど
露を刺(はり)に貫(ぬ)ける薔薇の花の
白きは人なる君に似たり

肩に凭(よ)れども咎め
手に觸るれども許せし
人は居らぬ故郷(ふるさと)の
樫の大木(おほき)は芽をふきぬ

暗き夢よりさめ來れば
野上を照らす電(いなづま)の
影は痛める胸の中に
射すとはすれど留まらず

(初出『二十八宿』/改訂決定稿『現代詩人全集・第四巻』「横瀬夜雨集」昭和4年=1929年11月・新潮社)

お才   横瀬夜雨


女男(ふたり)居てさへ
筑波の山に
霧がかゝれば
寂しいもの

佐渡の小島(おじま)の
夕浪千鳥
彌彦(やひこ)の風の
寒からむ

越後出てから
常陸まで
泣きに遙々(はるばる)
來はせねど

お月様さへ
十三七つ
お父(とと)戀ふるが
無理かえな

三國峠の
岨路(そばみち)を
越えて歸るは
何時(いつ)ぢややら

やはり妹(をばま)と
背負繩(しよひなは)かけて
薪拾うて
あつたもの

お才あれ見よ
越後の國の
雁が來たにと
だまされて

彌彦山から
見た筑波根を
今は麓で
泣かうとは

心細さに
出て山見れば
雲のかからぬ
山は無い

(改竄版初出『夕月』/原作復原稿『二十八宿』/改訂決定稿『現代詩人全集・第四巻』「横瀬夜雨集」昭和4年=1929年11月・新潮社)


 前回は詩誌「文庫」主宰者だった河井醉茗(1874-1965)の詩をご紹介しましたが、醉茗は新潮社『現代詩人全集』全12巻(昭和4年~5年)の第1巻に全巻解説に相当する現代詩史を書き下ろしており、同全集の編集者は名義上は新潮社創業者でもある佐藤義亮ですが、同昭和4年にやはり新潮社から上梓された日夏耿之介(1890-1971)の大著『明治大正詩史』(上下巻・別冊の3分冊)からの示唆が大きいのは前回触れた通りです。明治以降の現代詩史は同書が初めてではないようですが、これほど浩瀚に大家から群小詩人・詩誌までを網羅してほぼ完璧な書誌を別冊にし、詩史的位置づけと明確な文学的評価を行ったのは画期的な業績で、資料面で協力者がいたとしても通常これだけの大著は分担執筆による共著になるところですが、日夏の単独執筆だからこその一貫性が強みになっています。同書は戦後の昭和23年~24年に創元社から上中下の3分冊(総頁数1,360頁)の『増補改訂』版が再刊され第1回読売文学賞(研究部門)を受賞し、日夏自身も編集委員である河出書房『日本現代詩体系』昭和25年(全10巻)の編集基準にもなりました。

 しかしこの『現代詩人全集』の総解説が河井醉茗によるものなのは納得がいくもので、醉茗は現役長老詩人として日本詩壇の名伯楽というべき位置にいました。1929年には醉茗は55歳、現代ならば老大家というほどの年齢ではありません。しかし明治からの詩人としては土井晩翠(1971年生)、島崎藤村(1972年生)、この全集には(歌人としての盛名の高さから)未収録の与謝野鉄幹(1873年生)が当時存命だったとは言え、藤村は詩からは引退して長く、晩翠の新作はほとんど注目されず、鉄幹は長詩よりほぼ完全に歌人にシフトしていました。醉茗は明治40年の「文庫」解散を引き継いだ早稲田詩社の口語自由詩の詩人たちにも、「文庫」末期に登場した北原白秋三木露風のデビューにも携わり、白秋・露風のライヴァル関係にも、早稲田詩社系=川路柳虹主宰「日本詩人」~「詩話会」系詩人と白秋門下生と露風門下生の三つ巴の抗争のいずれとも恩人となった存在だったので、もっとも穏便な中立的立場にいたのです。特に早稲田詩社から発展した「日本詩人」~「詩話会」は特定の流派を持たない詩人の組織であり、早稲田詩社創立には「文庫」がパトロン的役割を果たしていたため、露風と柳虹の恩師だった醉茗はいつの間にか日本詩壇の親方的立場的にいました。

 明治~大正の詩人の大半は30歳前後までで詩作から引退していましたが、醉茗は55歳にして詩歴35年を越える当時稀有な現役詩人でした。影響力においてはむしろ若手詩人たちの後を追う作風にすぎなくなっていましたが、醉茗によって世に出た詩人たちが直接・間接的にせよ詩壇の大半を占めていたのですから、流派同士では派閥的対立があっても醉茗には頭が上がりません。新潮社『現代詩人全集』の第4巻以降に収録されている詩人のほとんどがそうです。三木露風川路柳虹が主宰となった早稲田詩社同人には加藤介春、三富朽葉山村暮鳥、野口雨情、福士幸次郎、人見東名、相馬御風がおり、北原白秋は「文庫」から石川啄木高村光太郎、木下杢太郎、佐藤春夫堀口大學の依った鉄幹の「明星」を経て「屋上庭園」主宰を主宰し、大手拓次萩原朔太郎室生犀星を世に送りました。三木露風ら「文庫」から上田敏主宰「藝苑」を経て早稲田詩社結成後、川路柳虹と「未来社」を主宰して西條八十、柳沢健を門下生とします。早稲田詩社系の詩人たちは白秋・露風に対抗して川路柳虹主宰「日本詩人」を創立し、やがて白秋系・露風系詩人とも和解し「詩話会」に発展しましたが、佐藤惣之助千家元麿日夏耿之介、生田春月、白鳥省吾、福田正夫、富田砕花、百田宗治が日本詩人~詩話会系詩人たちです。これで前回ご紹介した『現代詩人全集』4巻以降の収録詩人全員の出自に触れたと思いますが、人見東名、相馬御風はともかく、暮鳥、萩原、室生に並ぶ重要詩人ながら大手拓次(1887-1934)が収録されていないのは、遺稿が「中央公論」誌に掲載され遺稿詩集『藍色の蟇』が刊行されたのが昭和11年(1936年)と認められるのが遅すぎたので、伊良子清白『孔雀船』や石川啄木の生前未刊行詩集、『三富朽葉詩集』のように昭和4年の段階では詩史的位置づけができなかったことにもよります。大手拓次は生涯を白秋門下生の詩人として終え、同門以外には知られませんでした。

 北原白秋の存在感は大きく、全集全60巻という巨大な文業は日本の専業詩人でも空前のものですが(絶後ではないのは谷川俊太郎がいるからですが)、白秋と同門でなければ木下杢太郎の精妙な詩作はもっと注目されていたでしょう。白秋は門下生にも強烈なカリスマがあり、「日本詩人」~「詩話会」の存在を徹底的に敵視していたのは白秋ひとりを信奉していた萩原朔太郎ひとりと言ってよく、ほとんどの詩人は萩原の業績を認めていたので萩原の批判は本人に不利なだけでした。そこで萩原に対する詩壇の過小評価から、萩原門下生をもって任じる昭和の新人たちの詩誌「四季」が創刊されるのです。「日本詩人」~「詩話会」について言えば、内部からの批判者である生田春月、日夏耿之介らの意見の方がより実践的で尊重されていました。新潮社『現代詩人全集』の人選は昭和期の詩人たちが本格的に日本の詩をリードする以前の詩人相関図をそのまま反映したもので、第1巻~3巻までを現代詩の古典期とすれば4巻以降はおおむね「文庫」~「日本詩人」~「詩話会」ラインで引っかかってくる詩人たちが選出されているのです。

 なかでも第4巻(昭和4年11月刊)の醉茗、横瀬夜雨(1878-1934)、伊良子清白(1877-1946)の3人集は『明治大正詩史』による文庫派再評価もあって、謙虚な醉茗の独断だけでは実現しなかった重要な1巻になりました。醉茗自身が多作な時期を過ぎていたので、これは新作を含む第6詩集で全詩集『醉茗詩集』(アルス・大正12年)に続く刊行になり、『醉茗詩集』からの精選作品に加えて第7詩集『紫羅欄花』(東北書院、昭和7年)とも重複しない大正12年昭和4年の新作を含んだ事実上の第7詩集と言えるものでした。それは夜雨、清白にとっても同様で、夜雨の新詩集としては『夜雨集』(女子文壇社、明治45年)以来、合本詩集としては『花守と二十八宿』(婦女界社、大正10年)以来、選詩集としては直前に『雪燈籠』(梓書房、昭和4年4月)、同月に『横瀬夜雨詩集』(改造文庫昭和4年11月)がありましたが、新潮社版『現代詩人全集』の「横瀬夜雨集」は初期作品の改訂決定稿から昭和4年までの新作を含むほぼ全詩集と言ってよく、夜雨は昭和9年2月に逝去するのでいわば最後の新詩集にもなったのです。清白の場合はさらに重大で、既刊の伊良子清白詩集は18編を収めた『孔雀船』(左久良書房、明治39年)が唯一のものでした。夜雨の『雪灯籠』と同時に『孔雀船』は同じ梓書房から日夏耿之介の序文を加えて新装版がほぼ四半世紀ぶりに再刻されましたが、新潮社版『現代詩人全集』では『孔雀船』から10編の再録の他に77編の新旧未収録詩編、34編の訳詩がまとめられ、全貌とまではいかないにせよ(『孔雀船』は約160編の手稿から精選されたと言われます)全年代からの選詩集としては全詩集に準じるだけの業績が明らかになったのです。伊良子清白の全集が刊行され、さらに遺漏詩編や未発表詩編、散文、日記、書簡がまとめられたのは平成15年(2003年)のことでした(岩波書店、上下巻)。

 伊良子清白は生前一部の読者にしか読まれない不遇な詩人でした。河井醉茗が専業詩人であり、横瀬夜雨が筑波の農園主(「花守」というのは、家業で花圃を営んでいたからです)を兼ねながら全国紙への詩発表、新聞雑誌の詩欄選者、エッセイストとして生涯著名詩人だったのとは対照的で、現在はむしろ清白だけが文庫派詩人では評価されているのですが、夜雨の生前の存在感は幼児からの身体障害者であったことや(脊椎カリエスによるもので、自力歩行もままなりませんでした)、詩にもほのめかされている女性関係の波乱が同時代の注意を惹いていた面も大きいので、今ならさしずめNHKのドキュメンタリー番組でブレイクするような私生活に対する興味が詩の鑑賞を注釈していたとも言えます。夜雨の詩は熱狂的な女性愛読者を得て、夜雨の身体障害への同情と相まって、家出同然に夜雨の介護のため駆けこんできては翻意して、または周囲の反対で、はたまた突然去って行く女性読者が後を絶たず、それは夜雨が40歳でようやく文学少女ではない遠縁の女性と見合い結婚するまで続きました。結婚以降の夜雨は生活も落ち着いた文人となり、詩作は減少しますが三女を授かる幸福な家庭生活を営み、随筆家として一家をなします。夜雨の作品は何を紹介するか悩み、醉茗が夜雨の名作とするのは「雪燈籠」「野に山ありき」「人は去れり」「我脣は燥けり」「人故妻を逐はれて」「やれだいこ」「富士を仰ぐ」「お才」ですが、夜雨の伝記的知識がないとよくわからなかったり(「人は去れり」)、しかも内容的には抒情詩なのに最大4行30連に及ぶ叙事詩体、対話体、独白体混交の「野に山ありき」や「雪燈籠」「人故妻を逐はれて」だったりと引用に不向きなのです。しかも部分引用では意味をなさないので、ここでは夜雨の私生活が比較的反映していないか、反映していても意味ありげな恋愛詩ではないものを選びました。

 横瀬夜雨の第1詩集『夕月』は収録作品中の半数が出版者によって改竄されたので、第3詩集『二十八宿』には改竄作品の原作が再録されましたが(「影」もそのひとつです)、『夕月』から引いた「涙」は改竄を免れた詩篇です。また「お才」は改竄作品で『二十八宿』ではこの4倍あった4部構成の原作が再録されましたが、『夕月』での短い改竄版があまりに有名になったため『現代詩人全集』には夜雨自身によって改作された短縮版が収められています。4部構成版は長大なので割愛しましたが、これはもっとも知られ人口に膾炙した夜雨作品なので、夜雨自身による最終短縮版も載せました。他にも『現代詩人全集』版で夜雨自身が改作し、初出より良くなっている作品が多いのは特筆すべきで、一般的にはほとんどの詩人の場合、後年に自作の改作をすると失敗しますから珍しい例外になります。

 また『現代詩人全集』に収められた最新作の「筑波に登る」は最晩年の絶唱で、夫人とまだ幼い末娘、筑波を訪ねてきた旧知の詩人仲間とともに筑波山を登り、風景を見渡し、幼い娘を見ながら、これが自分には生涯最後の筑波山登山になるのだろうか、と思う澄明な心境が平明簡潔な措辞によって描かれており、併せて引いた旧作「わが額は重し」「吾脣は燥けり」「お才」(夜雨は制作逆年順の詩編配列を好みました)のいずれもが原作よりもすっきりして若々しい、より焦点の定まって感銘の深い作品に生まれ変わっているのは天稟の素質の良さを感じます。悲恋詩による不遇な抒情詩人とも、「お才」に代表されるローカルで素朴な民謡体詩人というイメージとも異なる夜雨の冴えた技巧家の面は注目すべきでしょう。

(旧稿を改題・手直ししました)

トラフィック・サウンド Traffic Sound - バイラー・ア・ゴーゴー A Bailar A Go Go (Mag, 1969)

トラフィックサウンド - バイラー・ア・ゴーゴー (Mag, 1969)

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トラフィックサウンド Traffic Sound - バイラー・ア・ゴーゴー A Bailar A Go Go (Mag, 1969) Full Album : https://youtu.be/mAUGVT7zbRA
Originally Released by MAG Records Peru, Mag-2354, 1969
Reissued CD Released by Lion Productions, US, Repsychled-CD 1019, 2015
Lado A (Side A)
A1. I'm So Glad (Skip James) - 3:15
A2. You Got Me Floating (Jimi Hendrix) - 4:12
A3. Sueno (Eddie Brigati, Felix Cavaliere) - 3:16
Lado B (Side B)
B1. Destruction (Darryl DeLoach, Danny Weis) - 2:44
B2. Sky Pilot (Eric Burdon, Vic Briggs, John Weider, Barry Jenkins, & Danny McCulloch) - 5:39
B3. Fire (Jimi Hendrix) - 3:11
(Reissued Repsychled-CD Bonus Tracks)
7. Sueno [Remix]
8. I'm So Glad [Remix]
9. Fire [Remix]
10. Destruction [Instrumental]
11. You Got Me Floating [Remix Edit]
12. Sueno [Acoustic Remix]
13. Sky Pilot [Remix Edit]
[ Credits ]
Formed in 1967, Lima, Municipalidad Metropolitana de Lima, Peru

[ Traffic Sound ]

Manuel Sanguinetti - Vocals, Pandereta (vocals, tambourine)
Willy Barclay - Primera Guitarra, Guitarra Acustica, Coros (lead guitar, acoustic guitar, backing vocals)
Freddy Rizo Patron -Bajo, Guitarra Ritmica, Guitarra Acustica (bass, rhythm guitar, acoustic guitar)
Miguel Angel Ruiz - Bajo (bass)
Luis Nevares - Bateria (drums)
Jean-Pierre Magnet - Saxo, Flauta, Vibrafono, Coros (saxophone, flute, vibraphone, backing vocals)
Willy Thorne - Organo , Bajo, Coros (keyboards, bass, backing vocals)

(Original MAG "A Bailar A Go Go" LP Liner Cover & Lado A Label)

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 日本のGSも英米以外の非英語圏ではいかに国際水準にあったかを示す証拠物件。トラフィックサウンドは1968年当時ペルーで最先端のサイケデリック・ロックをやっていたバンドです。このデビュー・アルバムは1968年に相次いで発売された先行シングル「I'm So Glad c/b Destruction」「Sky Pilot c/b Fire」「You Got Me Floating c/b Sueno」の全6曲をそのまま収録したものがオリジナルで、33 1/3prmの12インチLPにもかかわらずA面・B面合わせて22分の収録時間しかありません。10インチLP相当の収録曲しか入っていないので、どうやらこのデビュー・アルバムの時点では他に持ち曲がなかったようです。曲はすべて当時最新の英米ロックをそのまま英語カヴァーしたものになります。単刀直入に言ってペルーGSでございます。

 シングル単位で原曲の出典を見ると、「I'm So Glad c/b Destruction」はクリームのデビュー作『Fresh Cream』1966.12からのA面とアイアン・バタフライ(「Destruction」の原題は「You Can't Win」、デビュー・アルバム『Heavy』1968.1収録)、「Sky Pilot c/b Fire」はエリック・バードン&ジ・アニマルズ『The Twain Shall Meet』1968.4収録の先行シングル(全米14位)とジミ・ヘンドリックスのデビュー・アルバム『Are You Experienced?』1967.5より、「You Got Me Floating c/b Sueno」はジミ・ヘンドリックス(同前)とラスカルズ(アルバム『Groovin'』1967.7収録)といった具合で、日本のジャガーズゴールデン・カップス、ダイナマイツ、モップス、ビーバーズら洋楽への傾倒が強いサイケデリック・ロック寄りの後期GSと選曲センスはそのままと言えます。シングル・ヒットした有名曲もアニマルズのB2しか採り上げていません(ラスカルズのA3はNo.1ヒット「Groovin'」B面、アイアン・バタフライのデビュー作はともかくクリームとジミはアルバム自体が大ヒット作ですが)。

 では本作と硬派GSを代表する『ザ・ゴールデン・カップス・アルバム』1968.3やモップスの『サイケデリックサウンド・イン・ジャパン』1968.4、ダイナマイツ『ヤングサウンドR&Bはこれだ』1968.4、ザ・ビーバーズ『ビバ・ビーバーズ』1968.6と較べてどうかというと、本作の時点では日本GS偉い、ペルーのトラフィックサウンドしょぼい、と言わざるを得ません。ペルーだって日本と英米ロックとの距離感は大差なかっただろうと思いまが、トラフィックサウンドは日本のGSに較べても音が軽いのです。軽い分ダンサブルな質感はあり、試しに踊ってみると一応踊れるロックにはなっているのに感心します。しかし言ってみれば本作はそれしか取り柄がないサウンドにとどまります。ペルーのロックはインカ・ロックと呼ばれており、たしかにペルーはかつてのインカ帝国の中心地で紀元前~スペインに征服される16世紀までは2000年以上に渡って世界最大の文明国だった地域ですが、本作の時点では名前負けもはなはだしい印象を受けます。

 踊れるGSならジャガーズとカーナビーツの各『ファースト・アルバム』が1968.2、ザ・ハプニングス・フォー『マジカル・ハプニングス・トゥアー』1968.7屈指のアルバムですが、トラフィックサウンドの本作と較べれば内容的にも発売時期でも明らかにジャガーズとカーナビーツ、ハプ4の圧勝でしょう。セカンド以降はメンバー自作オリジナルで固めるザ・テンプターズも『ファースト・アルバム』1968.6はオリジナルとカヴァー半々で、トラフィックサウンドのように軽快ではありませんが、アイドルGS的に売り出されたにもかかわらず内向性の強い、もっと当時最先端の英米ロックと精神的に共鳴した作風を持っていました。

 アルバムに即して本作の選曲を、もう少し詳しく見ていきましょう。
A1. I'm So Glad (Skip James) - 3:15
A2. You Got Me Floating (Jimi Hendrix) - 4:12
A3. Sueno (Eddie Brigati, Felix Cavaliere) - 3:16
 まずA面の3曲ですが、レーベル面を見ると3曲とも作曲者名が「D.R.」、著作権登録が「Go Go」となっています。D.R.はPublic Domain(著作権公開=消滅、または作者不詳)、著作権登録がGo Goなのは、要するにペルーではトラフィックサウンドがGo Go名義の社名でこれらの著作権を登録してしまったことを示します。つまり当時ペルーは英語圏を含む国際著作権条約に加入していなかったのです。クリームのA1は1927年に初録音され、1931年のスキップ・ジェイムズのヴァージョンが知られた戦前の伝承的ブルースだからまだしもですが、ジミのA2、ラスカルズのA3の勝手な著作権登録はまずいでしょう。A1とA2は世界中のガレージ・サイケ・バンドの定番曲ですが、ラスカルズの「Sueno」は異色です。シングルB面にもなった悪くない曲とはいえラスカルズでも地味な曲ですし、タイトル(原題通り)がスペイン語だから取り上げたのかもしれません。次にB面に行くと、
B1. Destruction (Darryl DeLoach, Danny Weis) - 2:44
B2. Sky Pilot (Eric Burdon, Vic Briggs, John Weider, Barry Jenkins, & Danny McCulloch) - 5:39
B3. Fire (Jimi Hendrix) - 3:11
 B1は副題に「You Can Win」とあり(作者無記名)、アイアン・バタフライの『Heavy』A面ラストの「You Can't Win」と同一曲とすぐには気づく人は少ないと思われます。これはもともとシングル曲でもないし、CanとCan'tでは逆になっています。B2のアニマルズ曲はヒット曲で、原曲は7分の大曲をシングルA面Pt.1(2分半)、B面Pt.2(5分)に分けた大胆なものでした。トラフィックサウンドも5分40秒かけています。作者はエリック・バードンの名前だけクレジットされています。B3もB2同様GSカヴァーも多い曲で、なぜかB2とB3だけは作者名が記してありますが(トラフィックサウンドのヴァージョンに先駆けてペルーで著作権登録されていたのでしょう)、Jimmy Hendrixとなっています。ジミ本人なら笑って許すでしょうが、とにかく全曲の版権がペルー国内ではGo Goにあるので、ペルー国内だけでならこれは全曲オリジナル曲のアルバムでもあります。なんでB2, B3の2曲だけ作者名を載せ(しかも間違って)、しかも他の曲は著作権不詳扱いにしたのかは当時のペルー事情によるものでしょう。

 トラフィックサウンドのアルバムをリストにすると、
1. A Bailar Go Go (MAG, 1969)
2. Virgin (MAG, 1970)
3. Traffic Sound (a.k.a. III) (a.k.a. Tibet's Suzettes) (MAG, 1971)
4. Lux (Sono Radio, 1972)
 があり、2『Virgin』以降のアルバムは全曲オリジナル曲です。再発CDは単品でも出ていますが、
・1968-1969 (Background, 1992)
 は1と2をそのままカップリングしたものとなっており、
・ Yellow Sea Years (Vampi Soul, 2005)
 は1997年までマスターテープが行方不明になっていた4.『Lux』全曲に1~3までの代表曲を加えたコンピレーションです。2005年に2『Virgin』がイギリス盤CDで再発されたのをきっかけに再評価が高まり、以降何度か散発的なリユニオン・コンサートが行われています。結構しぶとくメンバーは現役ミュージシャンだったバンドで、国際的認知と本格的な再評価は今世紀に入ってからと言ってよく、まだ途上にあるでしょう。これも日本のGSやニューロックより再評価が遅れています。

 このデビュー・アルバムに限って言えば、GS時代の日本の在日アメリカ人バンド、ザ・リードや在日フィリピン人バンド、デ・スーナーズに似ていますが、リードやスーナーズの方が断然上手いバンドでした。録音の質にも依るかもしれません。RCAのリードやフィリップスのスーナーズの録音は当時日本の最高水準の技術と機材で制作され、特に在日ミュージシャンで初めてギターのスクィーズ奏法(チョーキング)を披露したギタリストを擁するリード、ジミ・ヘンドリックス曲を得意として日本の後期GSの教則本バンドになったスーナーズの功績を考えると、もしトラフィックサウンドが在日ペルー人バンドだったとしてもリードやスーナーズには及ばなかっただろうと考えられます。ゴールデン・カップスモップスの方がよっぽど上なのですから。

 しかしトラフィックサウンドはすべてオリジナル楽曲になったセカンド・アルバムから面白いことになります。ここまでずっとトラフィックサウンドがまるで冴えないバンドのように書いてきましたが、負の札ばかりから逆転一発してしまったように、突然英米ロックからは出てこない(サンタナのようなラテン系アメリカ人バンドからも出てこない)独創的なラテン系ロック・スタイルを『Virgin』一作で確立してしまうのです。『Virgin』以降のトラフィックサウンドはイギリスのホークウィンドやキャタピラー、フランスのゴング、イタリアのオザンナなどのサックス入りのサイケデリックアンダーグラウンド・バンドにも似ていますが、時期的にトラフィックサウンドの方が早いので直接の影響関係は考えられず、また独自性の方がはるかに強いのです。ラゴーニア(Laghonia)の同年のデビュー作『Glue』とともに、「インカ・ロック」はトラフィックサウンドの『Virgin』から始まったというのが納得のいく名作が続きます。トラフィックサウンドとラゴーニアは全アルバムをご紹介できそうなので、本作と『Virgin』の間に突然起こった飛躍から、「インカ・ロック」のよくわからない面白さをよくわからないまま聴いていく楽しみが今日のリスナーには残されています。

(旧稿を改題・手直ししました)

河井醉茗・日夏耿之介と『現代詩人全集』(昭和4年=1929年~昭和5年=1930年)

(河井醉茗<(明治7年=1874年生~昭和40年=1965年没)>)
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稚児の夢   河井醉茗

そらに きみの こゑを きけり
むねと むねと かげと かげと
そらに あひて こゑを きけり

たびの ひとの みては かへる
ふるき かべに うたを のこし
きみと ともに そらを あゆむ

ふかき もやは ゆくに ひらけ
うみは とほし しまか やまか
うごく ものは みえず なりぬ

きしと きしの はやき しほを
およぎ こえし こひの もさは
ひとの くにの ものに みえぬ

われら ふたり いかに はてん
われの すがた くもと きえて
きみは たかき ほしと なるか

そでは まどひ おびは のろひ
ひとの きぬを とみに ぬぎて
きみは ちさく ちさく なりぬ

ちゝを さがす ちごの ごとき
きみを だけば わがて かろし
まこと こひは ちごの ゆめか

(初出・明治34年=1901年「文庫」秋号/第2詩集『塔影』明治38年=1905年6月・金尾文淵堂)

落葉を焚くの歌  河井醉茗


秋晴(しうせい)の朝、庭守(にはもり)は
黄なる樺なる雌黄(しわう)なる
木(こ)の葉草の葉うづたかく
火をうつさんとかゞまりぬ

夜(よ)にうるほひし露霜も
一葉ゝゝに乾きゆく
畑のかげに立ち添ひて
葉守(はもり)の神やあらはれむ

眞夏大野を覆ひたる
國つ鎭めの公孫樹(こうそんじゆ)
光に透いて金葉(きんえふ)の
皆地に落つる響きかな

櫻の精は遠春(とおはる)の
海を渡りて去(い)にゝけり
朽ちては輕き乾き葉(ば)の
梢はなるゝ力かな

常磐なるべき檜葉(ひば)杉葉
うらがれたるがめらゝゝと
火になりやすき秋のはて
地の美はそらに収まらむ

機(はた)にかかれる織絹の
自然の彩(あや)のまばゆきも
捲かるゝまゝに彼方なる
はてしなき手に渡されぬ

あゝ落つる葉に驚いて
烟を擧ぐる庭守よ
萬葉焚いて盡きせざる
林に入らば悸(をのゝ)かむ

(初出・明治38年=1905年「中学世界」/詩文集『玉蟲』明治39年1906年5月・女子文壇社)

ある朝   河井醉茗


我身の上に苦しい事件(こと)がふりかゝつて來た、けれども自分には勤めがある。
いつもの同じ時刻、同じ電車に乘る。
今朝は妙に人の顔が遠くで動いてゐるやうに見える、毎(いつ)の朝も馴染(なじみ)のやうな意(き)がしてゐる乘客(のりて)の人々が、何だかそらぞらしく、急に他人になつたやうで、自分一人だけ運ばれてゆくやうだ。
女學生が掛けて居る幅廣のリボンも、中學生の帽子の徽章(しるし)も一向(いつかう)氣に留まらぬ、動いてゐるものに見えぬ。
車掌も運轉手も旗振も、皆自分に關係の無いことをしてゐるやうで、坂は上(のぼ)つたのか、下りたのか、今は何處を通つて居るのか、考へてみないと分からぬ。
兩側の家並(やなみ)も、街路(まち)の日影も、今朝に限つて知らぬ顔をしてゐる、世の中と、うとゝゝしくなつた、よそゝゝしくなつた。
明るい光線が不思議になつて來た、新聞を讀んで居る人が羨ましくなつた、皆、人が苦勞なささうな顔して居るのが嫉(ねた)ましくなつた、昨日まではそんなことは何ともなかつた、只(ただ)明るいものは明るく、美しいものは美しかつた。
今朝は明るいものに暗い影があるやうに思ひ、美しいものに僞(いつわ)りがあるやうに思はれてならぬ。
違つた道を歩くやうに思ひながら、毎朝來る自分の勤め場所に入つた。

(第4詩集『霧』明治43年=1910年5月・東雲堂書店)

ゆずり葉   河井醉茗


子供たちよ。
これは讓り葉の木です。
この讓り葉は新しい葉が出來ると
入れ代つてふるい葉が落ちてしまふのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉が出来ると無造作に落ちる
新しい葉にいのちを讓つて----。

子供たちよ。
お前たちは何を欲しがらないでも
凡てのものがお前たちに讓られるのです。
太陽の廻るかぎり
譲られるものは絶えません。

輝(かゞや)ける大都會も
そつくりお前たちが讓り受けるのです。
読みきれないほどの書物も
みんなお前たちの手に受取るのです。
幸福なる子供たちよ
お前たちの手はまだ小さいけれど----。

世のお父さん、お母さんたちは
何一つ持つてゆかない。
みんなお前たちに讓つてゆくために
いのちあるもの、よいもの、美しいものを
一生懸命に造つてゐます。

今、お前たちは気が附かないけれど
ひとりでにいのちは延びる。
鳥のやうにうたひ、花のやうに笑つてゐる間に気が附いてきます。

そしたら子供たちよ
もう一度讓り葉の木の下に立つて
讓り葉を見る時が來るでせう。

(第7詩集『紫羅欄花』昭和7年=1932年7月・東北書院)


 日本の現代詩史が初めて総括されたのは、日夏耿之介(1890-1971)の上下巻計1000ページ以上、別冊年表・索引150ページあまりの大著『明治大正詩史』(新潮社・上巻昭和4年1月、下巻昭和4年11月)であり、同書は明治期~大正初期の現代詩史観として後世に決定的な影響を与えました。明治大正詩人はまだ昭和4年には多くが現役で、また日夏自身も詩人でしたので(処女作『転身の頌』大正6年=1917年刊)『明治大正詩史』では明治詩人たちの業績については客観性を保った史観が保たれていますが、大正期の詩人については強いライヴァル意識がうかがわれ、必ずしも日夏の評価が妥当とは言えない面も目立ちます。しかしそうした偏差も含めて現代詩史としては日夏の著作は初めて明治以降の新体詩=現代詩史を体系化したものでした。新潮社『現代詩人全集』全12巻(昭和4年=1929.7~昭和5年=1930.7刊)は時期を同じくして同じ出版社から刊行され、初めて明治以来の現代詩を全集化したもので、『明治大正詩史』に匹敵する役割を果たしています。この全集に日夏が直接携わったかは不明ですが伊良子清白、石川啄木高村光太郎など1冊の既刊詩集しか持たない詩人に未刊詩集を含む全詩集に近い紙幅を与え、生前刊行詩集すらない三富朽葉は歿後出版の詩集全編に未収録詩編も加えて全詩集とするなど『明治大正詩史』の高い評価がなければなかなかできない人選です。日夏は後に『日本現代詩大系』(河出書房・昭和25年=1950年)の明治期編の編者になりますが、『現代詩人全集』との重複を見ても『明治大正詩史』『日本現代詩大系』との共通性がわかります。『現代詩人全集』全12巻の収録詩人は以下の通りです。

第1巻●初期十二詩人集
湯浅半月集/山田美妙集/宮崎湖処子集/中西梅花集/北村透谷集/太田玉茗集/國木田獨歩集/塩井雨江集/大町桂月集/武島羽衣集/三木天遊集/繁野天来集
*附録・現代詩の展望 (明治、大正、昭和詩史概観) 河井酔茗
第2巻●島崎藤村土井晩翠薄田泣菫
第3巻●蒲原有明・岩野泡鳴・野口米次郎集
第4巻●河井醉茗・横瀬夜雨・伊良子清白集
第5巻●北原白秋三木露風川路柳虹
第6巻●石川啄木山村暮鳥三富朽葉
第7巻●日夏耿之介西條八十・加藤介春集
第8巻●生田春月・堀口大學佐藤春夫
第9巻●高村光太郎室生犀星萩原朔太郎
第10巻●福士幸次郎佐藤惣之助千家元麿
第11巻●白鳥省吾・福田正夫・野口雨情集
第12巻●柳澤健・富田砕花・百田宗治集

 この全集は後に文庫化されてもおり、3人集は1人1冊のほぼ全詩集のヴォリュームがありましたから、3人集収録の詩人が33人、明治新詩初期の詩人12人の選詩集(これも作品の少ない詩人が多いので、実質的に全詩集に近い)を足して45人の詩人が収録されています。本来は明治後期にさらに12人集、大正期に12人集、まだ昭和5年ですが昭和期に12人集を加えた全15巻でもいいでしょう。むしろその方がまだしも現在でも知られた詩人が増えたはずで、そのくらいこの1929年~1930年刊行の詩人全集は死屍累々に古びてしまっています。現代詩史の研究者以外はまず読まない詩人が半数以上を占めているものが90年前にはポピュラーな読者を想定した詩人全集として通用していたのは、歴史の風化作用を痛感せずにはいられないとともに、日本の現代詩がいかに貧弱な土台の上に歴史を築いてきたかを思い知らされるようです。現行の出版状況を参観しても、この45人の詩人のうち新刊書店で手軽に手に入る詩人がどれほどいるかを思えば一目瞭然です。読まれないものは忘れられていくのも自然の道理で、全12巻のうち奇跡のように第9巻の高村光太郎室生犀星萩原朔太郎集がある。逆に言えば、昭和5年当時この3人が分散せずに集められたのは、詩質の高さではなく高村・室生・萩原1組で他の巻と等価だったことを示します。

 トルストイの大長編小説『アンナ・カレーニナ』1877の有名な書き出しは「幸福な家庭はどれも似ているが、不幸な家庭はさまざまである」というものでした。また、20世紀イギリス文学の名作、チェスタートンの『ノッティング・ヒルのナポレオン』の書き出しは「悪人でも人間には違いないように、へぼ詩人でも詩人には違いない」と心優しい警句から始まっています。『アンナ・カレーニナ』の書き出しをその伝で置き換えれば「非凡な詩人の作風はさまざまだが、へぼ詩人はたいがい似たり寄ったりである」となるでしょう。もっとも詩歌の優劣を見分けるには読解力にも相当な鍛錬が必要になります。一応学校教育でも優れた詩歌をテキストに教養はつけさせようとしますが実はそれでは駄目で、名作も凡作も浴びるように読まなければ名作が名作たるゆえんも詩とすら言えない凡作との違いもわからないので、これは詩歌というジャンルに限ったことではないでしょう。

 しかし問題は、芸術において歴史的な水準を示すのは時流を抜いた才能ではなく、模倣者と指導者の区別もつかないほど凡庸な流派こそ時代の本流であり基準と見るべきであって、大正~昭和初期にかけては三木露風(1989-1964)と川路柳虹(1888-1959)が年少詩人たちにとってもっとも模倣の対象になった主流詩人だったと言えます。小林秀雄中原中也との交流で知られる夭逝詩人・富永太郎(1901-1925)の遺稿詩集には刊行後50年あまり三木露風作品の筆写稿が富永作品として掲載されており、また少年詩人時代の三島由紀夫(1925-1970)が師事したのは川路柳虹でした。柳虹・露風亡き後は日本の現代詩史にこの2人は形ばかり名前を残しているだけになっています。柳虹や露風でなければ似たような詩人が指導的存在になっていたでしょう。彼らの作品は創造性においてはまったく不毛でしかなく、いつの時代でも不毛な詩人は一定の割合でいるという意味で存在意義を担っており、『明治大正詩史』や『現代詩人全集』『日本現代詩体系』の索引を見るとさながら屍の山の観すらあります。それは当然今日生産されつつある詩にも免れられない運命であり、その大半は明日には顧みられなくなると思えば詩に限らず創作とは常に徒労感との闘いであるとも言えます。

 高校の国語教科書で教わる明治期の詩人の名は北村透谷(1868-1894)、島崎藤村(1871-1943)、土井晩翠(1871-1952)、薄田泣菫(1877-1945)、蒲原有明(1876-1952)の5人ほどで、高村光太郎(1883-1956)や北原白秋(1885-1942)は明治40年代には活動を始めていますが作風は大正以降の詩人ととらえるべきでしょう。明治の現代詩が明治22年(1889年)の新聲社同人(代表・森鴎外)『於母影』でアンソロジー、北村透谷『楚囚之詩』で個人詩集の本格的な幕開けが始まったとすれば、先駆的な詩集にはアンソロジー『新體詩抄』(明治15年=1882年)、山田美妙編『詩體詩選』(明治19年1886年)、個人詩集に湯淺半月『十二の石塚』明治18年(1885年)、落合直文『孝女白菊の歌』明治21年1888年)があり、明治24年(1891年)の磯貝雲峯『知盛卿』、中西梅花『新體梅花詩集』、北村透谷『蓬莱曲』(中学生時代の蒲原有明は学校で持っている生徒を探し当てまでして読んだそうです)、山田美妙(単独詩集)『青年唱歌集』、明治26年(1893年)の宮崎湖處子『湖處子詩集』を経て、当時考え得る限りの詩型をすべて駆使した与謝野鉄幹の実験的な第1詩集『東西南北』明治29年(1896年)に至ります。辛辣なエッセイスト斎藤緑雨が流行詩人5人のパロディ「新體詩見本」(明治27年・新聞発表)を収めたエッセイ集『あま蛙』明治30年(1897年)が示すように、この年までが明治新詩運動の第1期と言えるでしょう。同明治30年には島崎藤村の第1詩集『若菜集』が刊行されて、同詩集が大正期までの文語自由詩の抒情詩スタイル(叙事詩は衰退しました)の標準になったからです。またこの多いとは言えないリストに、精神疾患を発症し急逝した詩人が2人(北村透谷・中西梅花)も判明しているのは異様な気がします。

 もちろん藤村のスタイルだけが唯一ではなくて、すでに鉄幹の「ますらおぶり」調もあり、藤村スタイルに対して晩翠の叙事詩スタイル、泣菫の擬古典調、上田敏の翻訳詩、有明象徴詩までさまざまな試みがあり、北原白秋明治30年代以降のスタイルすべてを総合して登場した詩人でした。石川啄木はまず現代詩の詩人としてデビューしましたが、詩人としては白秋と同じ発想でした。また、高村光太郎はそれらをすべてを拒否して独自のスタイルを持って登場しました。ただし『若菜集』以降の自由詩に『若菜集』に対抗するでもなく、ほとんど時流と関係なしに活動していた詩人たちがいます。詩誌「文庫」主宰者の河井醉茗(1874-1965)、「文庫」の主力詩人だった横瀬夜雨(1878-1934)、「文庫」で醉茗に随一の有力詩人と目されながら注目されず不遇をかこっていた伊良子清白(1877-1946)の3詩人は明治30年代のロマン主義象徴主義詩の流れにはうまく位置づけられないことから詩史的には軽視されがちですし、有明の親友の象徴詩人、岩野泡鳴(1973-1920)は有明の4詩集と同時期に4冊の詩集を上梓しましたが、あまりに特異な発想と文体から有明以外の詩友からもまったく理解されず、自然主義小説に転じて小説家として成功しました。泡鳴の象徴主義理解は同時代の詩人では有明を圧倒するほどで、没後に小林秀雄河上徹太郎中原中也らに再評価されることになったのです。それは伊良子清白が日夏耿之介によって醉茗、夜雨以上に明治30年代最高の詩人、泣菫や有明の最高の達成と匹敵するという再評価と同時期の、昭和初年になってからのことでした。

 この『現代日本詩人全集』で欠落しているのは、前述の通り第1巻に相当するマイナー・ポエットの巻が明治後期(30年代以降)、大正期、昭和期にも設けられるべきだった、というのもありますし、明治期に限っても森鴎外与謝野鉄幹上田敏は3人集で入れるべき大物でした。鴎外は訳詩と創作詩の比重が難しい上に自由詩以外の短歌、長歌、俳句、漢詩などあらゆる詩型で作品があり、鉄幹も同様です。上田敏は訳詩と創作詩では訳詩の比重が高く、しかもその訳詞は明治後期の自由詩に指導的役割を果たしました。訳詩集ならば永井荷風の『珊瑚集』も上田敏海潮音』と双璧です。また上田敏永井荷風の関連からは木下杢太郎が一家を成す詩人で、日夏耿之介は白秋の初期作品より木下杢太郎の詩業を優れたものと賞賛しています。また、石川啄木を収録しているこの詩人全集の見識ならば、歌人の余技以上の業績として与謝野鉄幹とともに与謝野晶子も入選してしかるべきでしょう。鴎外、鉄幹、晶子、劇作家として高名だった杢太郎を外したのは文業が自由詩主体でないからとして(それを言えば鴎外は生涯本業は軍医でした)、また『海潮音』と『珊瑚集』は翻訳詩として外すと、それだけでも明治~大正の詩は貧しくなってしまいます。『海潮音』と『珊瑚集』の文体は明治40年代~大正期の詩の背骨になり、精神的には昭和年代のモダニズム詩の先例となるものでした。

 それはこの全集のうち高村光太郎室生犀星萩原朔太郎集だけが飛び抜けて光っているのと同じ理由でもあり、昭和期の詩の特色がようやく出揃った昭和5年~10年の間に「四季」や「歴程」などの有力な若手詩人たちの詩誌では「四季」は室生犀星、「歴程」では高村光太郎を擁立し、それは大正期までは必ずしも高い評価を得られなかった彼らこそが自分たちの詩の先達詩人であることの表明であり、萩原朔太郎は党派を越えて現代詩最高の革新者として萩原を乗り越えるスタイルが模索されるほど重要な存在でした。戦後詩の「荒地」や「列島」では「四季」「歴程」が掲げていた詩観がモダニズムマルキシズムとともに批判的検討をされることになります。中立的な立場の詩人たちが多く集まって、おおむね穏健な作風で広い支持を得たのが「櫂」同人でした。「櫂」の詩人たちは一致した主張を持たない点で「荒地」や「列島」とは異なり、むしろ「四季」や「歴程」のもっとも柔軟な部分を継承した新しい世代(と言っても1950年代)でしたが、ふと気づくとそれは1965年の逝去まで、89歳の最長老詩人だった河井醉茗が往年主宰していた「文庫」のあり方に近いのです。日夏耿之介ではなく河井醉茗が『現代詩人全集』第1巻の「附録・現代詩の展望 (明治、大正、昭和詩史概観)」の筆者であるのもその柔軟で公平中立な立場からでした。今回は、明治34年(1901年)の第1詩集『無弦弓』から晩年まで常に温厚な作風との定評を崩さなかった醉茗の、点の辛い日夏耿之介も賞賛する初期代表作2編と日夏が「ここから駄目になった」と指摘する日本初の口語散文詩集『霧』から1編、また小学校教科書への採用や合唱曲でも知られる「ゆずり葉」を上げてみました。蒲原有明と同世代とは思えない平易さにもご注目ください。現代詩の長所にも短所にもつながる醉茗の詩がむしろ平凡さによって明治大正詩を代表したゆえんである、恭順な市民的特色がわかります。

(旧稿を改題・手直ししました)