人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

順法闘争について

いただいたコメントは至極ごもっともです。ぼくはあえてそれらを特殊例としました。稀にですが、刑務所をシノギの場にする人もいます。ただし一時的な避難場所です。受刑は二年または四年単位ですが、模範囚なら半分の刑期で出所できます。
また、組織内犯罪者には刑務所はむしろ安全でもあります。さらに稀には、自殺ができないので極刑確実の重犯罪を犯す人もいます。しかしそれは新聞種になるくらい少数です。実際、報道される受刑者は全体の千分の一もおりません。

現代の刑務所はO.ヘンリーの短編や大杉栄の獄中記のように牧歌的ではありません。確実に人間性を荒廃させる懲罰システムを意図した隔離施設です。出所後の生活保障もまったくなく、捕まえておいて刑期が満了したら放り出すだけで、結果的に再犯率は非常に高いのが現状です。
懲罰施設ではあっても更生施設としては用を足さない点で、日本の受刑制度は前近代的なまま運用されています。現代では刑務所を更生施設として位置付けている国家が多数を占めることを考えると、受刑者は被疑者の時点ですでに公正な人権を剥奪され、未来を奪われている、と言えるでしょう。

また、前回の文章全体の主旨はそこにはありません。法や制度において人は自分を強者の立場と錯覚しやすく、それが強い国家権力の源になっており、かつての被差別階級に代わるものを生み出している。「受刑者に公費で食事させるな」も「自立支援医療は割に合わない」も実際にぼくが目にした意見です。こんなことは本来公にする意見ではないでしょう。現実に正当な権利として行使されている制度に対して異を立てるなら、発言者は行為を裏付けとして制度に相対すべきです。納税を拒否し、自立支援医療を受け付けなければいい。それから発言すべきことです。

ぼく自身はこの一文では何も主張していません。権力と個人ではどちらに不正が起こり得るか、その不正が正当化し得るか、まで踏み込まなければ単に中立的な認識でしかないでしょう。今回はその手前までしか触れておりません。
生死がかかって初めて不正の有無は問われなくなるとすれば、この問題は個人に尽きることは明白です。しかしそこでも法的な正当性を堅守しようとすれば、現在ではほぼ死語になっている用語になりますが、「順法闘争」というのが最後の一線になるでしょう。