チャップリンは映画界入り二年目の1915年には早くもエッサネイ社に移籍、同社では一年間に短編14本を自作自演します。前年のキーストン社では一年間で長編一本と短編35本に出演しており、つまり10日に一本で短編を制作していたのが、移籍後は月一本強のペースになったわけです。単純計算で三分の一強ですが、キーストン社時代の出演作品は純粋な主演・監督作は半数ですので簡単に本数から労力は測れません。なにしろ映画デビュー一年目であり、キーストン社の人気スターだったロスコー・アーバックルやメイベル・ノーマンドの主演作への脇役・相手役出演も半数を占めており、サイレント喜劇史上初の長編となった『チャップリンの百万長者』も実際は喜劇女優マリー・ドレスラーの主演作で、また監督もキーストン社を主宰するマック・セネットです。ただしチャップリンは映画デビュー一年目で一躍スターになったので、エッサネイ社への移籍はキーストン社よりも格段に良い条件で行われたでしょう。
移籍第三作『拳闘』からはエドナ・パーヴィアンスがレギュラー・ヒロインに起用され、1923年までチャップリンのマドンナとなります。チャップリン初のシリアス作品でエドナ主演『巴里の女性』を最後に彼女はチャップリン作品から離れますが、エドナ以後にはレギュラー・ヒロインはいないことでも彼女の重要性は大きいのです。『男はつらいよ』的な、その後一般的になるチャップリンのキャラクターもエドナ時代に確立されました。そして『巴里の女性』の次作が二年をかけた『黄金狂時代』1925で、創作姿勢に大胆な飛躍があります。
1918年の『犬の生活』からチャップリンはメジャーへ移籍しますが、その前の二年間にミューチュアル社で短編12本を監督します。二か月に一本と、エッサネイ社時代より本数は半減しますが、それだけ入念な制作環境を獲得したということです。これらはすでに後年の長編の雛型と言えて、どの一編からもそれは明らかです。事実上1915~17年の三年間でチャップリンがキーストン社のスタイルを完全に革新したのがエッサネイ社~ミューチュアル社の初期短編でわかります。この業績だけはチャップリンにしかなしとげられず、以後の喜劇映画の規範になったのです。