人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

映画日記2017年5月28日~5月30日/フリッツ・ラング(1890-1976)のアメリカ映画(5)

 前作の『緋色の街/スカーレット・ストリート』をウォルター・ウェンジャーとの共同プロダクション、ダイアナ・プロダクションズでみずから手がけたラングは、次回作『外套と短剣』ではゲイリー・クーパー主演のワーナー作品で再びメジャー企画を引き受けます。終戦末期から製作されましたがこの『外套と短剣』からは戦後作品になるわけで、これは『マン・ハント』から『恐怖省』までの反ナチ映画の実績が買われた依頼でしょう。ちなみにラングは(ノンクレジット作品を除いて)1936年の『激怒』から1956年の『条理ある疑いの彼方に』までハリウッドでアメリカ映画を22本監督しましたが、アカデミー賞にはノミネートすら1本もない監督でした。引退後の功労賞を除けば現役時代のラングは受賞した映画賞は『死刑執行人もまた死す』がヴェネツィア映画祭特別賞を受けたきりなのです。『外套~』の次にはダイアナ・プロダクションズ第2作でジョーン・ベネット主演の『扉の蔭の秘密』を製作しますが、ウェンジャー/ラング共同企画の独立プロ作品としては無謀なほどにセットに贅を凝らした大予算映画にもかかわらず同作は大コケしてダイアナ・プロダクションズも解散してしまいます。次にラングに依頼された企画はB級映画(主に2本立て西部劇)専門のリパブリックからの『ハウス・バイ・ザ・リヴァー』でした。これはキャストも製作費もおそらくラング全作品最低の低予算映画となり、またもやサイコ・サスペンスに取り組みます。川辺の館を舞台にしながら背景の川をスクリーン・プロセス(合成画面)で間に合わせている貧弱なセットやコントラストの強い映像には苦肉の策がうかがわれ、おそらくドイツ時代の大作の100分の1の製作費すらかかっていない小品ですが、前作よりも面白い映画になっているあたりあなどれません。今回の3作はラングの全映画でも不人気確実の作品ですが、やる気がなかろうとシナリオが破綻していようと来る企画拒まずで出来不出来などお構いなしに撮る態度がサイレント時代の昔からラングにはあり、戦後作品には徐々にムラが目立ち始めます。そのあたりがキャリアや知名度で並ぶ同時代の映画監督らと較べてラングの個性でもあり、代表作が上げづらい上に癖も強く、不器用かつ器用貧乏な作風と言えなくもありません。フリッツ・ラングともなれば観どころのない作品はない、と言いたいところですが「これはちょっと……」という作品も実はけっこうあって、中には覚悟のいる失敗作もかなりある。そのあたりがずばり一人上げれば年齢もキャリアもラングの弟子格に当たるヒッチコックの安定感とムラのなさに大きく水を空けられているとも言えます。ですがこの差が優劣とは片づけられないのが曲がりなりにも映画が創作物たるゆえんでしょう。

●5月28日(日)
『外套と短剣』Cloak and Dagger (米ワーナー'46)*106mins, B/W

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・「大戦末期、南フランス」の字幕に続いて通信員が「ドイツにウラン鉱石40両分を積んだ列車が向かった」と打電中ゲシュタポの包囲網に銃撃を受ける。OSS(CIAの前身)はドイツ/イタリア合同の原爆開発を阻止するため枢軸国側の物理学者たちの亡命誘致を画策、説得のため工作員としてアメリカきっての物理学者ジェスパー博士(ゲイリー・クーパー)をドイツ人物理学者に仕立て、レジスタンスのリーダーの指示でハンガリー出身の女性物理学者ローダ博士の行方を突き止め人質のハンガリー市民処刑回避の案で説得するが早くも主人公の身元が割れてしまい、ローダ博士の移送先を突き止めるも追い詰められたゲシュタポは博士を射殺し隠滅を図る。博士との会見からイタリアのポルダ博士との合流予定を聞いていた主人公はイタリアに向かい現地パルチザンジーナ(リリー・パルマー)らと合流。戦前から文通で交流のあったポルダ博士と面会すると博士は娘を人質に取られて原発開発を迫られていた。ポルダ令嬢の救出を条件に主人公はジーナと待機し、救出の報が届くまで1週間の間二人きりで隠れ家を転々とし恋愛感情が芽生える。亡命のためのプロペラ機を手配した約束の場所に向かうためボディーガードと死闘し、ようやく主人公とジーナは博士を連れて現地に向かうが救出されてきたポルダ令嬢は偽者の女スパイで令嬢は半年前に死亡したことを告げ、周囲はゲシュタポの包囲網に囲まれている。主人公はジーナの手引きでポルダ博士と秘密の地下通路から脱出、ジーナとの別れに主人公は「I'll be Back !」と抱擁し、博士と主人公を乗せたプロペラ機は飛び立つ。本作がハリウッド・デビュー作のリリー・パルマーの見せ場のため中盤の二人きりのラヴ・ロマンスに発展するシークエンスが延々長いが結局それが見所でもある。ポルダ博士奪還の場面の凶悪ボディーガードとの死闘は正味3分程度だが絞め殺しあいの肉弾戦は本作の白眉のシーン。後のラングへのインタビューによればプロペラ機内でポルダ博士は心臓発作で急死し、さらに突き止めたナチの原爆工場は強制労働者6万人(!)が処刑された上とっくに移動していた、という「そして戦いは続く」エピローグがあったらしいが、日本への原爆使用が行われため検閲で削除されたという。大スターのクーパー主演でリリー・パルマーも好演だが事実上大戦終結期の作品なのでこれでの反ナチ映画『マン・ハント』『死刑執行人もまた死す』『恐怖省』ほどの緊張感はない。かっこいいタイトルはOSS局員の「いわゆる"外套と短剣"部さ」との自己紹介からで、軍人は「軍服と拳銃」だが諜報員は「コートとナイフ」という対比による。十分面白いが前記3作の先行作品と較べると普通のスパイ・サスペンスという感じがするものの、終戦後の作品ならばテンションの低下は仕方ない気がする。メジャー製作で十分予算をかけた作品のはずだが雨のシーンは貧弱で雨量の乏しさを風でごまかしており(ごまかしきれず)、明らかな手抜きか美術スタッフの質の低下を感じさせる。マックス・スタイナーの音楽はローダ博士との面会では東欧民族音楽、ドイツのバールではウィンナーワルツ、イタリアの市街ではカンツォーネと遊んでいて楽しい。

●5月29日(月)
『扉の蔭の秘密』Secret Beyond the Door (米ユニヴァーサル'48)*99mins, B/W

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・冒頭のヒロイン(ジョーン・ベネット)のモノローグから始まり謎めいた男(マイケル・レッドグローヴ)との電源結婚、男の館には不気味な女執事、男の過去に潜んだ前妻の不審死、とまるっきりヒッチコックの『レベッカ』'40なのには居心地が悪くなる。ジョージ・キューカーの『ガス燈』'44の例もあるし『レベッカ』の焼き直しなのはかまわないが、似た効果を狙った所と独自のアイディアを持ち込んだ面が羊頭狗肉で上手くいっていない。さらに謎の解明が思いつきめいた通俗的精神分析なので思いっきりコケてしまうばかりか映画を盛り上げて終わらせるために無理矢理な結末をこれまた『レベッカ』から持ってきて滅茶苦茶なラストになっている。ラングの場合は細部はやたら複雑でもいつも話の骨格は単純なのだが、この作品では細部と根本がそもそもまったく馴染んでいない。脚本家は当時ラングの愛人だった女性らしく、ドイツ時代は脚本家が当時の夫人でうまくいっていたのに本作のシナリオでOKとするのはご機嫌取りではなかろうかと邪推したくなる。とにかく豪華なセットや過剰なムードでどうにかしようとした結果ますます本筋の陳腐さ(陳腐であること自体は悪くない)が浮いてしまった。単純に言えば本作は「青ひげ」話の裏返しで、少年時代に病弱な母にショックを与えて殺してしまった、と思いこんでいる男がおり、前妻も同様な死に方をしたために自分が前妻を殺したという妄想につきまとわれ、前妻との息子からも「母を殺した」と憎まれている(この連れ子もこわい)。男は現代建築の権威かつ犯罪研究マニアで自宅の館に近世から現代までの著名な殺人現場を再現した部屋を作っている(このセットも無駄に豪華)。ヒロインは夫に殺されると妄想し、男もまたもや妻を死に追いやってしまうのではないか、と妄想している。だがヒロインは夫の過去のトラウマを解明してすべてが事実無根だと説得し、一件落着と思いきや夫婦仲の回復を恨んだ女執事が屋敷に放火して因縁の館は焼失、夫の捨て身の救出で愛を確かめあったヒロインと男は妄想から解放され結ばれる……と、館の炎上シーンが取ってつけたようで女執事や連れ子の運命も定かではないまま主演カップルのラヴシーンで唐突に終わる。ラヴェンダーの香りを物語の鍵とした着想はいいがごてごてした映像に着想が埋没してしまっているし、音楽はミクロス・ローザだがあまりに全編流れっぱなしで凝りすぎたモノローグの洪水とあいまってかえって興を削いでいる。と良い所がひとつもないような映画だが、伝わってくるものはある。本作はトーキー以降の作品ではサイレント時代のラングにもっとも近く、いっそサイレント作品だったらまだしも整理された内容になっただろう。ヴォイス・オーヴァー技法など明らかに過剰で、一貫性を考えず技巧だけを凝りまくったせいで破綻を来してしまった。つまり器用貧乏が裏目に出たので、アメリカ時代のラングは低予算でもっと単純率直に作った場合の方がすっきりした映画になる。本作がコケてB級映画のリパブリック社で作った次作『ハウス・バイ・ザ・リヴァー』が実際そうなったのは順当でもあるし、同じサイコ・サスペンスでも本作より次作の方がよほどラングらしい皮肉の効いた出来になっている。ラングの場合別に本作の失敗から学んでそうなったのではなさそうなのが面白い。

●5月30日(火)
ハウス・バイ・ザ・リヴァー』House by the River (米リパブリック'49)*85mins, B/W

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・19世紀末のニューイングランド。川辺の館には作家スティーヴン(ルイス・ヘイワード)は妻マージョリー、ばあやのアンブローズさん、若いメイドのエミリーと暮らしている。川は動物の死骸や粗大ゴミが流れている汚さでばあやがボヤく。エミリーが使用人用バスルームが調子がわるいので主人夫妻のバスルームを使っていいか、「いいよ」とスティーヴン。庭からバスルームに灯る明かりが見える。スティーヴンは居間に戻ってボツ原稿の包みを開いて不機嫌になる。排水溝に湯を抜く音がしてスティーヴンはとっさにロウソクを消して待ち構える。バスローブ姿で階段を下りてくるエミリーに欲情したスティーヴンは妻は留守だからとエミリーに迫るが抵抗にあい、窓から見えるばあやの姿に焦ってエミリーを組み敷き、勢い余って絞め殺してしまったのに気づく。そこに幸か不幸かスティーヴンの兄ジョンが訪ねてきて、口から出任せでジョンに手伝わせズタ袋に死体を詰め川に棄てる。その時魚が水面からピョンと跳ねるのが谷岡ヤスジのようで可笑しい。家に戻ったスティーヴンが居間でぐったりしていると階段からバスローブ姿の女が下りてくる。帰宅した妻のマージョリーなのだが、意図的にエミリーの場面と同じ構図で登場するのでスティーヴンはびびる。しかも夫婦はこの後予定していたフォークダンスの会に行く、と笑えないギャグが効いている。数日と経たず川が増水し、スティーヴンは死体を詰めたズタ袋が浮いているのを目撃、どうにかしようとボートで近づくがたぐり寄せようとしてしくじり、袋の裂け目から髪が広がる。結局死体は発見され、ズタ袋にジョンの名前が記名してあったことでジョンが殺人容疑で起訴される。スティーヴンはわざとジョンがエミリーに気があった等と虚偽証言するがジョンは口を割らず、村では人格者と信頼があるので証拠不十分で無罪になる。ジョンはマージョリーにもう嫌になった自殺したい、と打ち明け、かねてからジョンに好意を寄せていたマージョリーは夫にジョンの悩みを相談する。ジョンが自殺すれば万事解決なのでスティーヴンはジョンを夜中の川辺に呼び出しマージョリーに気があるんだろうとなじり、憤然として背を向けたジョンをボートの繋鎖で殴り倒して川に放り込む。映画はあと残り5分。スティーヴンが帰宅するとマージョリーはスティーヴンの書きかけの原稿に読みふけっていて、それはエミリー殺害以降の一部始終を書いた実話小説だった。見たな、と妻を絞め殺しにかかるスティーヴンが物音に振り返るとずぶ濡れのジョンが戸口に現れており、パニックを起こしたスティーヴンは逃げようとしたがはためくカーテンをエミリーの亡霊と錯覚し、カーテンに巻きつかれてスティーヴンは階段から転落死する。寄り添うジョンとマージョリー。カメラが卓上にパンすると、スティーヴンの原稿は「House by the River / Stephen Byrne」と表題が記されていた。何だこれは、主人公の変態殺人者が自滅するだけの映画ではないか、と言ってしまえば簡単だがこの居心地の悪さもラングの意図と見たい。順序は逆かもしれないがハリウッドを追放されたインディー映画の雄、エドガー・G・ウルマーの諸作みたいなのだ。ラングがウルマー作品を観ていたとは思えないしウルマーはラングを観ていたとしてもラングからの影響があるとは思えない。ちなみに本作の音楽は現代音楽の過激派ジョージ・アンシール(!)。バイト仕事としてもアンシールが映画音楽(この場合ラング作品というより、B級映画)に関わっていたとは仰天する。『扉の蔭~』のミクロス・ローザの起用は裏目に出ていたが、アンシールは本作のようなB級映画で痛快に炸裂していて華を添えている。ともあれラング作品中ぶっきらぼうな良さがいさぎよさになっている点では無駄に細部に凝りたがる傾向の強いラングには珍しく、『扉の蔭~』もラングなら本作もラングなのだが、翌年の次回作はラング全作品中最大の異色作として悪名高いものになるのだった。