人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

蒲原有明「牡蠣の殻」「甕の水」(創元社『蒲原有明全詩集』より)

蒲原有明明治9年(1876年)生~昭和27年(1952年)没
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牡蠣の殼


牡蠣(かき)の殼(から)なる牡蠣の身の
かくもはてなき海にして
獨(ひと)りあやふく限ある
そのおもひこそ悲しけれ

身はこれ盲目(めしひ)すべもなく
巖(いはほ)のかげにねむれども
ねざむるままにおほうみの
潮(しほ)のみちひをおぼゆめり

いかに黎明(あさあけ)あさ汐(じほ)の
色しも清くひたすとて
朽つるのみなる牡蠣の身の
あまりにせまき牡蠣の殼

たとへ夕づついと清き
光は浪の穗に照りて
遠野(とほの)が鴿(はと)の面影に
似たりとてはた何ならむ

痛いたましきかなわたづみの
ふかきしらべのあやしみに
夜もまた晝もたへかねて
愁にとざす殼のやど

されど一度(ひとたび)あらし吹き
海の林のさくる日に
朽つるままなる牡蠣の身の
殼もなどかは碎(くだ)けざるべき

(初出・明治34年=1901年5月「明星」、詩集『草わかば』より)

甕の水


甕(かめ)の水濁りて古し、
このゆふべ、覆(くつが)へしぬる、
甕の水、
惜しげなき逸(はや)りごころに。

音鈍(にぶ)し、水はあへなく、
あざれたる溝(みぞ)に這ひ寄り、
音鈍し、
呟(つぶ)やける「夢」のくちばみ。

去(い)ねよ、わが古きは去ねよ、
水甕の濁き底濁り、
去ねよ、わが――
噫(ああ)、なべて澱(をど)めるおもひ。

耀(かがや)きぬ雲の夕映(ゆふばえ)、
いやはての甕の雫(しづく)に、
耀きぬ、――
わがこころかくて驚く。

「戀」なりや、雫の珠(たま)は、
げに清し、ふるびぬにほひ、
「戀」なりや、
珠は、あな、闇(くら)きに沈む。

夜(よ)となりき、嘆くも果敢(はか)な、
空しかる甕を抱(いだ)きて、
夜(よ)となりき、
あやなくもこころぞ渇く。

(初出・明治40年=1907年1月「ひぐるま」、詩集『有明集』より)


 蒲原有明(明治9年=1876年3月15日生~昭和27年=1952年2月3日没)
もまた薄田泣菫(1877-1945)と並んで、明治35年(1902年)1月刊の第1詩集『草わかば』、明治36年(1903年)5月刊の第2詩集『獨弦哀歌』、明治38年(1905年)の第3詩集『春鳥集』、明治41年(1908年)1月刊の第4詩集『有明集』と4冊の古典的詩集を明治30年代~40年代に発表した、明治詩人の第一人者でした。泣菫には明治32年(1899年)の第1詩集『暮笛集』、明治34年(1901年)の第2詩集『ゆく春』、明治38年(1905年)5月の第3詩集『二十五弦』、明治39年(1906年)の第4詩集『白羊宮』がありますが、年齢は1歳年下ながら先んじて詩人デビューしていた泣菫が華のある可憐かつ大胆(泣菫の詩は破格文法、造語、喩法にあふれていました)な作風で人気を誇っていたのに対して、元々小説家志望だった有明の詩は悪く言えば生硬かつ地味で、往々にして難解の誹りを甘んじたものでした。啓蒙主義的に訳詩・創作詩の試作を発表していた森鴎外は日本の現代詩の動向を指導者的使命感から注目していましたが、鴎外没後に発表された、英文学者・翻訳家の妹、小金井喜美子に書き送っていた書簡でしばしば雑貨発表の現代詩について所見を記し、造語と破格文法だらけの泣菫の詩を批判する一方で有明の堅実な作風を賞賛しています。鴎外の泣菫批判はあくまで鴎外の文学観からで羨望や嫉妬も混じっており、裏返せばそのまま泣菫への讃辞にもなるものですが、有明の詩への賞賛は率直なもので裏表のないものでしょう。有明の詩は象徴主義詩を指向した第3詩集『春鳥集』と第4詩集『有明集』が代表作とされますが、有明の詩としては例外的に人口に膾炙した「牡蠣の殼」は第1詩集『草わかば』にあって素朴な感動を湛えた名作で、有明には島崎藤村の明治34詩集(1901年)第3詩集『落梅集』収録の詩篇「椰子の実」(のちに歌曲化されましたが、作曲・放送・レコード発売は昭和11年=1936年です)が念頭にあったと推定されています。しかし詩としては有明の「牡蠣の殻」は「椰子の実」より格段に渋いもので、この渋さは同じ音楽的な性格の詩であっても歌われるよりも淡々と朗読されるにふさわしいものであり、萩原朔太郎は生涯有明を敬愛していましたが、晩年には自宅の縁側でお銚子を傾けながら有明の詩を飽きずに暗唱し、「有明はいいな」とひとりごちていたという証言があります。

 巻頭の部「豹の血」から劇的で強烈な象徴主義詩が並ぶ第4詩集『有明集』は今日定評がある通り日本の象徴主義詩として最高峰を極めた、異様な共感覚に溢れた傑作詩集ですが、その中にあってもっとも地味な部類に入る詩集中盤の詩篇も佳作揃いであり、「甕の水」はしみじみ良い詩です。小津安二郎の映画『晩春』には壺の長いショットがありますが、さすがに詩で「甕甕甕甕甕……」と書くと高橋新吉になってしまいますからそれなりに甕をめぐる描写や心象が書かれているのですが、小島信夫の小説で精神的な危機感に見舞われた主人公が「甕の中に水がある……それは自明のことなのだろうか」と悩む描写があった記憶がありますが、小島信夫の小説の60年あまり前に「甕の水」をとっかかりにして何とも言葉にし難い感覚をこの詩は確かに定着しています。それは自然主義詩でもなければ象徴主義的抒情詩でもなく、このように書かれなければ霧消してしまったようなある一定の感覚であり、翻訳詩にはなく有明自身が現実から見出した一種の現象で、文語自由詩の体裁を採りながら文語によって縛られず、やや誇大な物言いになるのを承知で言えばおそらく生命の原初から生けるものが抱いてきた実存の虚数のような感覚です。有明が実際に精神的危機から来る神秘体験を経験し、また『有明集』創作時から結果的には文筆活動の引退を迫られるほどの重鬱にきったのがこの詩と無関係とは言えないでしょうが、「空しかる甕を抱きて、/夜となりき、/あやなくもこころぞ渇く。」という認識の状態に置かれた有明がほどなく詩を辞めてしまうのは回避できないことだったのを示すリアリティがここにあり、外国語詩に翻訳してもこの詩の本質は欠落しないでしょうが、日本語詩としてはこの「甕の水」に書かれた以外の文体でこれを再現することは不可能でしょう。「牡蠣の殻」と「甕の水」を結ぶテーマはひとすじのもので、それは薄田泣菫の「村娘」と「鳰の淨め」が結ばれているのと一見似ていますが、泣菫が「村娘」と「鳰の淨め」で書いたテーマは藤村の『若菜集』の「六人の乙女」から引き継ぎ、やがて立原道造に流れていくようなものでした。有明の「牡蠣の殻」はまだしも模倣者の現れる余地がありますが、「甕の水」では失語の一歩手前で書かれたような詩であり、さらに恐ろしいことに有明の詩には「甕の水」と同等かそれ以上の地点で破綻ぎりぎりに成立した詩がいくつも上げられます。おそらく賢明な泣菫は、有明のような地点には立ち入らないことで積極的にエッセイストに転身したのでしょうが、有明は生涯自作をより深い混迷に向けて改作し続けたのです。