土井晩翠・明治4年(1871年)生~昭和27年(1952年)没
「荒城の月」
明治卅一年頃東京音樂學校の需に應じて作れるもの、作曲者は今も惜まるる秀才瀧廉太郎君
春高樓の花の宴
めぐる盃(さかづき)影さして
千代の松が枝わけ出でし
むかしの光いまいづこ。
秋陣營の霜の色
鳴き行く雁(かり)の數見せて
植うるつるぎに照りそひし
むかしの光今いづこ。
いま荒城のよはの月
變らぬ光たがためぞ
垣(かき)に殘るはただかづら
松に歌ふはただあらし。
天上影は變らねど
榮枯は移る世の姿
寫さんとてか今もなほ
あゝ荒城の夜半の月。
(明治31年=1898年作、発表・明治34年=1901年『中学唱歌集』)
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仙台生まれの英文学者の詩人・土井晩翠(明治4年=1871年12月5日生~昭和27年=1952年10月19日没)は明治32年(1899年)4月・博文館刊の第1詩集『天地有情』によってすでに第1詩集『若菜集』(明治30年=1897年8月刊)、第2詩集『一葉集』(明治31年=1898年6月刊)、第3詩集『夏草』(明治31年12月刊)で当時の日本の詩の第一人者とされていた島崎藤村(1872-1943)に並ぶ名声を獲得しましたが、東京帝国大学で本格的に英文学とヨーロッパの古典文学を学び、高等学校英語教員(のちにイギリスへの留学を経て東京帝国大学二高英文学科教授)だった晩翠の詩は和漢洋の古典の教養とともにホメーロス、ダンテ、シェークスピア、ミルトンらの古典的な叙事詩を日本の詩に移植しようとしたもので、『天地有情』や第2詩集『暁鐘』(明治34年=1901年5月刊)でも史実に基づいた長編叙事詩が大半を占め、より若い蒲原有明・薄田泣菫・伊良子清白らによる長編叙事詩の試作へも大きな影響を与えましたが、イギリス留学を経て二高英文学科教授就任後の第3詩集『東海遊子吟』(明治39年=1906年6月刊)の頃にはより洗練された作風に向かっていた有明・泣菫らに較べて時代錯誤的な大仰さが目立ち、大正8年(1919年)5月の第4詩集『曙光』の刊行直後には全詩集『晩翠詩集』をまとめており、以降第5詩集『天馬の道に』(大正9年=1920年4月刊)、第6詩集『アジアに叫ぶ』(昭和7年=1932年8月刊)、第7詩集『神風』(昭和12年=1937年6月刊)がありますが、昭和5年(1930()6月刊行の岩波文庫の自選詩集『晩翠詩抄』に精髄は尽きていると言ってよいでしょう。晩翠は教授職を定年退職した60代以降ホメーロスの『オデュッセイア』と『イーリアス』の全訳をライフワークとしましたが、『雨の降る日は天気が悪い』を始めとするエッセイ集も面白いもので(同時期にイギリス留学していた夏目漱石は晩翠にスパイされている妄想を抱いており没後の全集収録の日記・書簡で公刊されましたが、漱石の根も葉もない妄想に困惑して弁明するエッセイなど晩翠の健康な精神を示す必読の面白さに満ちています)、詩集でも晩翠が意欲的に取り組んでいた長編叙事詩よりも小品の抒情詩に今なお薄れない感動があります。特に東京音楽学校(現・東京芸術大学)から中学唱歌用の歌詞を委嘱されて「荒城月」として作詞され、一般公募から瀧廉太郎の曲が採用されて明治34年(1901年)に『中学唱歌集』に発表された「荒城の月」は、初版本の『天地有情』には未収録ながら岩波文庫版『晩翠詩抄』からは『天地有情』期の作品として詩集に追加され(詩篇への詞書きはその際に付けられたらものです)、瀧廉太郎の作曲とあいまって明治時代の詩作品としては屈指の知名度を誇る名作です。唱歌を意識して難解な隠喩や古典詩からの引喩を排し、七五調の単調な韻律ながら鮮やかなイメージによって韻律の単調さを感じさせず、ほとんど超時代的な情緒への訴求力によって島崎藤村の第4詩集『落梅集』(明治34年8月刊)の「千曲川旅情の歌」に収録された「小諸なる古城のほとり」や「千曲川のほとりにて」、また伊良子清白の明治38年(1905年)の詩篇「漂泊」(詩集『孔雀船』明治39年=1906年刊収録)に匹敵する普遍的な感動を呼びさます詩篇となっています。
この詩を歌曲化した夭逝の作曲家・瀧廉太郎(1879-1903)による作曲も本格的な西洋音楽法によりながらペンタトニック・マイナー・スケールを基にした和洋折衷の粋を極めたもので、瀧廉太郎の作曲によってこの詩は歌詞・曲とともに格調の高い日本を代表する歌曲として国内外を問わず広く愛されているのは言うまでもありません。そこで興味深いのは瀧廉太郎による作曲はニ短調(Dマイナー)の調性によるものなのですが、「春高樓の花の宴」の「はなのえん」のメロディーに当たる「ソソミレミ」の「え」=レの音は正式な西洋音楽法での二短調の和声的音階・旋律的音階では移動ドの場合レの♯になり、「えん」はレ♯~ミと半音程になります。瀧廉太郎の原曲ではこの曲はそうした正式な西洋音楽の楽理による和声的短音階によって記譜されています。しかし口承歌としてはこの曲はしばしばレに♯がつかず、すべてナチュラルのドレミソラド、またはシミソラドレと並ぶ民族音楽的ペンタトニック音階(五音音階)から「はなのえん」は全音程になるナチュラルのソソミレミとして歌われることが多いのです。ジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクは1965年録音のアルバム『Straight No Chaser』でこの曲を「Japanese Folk Song」として録音し(モンクは1963年に来日公演を行っており、その際この曲を知ったと思われます)、ペンタトニック音階によって「えん」の箇所をナチュラルのレ~ミの全音程で演奏・録音しています。一方ドイツのロック・バンド、スコーピオンズは1978年の来日公演からのライヴ・アルバム『蠍団爆発!~トーキョー・テープス』にこの曲の来日公演でのライヴ演奏を収めていますが、ヴォーカルのクラウスは「花の宴」の「えん」をレ♯~ミの半音程で歌い、日本人観客が「えん」をナチュラルのレ~ミの全音程で合唱しているのと対照を来す現象がレコード化されています。おそらくモンクは日本人関係者から教わった口承旋律通りに演奏し、和声的短音階ではない「えん」のナチュラルのレ~ミの全音程からブルースに共通したペンタトニック音階による民謡(フォーク・ソング)性を感じてカヴァーしたと思われ、他方スコーピオンズは瀧廉太郎による原譜をきちんと参照して西洋音階法による和声的・旋律的短音階で演奏・歌唱するも、日本人観客に口承されている旋律はペンタトニック音階だったのでクラウスの歌う旋律と観客の合唱に齟齬が生じたと考えられます。以上、筆者は音楽理論は普通科高校の音楽授業の楽典止まりの独学者ですので不正確な分析でしたら陳謝しますが、作者不詳の伝承民謡として演奏したセロニアス・モンクにしても、日本の生んだ洋楽として瀧廉太郎の原譜通りに忠実に演奏・歌唱したスコーピオンズにしてもどちらも解釈には正統的な根拠があり、「荒城の月」という名曲が土井晩翠の原詩、瀧廉太郎の作曲とも明治期の歌曲として不朽の作品であるとともに、西洋文化の咀嚼に十分成功しながらも日本ならではの土着的感覚を同時に備えたものだったのは興味が尽きない現象で、そうした和洋の揺らぎこそがおそらくさりげない小品抒情詩でしかないような「荒城の月」を詩としても名作、歌曲としても名曲にしており、イメージの豊さ・ふくらみをもたらしているように思えます。