人生は野菜スープ~usamimi hawkrose diary

元雑誌フリーライター。勝手気儘に音楽、映画、現代詩、自炊などについて書いています。

蒲原有明『春鳥集』明治38年(1905年)より

蒲原有明明治9年(1876年)生~昭和27年(1952年)没
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日のおちぼ


日の落穗(おちぼ)、月のしたたり、
殘りたる、誰(たれ)か味ひ、
こぼれたる、誰かひろひし、
かくて世は過ぎてもゆくか。
あなあはれ、日の階段(きざはし)を、
月の宮――にほひの奧を、
かくて將(は)た蹈(ふ)めりといふか、
たはやすく誰か答へむ。

過ぎ去りて、われ人知らぬ
束の間や、そのひまびまは、
光をば闇に刻みて
音もなく滅えてはゆけど、
やしなひのこれやその露、
美稻(うましね)のたねにこそあれ、――
そを棄てて運命(さだめ)の啓示(さとし)、
星領(し)らす鑰(かぎ)を得むとか。

えしれざる刹那(せつな)のゆくへ
いづこぞと誰か定めむ、
犧牲(にへ)の身を淵にしづめて
いかばかりたづねわぶとも、
底ふかく黒暗(くらやみ)とざし、
ひとつ火(び)の影にも遇はじ。
痛きかな、これをおもへば
古夢(ふるゆめ)の痍(きず)こそ消えね、
永劫(とことは)よ、脊に負ふつばさ、
彩羽(あやは)もてしばしは掩(おほ)へ、
新しきいのちのほとり、
あふれちる雫(しづく)むすばむ。

(初出・明治37年=1904年1月「新聲」)

魂の夜


午後四時まへ――黄(き)なる
冬の日、影うすく
垂れたり、銀行の
戸は今とざしごろ、
あふれし人すでに
去り、この近代(ちかつよ)の
榮(さかえ)の宮は今、
さだめや、戸ざしころ――
いつかは生(せい)の戸も。

かくてぞいやはてに
あき人(びと)、負債(おひめ)ある
身の、足たづたづと
出でゆくそびらより、
黄金(こがね)の音走り
傳へぬ、こは虚(むな)し、
きらめく富(とみ)のうた、
惱みの岸嘲(あざ)み
輝く波のこゑ。

見よ、籍册(ほさつ)の金字(きんじ)――
星なり、運命の
卷々(まき/\)音もなし。
一ぢやう、おひめある
ともがら(われもまた)
償(つぐな)ふたよりなさ、
囚獄(ひとや)の暗やみふかき
死しの墟(つか)、――いかならむ、
嗚呼、その魂(たま)の夜よる。

(初出・明治38年=1905年3月「精華」)

誰かは心伏せざる


煙は鈍(にば)む日に、
映(うつ)りて、くらきむらさき、
ながれぬ、霜の壓(お)す
弓かとひくく撓(たわ)みぬ。

悶(もだ)ゆるけぶり、世の
底なるいぶきか壞(く)ゑくゑ
うづまき去るかなた、
ねびてぞ墜つる日黄(き)なる。

夕ぞらよどむとき、
靜かに、重おもし、すさまじ、
巷(ちまた)を空(むな)ぐるま
まろびてゆくに似たらず。

見よ、今煤すすばめる
「工廠(こうしやう)」いくむねどよみ、
その脊(せ)をめぐらすや
いさ、かの天(あめ)の耀光(えうくわう)。

聖なるちからには
后土(おほつち)とどろき、蒸して
騰(あが)れるゆげには
うるはし花こそこもれ。――

かからむ花はまた
世になし、ひらめくひかり
遽(には)かに窓を洩れ、
強き香(か)照らす束のま。

鳥啼(な)く――ああ鐵槌(つち)の
ひびきよ、かぎろひけぶる
ただなか、戰(たたかひ)の
胸肉(むなじし)刻む聲なり。

誰かはこのほとり
ゆく時こころ伏せざる、――
痍(きず)にか、身に逼(せま)る
道にか、高き御名(みな)にか。

(初出原題「工廠」・明治37年12月「婦人界」、以上3篇詩集『春鳥集』明治38年7月より)


 蒲原有明(1876-1952)の第3詩集『春鳥集』は日本初の象徴主義詩集と名高い作品集ですが、詩集中でももっとも毀誉褒貶を生んだ詩篇「朝なり」に見られる通り自然主義的な題材を多く含む詩集でもあります。詩集巻頭詩「日のおちぼ」は第4詩集『有明集』に連なる内省的抒情詩の形態をとった象徴主義詩ですが、この詩の五七調の柔軟さは藤村、晩翠らやや年長の詩人、また有明のライヴァル的存在だった薄田泣菫の七五調中心の韻律よりも口語自由詩に近い発想によるもので、「日の落穗(おちぼ)、月のしたたり、/殘りたる、誰(たれ)か味ひ、/こぼれたる、誰かひろひし、/かくて世は過ぎてもゆくか。」は有明の詩としてはもっとも平易な語彙と修辞によって優れた音楽性を実現しています。萩原朔太郎は手酌で一杯やりながら「有明はいいな」と有明の詩を愛唱してやまなかったと伝えられますが、師事した白秋以上に有明の詩から萩原朔太郎の詩に直接流れこんだのがこうした有明の詩の音楽性なのは間違いなく、「日の落穗(おちぼ)、月のしたたり、/殘りたる、誰(たれ)か味ひ、」で効いている「i」音の母音韻への鋭さは有明や萩原のような詩人ならではのものです。

 他方『春鳥集』は「朝なり」系統の自然主義象徴詩も含んでいて、夕方から閉店後の夜にかけての銀行を詠った「魂の夜」、やはり夕方から夜のとばりが下りる工場を詠った「誰かは心伏せざる」は具体的な銀行の情景、工場の情景を叙述しながらそれらが詩人の心象風景に転じていく過程を作品化したものです。この2篇は自然主義詩としては「朝なり」よりも対象の把握力のあいまいさによって弱く、また心象風景から象徴詩に展開する必然も弱く、必ずしも成功作とは見なせない、あと一歩のところで焦点を欠いた印象を受ける詩です。「朝なり」がいかに際どいところで成功作になっていたかを思わせる仕上がりで、それは朝の用水路の情景の自然さと銀行、工場といった意欲的ながら作為的な題材の差にもよるでしょう。有明は麹町(千代田区)生まれの都会人でしたが、岡山生まれの泣菫、また長崎生まれの北原白秋兵庫県生まれの三木露風がこなしたような都会的感覚にかけては生まれながらに都会になじんていたようなところがあり、群馬県生まれの萩原朔太郎が想像力の中で都会に焦がれたような熱っぽさよりも水道橋の陸軍工場(現東京ドーム)脇の用水路や銀行、工場といった題材に距離をつかみかねていたと思えるような隔靴掻痒さが残ります。「朝なり」では日常的な用水路の溝水にたまたま上手く鬱積した気分が合致さたのですが、「魂の夜」「誰かは心伏せざる」ではまずテーマありきでそれなりに形をなしたものの、有明自身の心象は題材と必ずしも一致しなかった観があり、結果的にこれらの詩は白秋、露風、また萩原朔太郎らの都会情景の詩の先駆をなしはしたものの、有明の詩としては消化不良気味な意欲作にとどまります。まだ都市をテーマにするには日本の明治の詩は勇み足だったと言うべきで、泣菫は賢明にも多層的な抒情詩の場合は古代や中世、近世と現代との重ね合わせによって「公孫樹下にたちて」や「ああ大和にしあらしかば」「望郷の歌」のように地誌的想像力によって近代的な都市感覚を巧妙に避けたロマン主義詩に力量を発揮していました。有明の本領は「日のおちぼ」のようなより抽象的な心象詩にあり、第4詩集『有明集』で詩集の中心となるのは「日のおちぼ」の延長線上にある幻視者的想像力を働かせた抒情詩です。しかし成功しなかった作品にもその実験性によって働く魅力があり、「朝なり」「魂の夜」「誰かは心伏せざる」の系統によって有明の詩が十全な発展を見せていたらと思わせられもするので、のちの白秋の詩集や萩原朔太郎の詩集には有明の詩では可能性にとどまっていた一面の実現が確かにあることから、有明の試みには十分予見的な働きがあったと認められるものでしょう。また有明は生涯自作の改訂を続けた詩人でしたが、実験的な作品ほど後年の全詩集・選詩集では改訂の度合いも大きくなっています。何よりも有明自身が自作に満足していなかったのが改作過程からはうかがわれ、特に詩集『春鳥集』は数次に渡って全面的に改作を重ねられています。そのあたりも有明という詩人の特異な性格を示すだけに、軽々と結論を出すのがためらわれるのです。